第四十二則 女子出定

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釈迦が説法している場所に文殊が入っていくと、丁度仏達がそれぞれの場所へ戻るところであった。しかしまだ一人の女が釈迦の前で無心の境地に入っていた。文殊菩薩が「何故あの女が仏座の近くで禅の世界に入っているのですか」と聞いた。釈迦は「では目覚めさせて自分で聞きなさい」と言った。

文殊はその女性の回りを三度まわり、指を鳴らしたがその女性を目覚めさせることができなかった。釈迦は言った。「仮に文殊が百人千人集まってもこの女性を禅の世界から引き出すことは出来まい。この地はるか下にいる最下位の罔明菩薩なら出せるであろう」
するとたちまち罔明が現れ、ただ一回指を鳴らすとその女性はすぐに目覚めた。

無門和尚の解説:年老いた釈迦は一幕の芝居を見せた。たいしたものだ。文殊は仏の中の師匠といわれるものなのに、何故引き出すことが出来なかったのか。罔明は初歩の菩薩なのに何故出来たのか。このところが判るなら、茫茫としたこの世界が全て禅三昧となろう。

無門和尚はまた詠って言う。目覚めさせることが出来ようと出来まいと、いずれも自由なのだ、失敗を犯すことも風流なのだ、と。


禅の修行が進み自己が確立してくると、自分だけの境地に篭り、外界との接触を断った三昧の世界に入ることがあるということです。それは幸せの極致であり、自分としては理想の世界なのでしょう。

研鑚を重ね自身を確立してゆくと、もうこれ以上外部の知識指導は不要、と思うときが来るかもしれません。いかに文殊の知恵を働きかけても醒めることのない境地に篭ってしまうかもしれません。

しかし、知恵を重ねた外部からの働きかけは一切不要であり影響も受けないと思う程に安定した三昧の境地にあったとしても、ほんの一つの初歩的な煩悩、罔明の指の一鳴らしによりその三昧の境地はあっさりと崩され、醒めてしまうことがあります。

いかに学び悟ろうと、外界を一切遮断した三昧の境地などにはなり得ないし、なるべきでもないでしょう。いつでも文殊の呼びかけに応え、罔明の声も変わらずに聞く自在の姿がなければなりません。本当の三昧の境地とは文殊も罔明もさわやかに受け入れ続ける大きな自分です。

この則は、無門関も終わりに近づいているが、いかに勉強し修行したからといって外部を断絶した自己満足に陥ってはならないぞ、 という無門和尚のご注意でしょう。最終的にはそのような段階も超越した、目覚めるも目覚めないも自由自在な、 全てを許容し自在となる自分があるべきでしょう。簡単に目覚め、失態を犯すこともまた自由なのです。


犬足:「どんなに憎らしいこと言っても、機嫌を直したときの輝くような笑顔は美しい人の特権でしょう。 まぶしい笑顔、と言われるように、笑顔を向けられただけで目を合わせることが出来なくなってしまった頃もありました。 また、全てを弛緩させて静かに眼を閉じた顔には、見てはいけないような、見なければ損をするような、不思議な感動があります。

お坊様と弟子が若い女性を肩車して川を渡し、しばらく経ってから弟子が「よく惑わされることがないですね」と聞いたら 「お前はまだ担いでいるのか。わしはあそこで下ろしてきたぞ」と言われたというような話を聞いたことがあります。

美しい笑顔や寝顔を見ても、心乱されることなく、ああ、きれいだな、と楽しめるようになったのは、 己の欲する処に従いて則を超えずの境地なのか、単に破廉恥な中年男が人畜無害の領域に入っただけなのでしょうか。

しかし笑顔も寝顔も表面的なものであり、その背後にどんな感情や病気が潜んでいるかは、なかなか判らないのですけど。


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