第四十則 擢倒浄瓶

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ある弟子が和尚の下で炊事責任者をしていた。和尚は他の寺に僧を派遣しようとして弟子達を試し、床に水差しを置いて言った。 「これを水差しと呼んではいけない。では何と呼ぶか」

一番弟子が「切り株とは言えない」と言った。炊事責任者の番になると彼は水差しを蹴倒して出ていった。 和尚は笑って、「一番弟子はあの弟子に負けた」と言ってその弟子を別の寺の和尚とした。

無門和尚の解説:出ていった弟子は勇気のある優れた僧であったが、やはりこの和尚の輪の中から飛び出すことは出来なかった。 よく考えればこの弟子は楽な仕事から出て重い責任ある仕事を選んでしまったのだ。なんということか。 この弟子は軽い鉢巻きを外して、重い鉄の枷をはめたようなものだ。


物事を説明する場合、単一の言葉だけでその本質を説明し尽くすことは難しい場合があります。 AでありBであり、かつCである、と異なる範囲から説明し重複する部分から対象を理解してもらおうとする方法と、 EでなくFでなくGでない、と否定部分を抑えて残った部分で説明する方法があります。

特に対象物に名前がない、または明快な概念がない場合には後者の方法が用いられます。 たとえば現在の宇宙の始まりとされるビッグバンが発生する前には、時間も空間も物質もない状態があったといいます。 この状態を説明するには「時間も空間も物質もない」という否定表現以外の方法は見当たりません。 人間はその状態を表現する共通の言葉をまだ持っていません。

同様に禅の世界でも、まだ人間がそれを表現する言葉を持っていないものをも扱っています。 また、禅は特に言葉により対象を限定してしまうことを嫌います。理屈ではない、言葉ではない、と繰り返し強調するのは、 一つの言葉で定義してしまうとその言葉の持っている一般的な意義、その言葉を受ける人の持っている定義、 その言葉に関連した本来関係のない事柄などを通じて解釈されるからでしょう。

しかし否定表現は注意しないとあいまいなままになってしまいます。「ほら、今下駄咥えて逃げていきやがったんだ、 馬が・・じゃねえ、鹿、じゃねえ、ほら、猫じゃねえ、じれってえな」「キリンか?」などということになってしまいます。 ここでは和尚が練習問題として水差しを取り上げ、これの本質を何と呼ぶか、と問いかけています。



一番弟子の「切り株とは言えない」という答は禅の表現方法の第一歩としては適切なものでしょう。 全く水差しと共通なものを含まない言葉を並べてゆくことで水差しに含まれている本質を炙り出してゆくことが出来ます。 では水差しは「柏の樹とは言えない」でしょうか。これも興味あるアプローチです。

ところが他の僧がこれを蹴倒して出ていきました。水差しでないのなら蹴倒したって構わないはずだ、という解釈もありますが、 それだけではないでしょう。この僧は蹴倒す動作によって水差しという言葉の中に含まれる本質を示そうとした、と考えます。

一番弟子の「切り株とは言えない」というアプローチは出発点として正しいものでしょうが、 「水差しではない」という条件も設定してしまったら、その後いくら「〜ではない」を繰り返しても一旦失われた本質を掴むことは出来ません。 これは否定から始める物事の理解の方法の欠点でしょう。

「起こり得ないことを全て除外してゆけば、残されたものはいかに信じ難いものであってもそれが真実である」 と著名な小説の探偵が言いました。これに対し、他の有名な探偵は、「起こり得ないことを全て除外してゆけば、 何が残るかが分かる」と前の探偵を批判しました。

一番弟子は和尚の設問を鵜呑みにし、水差しと呼んではいけない、という課題の意味を見失っていました。 他の僧は本質を外されてしまった水差しを蹴倒すことでこれを指摘しました。

悟りに近づいて、文字や解説書の知識は無意味なものであるとして、焼き捨てた僧がありました。 確かに言葉になり文字になったものは余分なものを持ち込んでいます。 本質を理解するには邪魔になるだけでなく害をなすものもあるでしょう。

しかし、それらの解説書や知識にも本質の一部があったはずです。自分をここまでにしてくれた糧となったはずです。 言葉の中にも真実は含まれています。それを自分が悟ったからといって全面的に否定するようになってはならないでしょう。 水差しを水差と呼ぶことを否定し、本質を蹴飛ばしてしまうようなものなのです。



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犬足:「ビッグバン理論は間違っています。何故なら、”無から宇宙が生じる”などということはあり得ないからです」と主張した人がありました。 これはビッグバンの前は「時間も空間も物質もない」状態であった、ということを「何もなかった」と誤解したからでしょう。

禅には否定的表現が多く使われます。「ではそれは○○のことか」と肯定的に表現しようとすると 「そのような浅薄な解釈で満足するのは大間違いである」と切り捨てられます。 しかし何が否定されているかを見誤ると、蹴飛ばされた水差しのようになってしまいます。
この則では、否定を積み重ねた表現方法の持つ危うさを指摘した、と考えました。

標記の人の誤りは、時間、空間、物質が現実の全てであり、それらがない「無」の状態とは何もない状態で、 そこから何かが生み出されるはずがない、と考えたことでしょう。しかし、時間、空間、物質とは人間が理解できる範囲での物事の在り方の表現に過ぎません。 それらがない、ということはその他の全ての存在を否定はしていません。

時間空間物質が全てない状態は、まだそれを表現する言語が確立されていませんが、「場」という言葉を当ててみましょう。 その「場」では何も物質がない所から正反粒子のペアが生み出されると言います。 また、「場」自体のゆらぎと不確定性により物質が時間と一緒に生み出されるそうです。 そこでの「時間」は、我々が現在感じている時間とは異なったものかも知れません。 だからどうなのよ、と言われそうですが、こういうフレキシブルな考え方は、現代の宇宙に関する様々な新理論を感覚的に理解する助けになるでしょう。