第三十則 即心即仏

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和尚は僧に「仏とは何ですか」と問われて、「心がそのまま仏である」と答えた。

無門和尚の解説:もし直ちにこの和尚の言ったことが判ったなら、法衣を付け、仏の食事をし、仏の教えを説き、仏の行いを行う。これすなわち仏である。

とはいっても、この和尚は多くの人を引き寄せて仏法の基準を誤らせてしまった。仏という一字を口にしただけで三日間も口を漱ぐ人がいることを知っているのだろうか。一人前の男なら、心がそのまま仏であるなどと聞けば耳を塞いで逃げてゆくだろう。

前則で示したように人間の意識を心と捉えれば、全ての事柄は心で意識されねばならず、 心で意識されないものはその個人にとって存在せず、従って心がなければ仏も存在しません。

何かを理解するということは精神活動としての心の動きなしにはあり得ません。その意味では仏も鬼も全て心です。 心はそのまま仏にもなり得るし鬼にもなります。

真剣に禅に取り組んでおられる人達は、そのまま仏となる心が持ち得たなどということは決して考えられない究極の目標であり、 仮にもそのようなことを言うことはないでしょう。それは本質を捉えようとする心の最終的な目標としてのみ存在します。

無門和尚は、もしそんな心を持っているなら、袈裟を付けて禅を説ける達人になっているのだ、といいます。 この和尚は心が仏だなどどいって多くの人々を騙してしまった。本当に禅に取り組んでいる人だったら、 心が仏だなどと言ったら耳を塞いで逃げ出してしまうでしょう。 心が仏だ、ということは、そのような最終目標としての心を目指せということでしょう。

無門和尚は、前則で万物を認識しその存在意義を与えるものとして心を提起し、 心こそ物事の基本であることを示しました。ここでは、その心がそのまま仏にも鬼にもなり得るということ、 心とは一体何かということを今一度見詰めなおしてみよ、と言っているのだと思います。


私は、ここで言う仏と言ってよい心とは、今このように言葉で考えているレベルの脳内の活動の上にある言語を超えた思考、非言語思考をもたらす脳の働き、と考えたいです。これについては後の第三十三則で述べます。



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