第三十一則 趙州勘婆
僧が老婆に聞いた。「五台山へはどちらへ行けばよいか」 老婆は言った。「まっすぐ行きなされ」 僧が数歩行くと老婆は、 「いい坊様が、またあんな方へ行きよった」と言った。 僧がこの話を和尚にすると、「待て、わしがお前のためにその老婆を見てきてやろう」と言った。翌日行って同様に問うと、老婆は同じように答えた。和尚は帰ってきて、「あの老婆を、お前のために見抜いてきてやったぞ」と言った。 無門和尚の解説:この婆さんは天幕の内側で策略を練ることは判っていても、賊にやられたことに気付いていない。この老和尚は本陣に侵入して要塞を襲う才能はあったが、大人の相ではない。よく調べてみれば双方共に間違っている。では言ってみよ。この和尚はどのようにこの婆さんを見抜いたというのか。 |
これは第十一則の二人の庵主に差を見たというものと似ています。 しかし十一則では同じように見える二人の庵主に対する自在な心の働きを示したものに対し、 今回は同じことをやっている一人の婆さんを、見る人それぞれがどう解釈するかという問題です。 無門和尚は、この和尚が老婆をどのように見抜いたのか、と問い、更に加えて、「問いが同じであるから答えもまた似ている。 飯の中には砂があり、泥の中には刺がある」と詠っています。 第二十八則で 個人の解釈よりもお互いに伝え合い学び合うことの重要さを示しました。 次の二則で心が動くと言われて愕然とした僧達、そして心がそのまま仏だ、という誤解を呼びそうなことを言う和尚の例を示しました。 ここでは無門和尚は改めて、伝え学び合うといってもただ受け身でいるだけではだめだ、自分としての目を持たねばならない、と諭しているものと思います。 台山への道を聞いたということは禅の真理を求める道を尋ね、婆さんはただ真っ直ぐそれに向かうことだ、 と答えたという抽象的なものと捉える解説書もありますが、もし僧が抽象的な意味で聞いたのなら、 真っ直ぐ行けという答にただふらふらと歩き出しはしないでしょう。 これはやはり物理的な道案内が始まりであり、それが評判になって婆さんの言動が問題となった、と解釈したいです。 無門和尚は解説して、この婆さんはテントの中で指揮をしているように思っているが、 そのテントの中に敵が入り込んできているのに気が付いていない、と言います。 婆さんは修行に来る僧達をただからかっているだけなのでしょう。 この婆さんのからかいの意味は、台山へいって修行をしようとするような坊さんがそんな有名な山への道すらわからないような準備不足ではだめだ、 そんなことで本当の禅の道が分かるものか、またただ人に聞いたままにふらふらゆくようでも駄目だ、ということでしょう。
他人の言うことをそのまま鵜呑みにしているようでは、飯の中の砂、泥の中の刺に悩まされることになるでしょう。
ただ何でも受け入れるのではなく、自分のものとして吟味し選別し、砂や刺は取り去って適切なものを取り入れてゆくことが必要なのです。
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