第四十三則 首山竹箆

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和尚が竹箆を示して皆に言った。「これを竹箆と呼べば名前に縛られてしまう。竹箆と呼ばなければ違うことになる。さあ、何と呼んだららよいか」

無門和尚の解説:これを竹箆と呼べば名前に縛られてしまう。竹箆と呼ばなければ違うことになる。呼んでもいけない、呼ばなくてもいけない。さあ早く言え、早く言え。

これは第四十則と同様、あらためて物の概念と本質を問う問題だと思います。しかし無門和尚はここでは回答を用意していません。ここまでの全ての則が分かったか。ではこの例題に自分で答えてみよ、と無門和尚は同じような問題を挙げてその理解を確認しています。

ここでは第四十則と異なり、竹箆と呼ぶことを全面否定していません。竹箆と呼ばなければその本質を見失ってしまうというのは、水差しを水差しと呼ぶことを否定したらどうなるか、という第四十則の復習になっています。否定してはいけないといって、そのまま名前を受け入れたのでは水差しと同様、要らぬものまで付いて来てそれに縛られてしまいます。では何と呼んだらよいでしょう。


物事は自分だけが理解していればよいというものではないのです。前則で確認したように常に外部からの働きかけ、影響を受け入れ、外部にも働きかけて自己を拡大してゆかねばなりません。
また、物事を適切に言葉で表現するということは、そのことを他人と伝えあうだけでなく、そのものに対する自他共の理解を深め、同時にその価値を高めます。対象物を様々に描写記述することで、その実物以上のものを認識することが出来ます。

禅の体験も悟りも、それを他の人々と共有しようとすると言語が必要となります。ただ物事を記述する合言葉として必要になる物の名前だけでなく、その本質を伝える表現が可能になったとき、そこに禅の精神の伝授が成立します。それを共有するための努力が修行であり公案でしょう。ここで和尚はそのトレーニングとして竹箆を取り上げています。


竹箆を単に竹箆と呼ぶのでは、禅の悟りを「迷いが解けて真理を会得すること」と言って済ましているようなものでしょう。しかし何か適切な言葉は必要です。禅は言葉を超えるものだといっても言葉を否定してはいません。理屈での理解を超えるもの、であって理解を否定するのではありません。

理屈や言葉だけで分かった、と思うのは竹箆を竹箆という言葉で理解したと思うことと同じでしょう。それでは真の心のコミュニケーションは成立しません。禅の表現にも絵画、書道、詩歌、小説に劣らない表現の手法が要求されます。

自分一人が悟ればよい、他人に対するコミュニケーション技法など要らないというのなら、どこかで自分一人で座禅をしていればいいのです。 禅寺へ来て修行などする必要はありません。


さあ、この竹箆の本質を表現してみよ。その本質と思うことをすべて俺の前に並べ挙げてみよ。さあ言え、さあ言え、と無門和尚は迫ります。

この和尚の指導の現場では実際に皆がそれぞれ本質と思う表現を披露することになるのかもしれません。それが自分の草鞋を頭の上に持ち出してくることでしょう。その場を共有することで、交換された言葉によるもの以上のコミュニケーションが生じます。

既存の概念を否定するのでなく、その外側にあるもの、その根底にあるもの、その中心にあるものを見、そしてそれを表現できなければなりません。それが、竹箆とそのまま呼べば縛られるし、呼ばなければ違うものになってしまう、さあどう言うか、ということなのでしょう。



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