第四十七則 兜率三関

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和尚が三つの関所を設けて修行僧に問うた。「あちらこちらと勉強して回るのは自分自身を見極めるためだ。では今貴方の本性はどこにあるのか」「自己の本性を把握すれば生死を超えることが出来る。では貴方が死ぬとき、どのように生死を脱すればよいか」「生死を脱すればその行き先が分かる。身体が消滅したとき、どこへゆくのか」

無門和尚の解説:もしこの三つの問に答えられるなら、すなわち随所に主となり、どのような状況においても仏の教えに沿ったものとなるであろう。しかしまだそうでないなら、粗末な食事はすぐ満腹した感じがするが、良く噛んで食べれば飢えないというものだ。


いよいよ無門関も大詰めです。 古来宗教の意義は死への準備であり、死をどう扱うかが宗教の要点でした。無門和尚はテキストの最後に、その課題を真っ向から掲げています。これこそが究極の設問であり、ここに無門関の全てが集約されていると思います。

最初の「自分の本性はどこにあるか」の問いにはこれまでの公案で説明されてきました。 本当に本性を掴んだのなら生死を超えることが出来ます。 死ぬときにお前はどのように死を受け入れるのか、が第二の設問であり、 死んだらどうなると思っているのか、が最後の問いです。


死とは脳にとってはどのようなイベントなのでしょう、そのとき心の中に何が起こるのかは誰もが関心を持つものと思います。死とは、スーパーコンピュータを凌ぐ高度な機能を持つ脳がその機能を完全に失う時なのです。

作動中のコンピュータの電源を突然落としたりすると内部に混乱が生じます。通常コンピュータには閉鎖用のプログラムがあり穏やかにシステムを立ち下げるようになっています。人間の脳にも自分自身を終了させる際のプログラムが用意されているのでしょう。

死を前にして次々に断ち切られていく神経系からのシグナル、機能を失っていく回路はあちこちのサブプログラムに混乱を発生させます。避けられない死を悟った脳は生涯でたった一度だけのために用意されている完全停止のプログラムを起動します。 

最終段階には燃え広がろうとする意識の暴走の火を消しとめるかのように脳内には大量の快楽刺激ホルモンが放出され、それは強制停止させられる人工知能を持ったスーパーコンピュータが最後に歌う童謡のように、残った意識を幸福感と安心感で満たすといわれます。 臨死体験者は一様に、その瞬間に快感に似た至福の昂揚感、浮遊感を経験しています。 映画では若い男女の医師達が故意に自分の心臓を短時間停止させて臨死体験を得ようとしました。


しかし初めから脳に組み込まれている終了プログラムは本当の死の寸前にしか作動しません。実際には死の訪れる遥か前に、意識は迫り来る避けられない死を悟り、まもなく全く未知の状態に突入することを知ります。

そこに生ずる生への執着、不安、恐れなどは、時に人格の錯乱と暴走を生じ、その死に際の態度は周囲の者に物理的、精神的危害を加えることがあります。これを穏やかに処理すべく、脳の基本OSに備わっている停止プログラムにアドオンされる補助的なソフトが、宗教なのでしょう。


コンピュータのアプリケーションを削除してしまうと当然のこととしてそのプログラムは作動しなくなりますが、ディスクのどこかに消し残った断片として残ります。特別のソフトを使えば消えたプログラムを復活させることも可能だそうですが、そのハードであるディスクを物理的に破壊してしまえば復活させることはできません。

生体の設計図であるDNA情報さえあれば、元の個体を再現することは出来るようです。絶滅したタスマニアタイガーの剥製の細胞からDNAを復元し、生きたタスマニアタイガーを再生させる見通しがついたということです。

日本でもツンドラから回収したマンモスの皮膚や筋肉の細胞組織からDNAを採取し、象の卵子に注入して子宮に戻し、生きたマンモスを再生する試みが既に開始されています。SFの中には、昔の死体の断片からその個体全体を生前の意識まで含めて復元するというものがありました。


しかし、いかにクローン技術が発達し、ゲノムの解釈が進んだとしても、ゲノムに書かれていることはその個体のハードウェア及びデフォルト状態を再現するための仕様書であり、後からインストールされたソフトや蓄積されたデータは含まれていません。再生されるのはその個体の初期状態であり、パソコンで言えば組み立て完成時の状態でしょう。

従って脳の中のRAMを破壊してしまえば、いかに残された体細胞の中から遺伝子情報を解読してその個体を再生したとしても、失われた心が復活することはあり得ません。すなわち、蟹は湯の中に落ちて、そのRAMが破壊されてしまえばそれで終わりです。

仮にゆで上がった蟹の細胞から破壊されていないDNAが取り出され、それによって元の蟹が再生できたとしても、茹でられる前の蟹の心は再生されることはないでしょう。一代限りで成長した心が消える最後の瞬間には手足を精一杯もがくのもいいでしょう。また最後の刺激としての熱さを楽しむのもいいでしょう。死という一生に一度の経験をじっと指を立てて見詰めるのもいいでしょう。それが心が永遠に消滅する瞬間です。それを自分の心がどう受けとめ、どう処理するかが問題です。そのために役立てるプログラムが宗教であると考えられます。


遠い将来コンピュータが進歩し、人間並の知能と意識を持つようになった場合、そのOSにも死の処理プログラムが組み込まれるのでしょう。 それは新しいコンピュータの意識のための宗教を生み出すでしょう。

その派生プログラムとして、常に心を空にして外部からの入力を待ち、自分勝手に妄想や思索に耽ることを避けよ、 などというコンピュータのための禅が作られ、そのプログラムをインストールしておけば コンピュータ頭脳は効率よく望まれた思考を発展させることが出来るようになるのでしょう。

その原理は人間にも応用され、人間のための新しい宗教が作られてゆくかもしれません。 残念ながら私はそれを見ることが出来ません。しかし必ず近い将来、コンピュータのための宗教、 人工頭脳のための禅が出てくると私は信じます。


将来、人の意識プログラムの保存と伝達が可能になった暁には、自分の意識の一部を保存し、 人工頭脳の中へ、クローンの中へ、又は子供の中へと伝えることが可能になるでしょう。 個人は次世代に伝えるべきメモリーを選択し、それをカード状にして保存し常にメンテナンスするようになるかもしれません。 全てを保存してゆくことにより、大量の歴史と知識を蓄積した高度な人格が現れるかもしれないし、 またオールリセットをかけて無位の真人として新たに出発する人もあるでしょう。

それが可能になるまでは、人間の心とは、局部的に現れた宇宙の中で時間の矢に従って流れる方向、 自分のスケールから見れば膨大な時の流れの中に個別に現れ、そして消えていくものなのでしょう。

「俺はたまたまこの仕事がうまいのだ。俺はこの世界を通り過ぎてゆくだけだ」とは、西洋の小説の主人公の台詞であり、 これには禅の思想に通ずるものがあるようですが、皮肉なことにこれはプロの殺し屋の台詞であり、そこには虚無の響きがあります。

この世界、この宇宙に出現し消滅してゆく自分を見詰める禅にはこれに共通する感覚があります。しかし禅の思想は虚無ではないのです。 現実の否定やそれからの隔絶ではありません。どこから来て、どこへゆくか。人間は無から生じ無に帰る、 その無とは何か。生じて帰るまでだけでなく、その間にその前後をどのように見通すか、全てを包含して考え、全てを受け入れる心とは何か。 無門和尚はそれを極める糸口を並べてみせてくれました。

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