第四十一則 達磨安心

目次へ 次へ




達磨が座禅している外の雪の中に弟子が立ち、自分の腕を切ってまで教えを乞うた。「私はまだ心が安らぎません。安心させてください」 達磨は言った。「その心を持ってきなさい、安心させてやろう」 弟子は「心を捜してみたのですが、見つけることが出来ません」と言った。達磨は「お前のために安心させてやった」と言った。

無門和尚の解説:歯抜けの老達磨ははるばる海を越えてわざわざやって来た。これは風がないのに浪を起こすようなものだ。最後に一人弟子を救ったが、不具者にしてしまったではないか。達磨は何も知っていないのだ。


第十二則で、自分を眺めている自分も自分自身の一部であることを示し、安易に自分を客観的に眺める自分などというものはないのだと無門和尚は説きました。第二十三則では心の中に分け入り、善悪の判断の前の、自分の心の基本となっているものは何かを説きました。

ここでは心を大きな観点から見て、自分が安心できないと思っている自分、その自分を更に大きな自分の中に取り込んで行くことを説いているものと思います。その心を持ってきなさい、とは、お前が心と呼んでいるものは何かを考えてみよ。安心できないと言っていることはどういうことかを考えてみよ。そしてその心、安心できない心、安心できないと言っている心をもう一段上の自分から眺めてみなさい、という意味でしょう。

子供が映画や小説に感情移入し、興奮し、恐怖や心配で心が乱された場合など、どうせ映画の中のことじゃないか、と一歩離れることで安心を取り戻すことや、若者が失恋の痛手を癒すため、他にも女は沢山いるさ、などと強がったりするのも自分の立場を一つ高い立場から眺める卑近な例でしょう。

但し、いくら女はあいつ一人じゃないさ、と強がってみても、あのすばらしい女性との別れの悲しさは消えません。 正面から見詰めてくる知的な瞳、すっきりと通った細い鼻筋、仰向くと美しいハの字を画く清潔な鼻孔、 いつもいたずらっぽく微笑んでいるのに演奏になるときりっと閉じる唇。 たおやかな肢体に似合わない言動で会った途端に人を惹きつけてしまう明るさ。 こんな人には二度と巡り会えないだろう。なぜ遠くなってしまったのか、私の何を直せばいいのか。 またこの先も同じことが起こるのではないか、など、しばらくはとめどなく悩みが続きます。



もちろんこの弟子の悩みはそんな次元の低いものではなかったでしょう。 しかし悟り極めを繰り返しても、それぞれの段階での異なるレベルの不安心があります。 不安心とは自分の心がすっきりと答を見出せないものであり、 脳のニューロンの間を安定回路を見出せない刺激の流れが発散的に駆け巡るままになってしまった状態でしょう。

そこに一つの新しい回路を用意してやると、その刺激の流れは落ちつくところへ信号を送り込んで安定します。 その一つの方法はパソコンで言えばコントロールアルトデリートであり、 タスクマネージャによりプログラムの実行状態をチェックすることでしょう。

自分が不安である、という状態はどのプログラムが走っていて起きている問題か。 何故不安が生じているのか。これに対してその部分だけに正面から取り組んでも、 暴走しハングアップしたプログラムは制御出来ないことがあります。 人間という複雑なシステムも高度になるほどソフト上の問題も発生し易くなるのでしょう。


これを避ける一つの方法は問題を生じた部分を切り捨て、出きるだけ単純な基本システムに戻すことでしょう。 パソコンではセーフモードという起動方法が用意されています。 禅でも極力不要なものを捨てて本来の自分だけに戻ろうとするのはこのためかもしれません。

しかし、植物状態患者を目指すのでないかぎり、切り捨ててゆくだけでは真の解決は得られません。 高度なソフトはそのままにして、その中に生じたトラブルを処理し、またトラブルが生じないような堅牢なソフトにすることが大事でしょう。

具体策として、そのソフトの動きを一段高いところから眺めて見ることが有効でしょう。 これは子供のときの映画の恐怖に対し、映画を見ているという自分を一段上から認識することに相当します。

前述の女性との別れのケースでも、このようにその女性の美しさを自分で表現し書き並べて行き、 更に自分の憧れと悩みと後悔を全て吐き出してゆくうちに、いつのまにか心が澄んで来て波立っていた不安が収まって行きます。 これも一つの安心の方法でしょう。これは実際に私が体験したことで、敢えて例としてあげてみました。 本人にとっては重大なことだったので、低レベルの問題と笑わないでください。



第十二則では自分を側面から客観的に見るという 安易な方法では本当の禅はわからない、としていた無門和尚ですが、 ここでは自分自身の心を高い立場から見詰め直すことを説いています。

その心を持ってこい、とは、自分をただ側面から見るのではなく、自分を制御できるもう一つ上の自分から眺めてみよ、ということでしょう。目を覚ましているものと人に騙されるでないぞ、と言っている別のものがあるなどと考えてはならない。不安だと思っている自分の心を自分自身で把握し、持ち出してきてみなさい。


この弟子の答は、自分の心を捜したが見つかりませんでした、というのです。自分の心を捜している自分、それが自分の心です。部屋中の全ての箱が入っている箱、その中にはその箱自身も入っています。自分の心を捜す、という一段上の立場をとろうと努力した結果、この弟子の心はパラドックスの段階を一段上がりました。不安になっていた心を包含するもう一つのレベルへ到達しました。そのレベルでは不安になっていた自分はもうその一部分でしかないのです。

それは新しく到達したレベルの心の中に自然と取り込まれてゆき、部分的な脳細胞の範囲だけを駆け巡っていた脳内の刺激の流れは、より広い範囲の回路結合の可能性を見出して、落ちつき先を得て安定しました。さきほどまで安心できないでいた心はその過程で消滅してしまいました。

これは自分の心を持ち出す、という上のレベルから見たからこそ可能になったのであり、もう一人の自分を想定して安心していない自分を側面から見ようとするのでは実現できないでしょう。側面から別の立場で見るというのでは、不安でいる自分の心の部分を固定してしまい、それ以上の頭脳内の新しい回路構成が出来ないからです。不安である自分も自分の一部として一段上の階梯に上がらねばなりません。


人間の数十億あるという脳細胞はそのごく一部しか使われていないといいます。このような階梯上げはまだまだいくらでも可能でしょう。未使用のニューロンを使って新しい回路を組み上げて行くことには無限に近い可能性があります。その階梯での悩みや不安は、一段上の心に吸収させ、そしてその広がりをますます高めて行け、というのがこの則の意味と思います。

しかしその追求の道には果てがありません。ひとつ階梯が上がって安心が得られたとしても、更にその上があります。ここに気付いてしまうとまた新たな不安心の種が芽生えます。それは風のない湖に浪を起こしたようなものだ。この弟子はただ腕を一本失っただけではないか。まだ達磨自身も本当のところは分かっていないのだ、と無門和尚は解説しているのでしょう。



目次へ 次へ

犬足:「やりたいことをやるには一生は短すぎる、と言うが、その制限がなければ何もやりゃぁしない。 時間が限られているということは何よりの動機になるのだ」 僕の大好きなSF作家、JPホーガンが書いています。

定年退職後、初めて長期の海外旅行に出ましたが、帰りの飛行機の中で、「帰ってからまた仕事に出なくていいのだ」と気が付いて、 ほっとし、同時にはっとしました。 SFの世界では、不老不死を得た種族が、倦怠と停滞に陥るという話があります。 「超人ロック」のように自分だけが不老不死なのなら、周囲の変化に巻き込まれ、 それなりに意義のある生活も出来るでしょうが、世界全部が不老不死だったら・・・

何をしてもいいし、いつまでかかってもいい、というのはやる気をなくさせる要因であり、また却って不安心の種となるのでしょう。 締め切りがある方が仕事がはかどったり、手帳に日程がびっしり書き込まれていないと不安になったりします。 人生の締め切りがあることが、却って張合いと安心を生んでいるのかもしれないな、なんて思っています



お断り
私のページで使用している画像は、NASAにより公開されている宇宙の写真以外は主に自分で撮影しました。
但し、時折出てくる女性の顔は大幅に創作加工したものです。 私の知る限りご本人を含め似ている方はありませんが、もし似た方がおられましたら、空似としてご容赦ください。