無門関 第四十八則


第四十八則 乾峯一路

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僧が和尚に問うた。「あらゆる世界の仏たちが悟りに入る同じ一つの道があるといいますが、それはどこにあるのでしょうか」 和尚は杖を挙げて目の前の一点を指し、「ここにある」と言った。

後にある僧が別の和尚にこの質問をした。すると和尚は扇子を取り上げて言った。「この扇子が飛び上がって三十三天に上がり帝釈天の鼻の穴を突く。東の海に住む鯉を一撃するとどしゃ降りの雨になる」

無門和尚の解説:一人の男は深海の底を歩いて砂塵を巻き起こし、一人の男は高い山の頂にあって白波を天に届かせている。要点を押さえ、一切を解き放って、それぞれに片手を出し合って禅の教えを扶けている。二匹の駱駝が正面からぶつかりあったようなもので、この世に真実を知る人はいないであろう。正しい眼で見れば、この二人の和尚もまだ本当の路を知らないのだ。


無門関も最終則となり、第一則で提示した巨大な無に対する回答として、無門和尚はご自身の世界観を披露します。

ひとつの扇子が天から海までの広大な世界に影響を及ぼす。これは風が吹けば鼠が増えるということ以上の因果の極端な例でしょう。扇子という目の前の小さな物事が、およそ考えの及ぶ限りの巨大な範囲に影響を及ぼします。一見荒唐無稽とも見えるこの現象の繋がりは、現実の世界における不可分の、断ち難い因果の連鎖を現しています。

これは現代のカオス理論にも通じます。著名な物理学者は、東京で蝶がはばたくとセントラルパークに雨が降る、と表現しています。八百年の歳月を隔てて、宗教と物理学は同じ考察に至りました。

無門和尚は、冒頭第二則で因果を提示し、その広がりを示しました。因果とは時間軸上で前後へ繋がる膨大な連鎖と共に、カオスと不確定性原理に支配される大きな可能性を含んでいます。

蝶が次にはばたいたときにまたニューヨークに雨が降ることはなく、鯉の頭を叩く度に大雨にはなりません。その連鎖は常に様々な要因によって変化しており、因果とはそれら全てを含む大きな流れなのです。


地球上の物理的、化学的、生命的な活動はほぼ全てが、太陽という巨大な核融合炉での負のエントロピーの膨大な消費に依存しています。太古の植物生命からの石油や、日射のエネルギが与えた水のポテンシャルによる水力発電のみならず、自動車から電子製品から、分子の運動エネルギから超複雑な生命体の組織構成まで、その局部的に高い負のエントロピーは全て太陽が死へと向う浪費のささやかな還元、その大きな流れの一部にすぎません。

そしてそれは全てが関連しあい、全てが連携をとって可能になっていることです。全ては結び合っており、決して人間も、植物も、単独では成り立つことが出来ません。自然界の全ての事象は因果で結ばれているとも言えます。


自然界の一部を切り取ってその部分だけを継続させることは非常に難しいことです。ガラスの密閉した球の中に空気と水と水草と一種のメダカだけを封じ込め、日光を当てるだけで永続的にその生命形態を維持させようという一種の玩具がありました。これは実際に販売されましたが、果たしてその中の何個が現在でも生存しているでしょう。

ある地方の科学博物館では直径一米ほどの透明な球の中にメダカ数匹、エビ、貝類、糸ミミズなど百数十匹を藻の一種と一緒に封じ込めて実験を繰り返していますが、一、二年でメダカは絶滅しバランスが崩れ、やり直しを繰り返しています。

これを大規模にやった実験があり、砂漠の中に密閉された巨大な温室を作り、その中に海、山、森や畑を作り、植物、動物、人間を入れ、太陽の光以外は空気すら遮断して独立した生命社会、生命連鎖を維持させようとした実験がありました。宇宙コロニーや他の惑星への殖民の可能性を追求したプロジェクトでした。

しかしこれは実験開始二年後に内部の酸素レベルが低下して失敗に終わり、スポンサーとなった大金持ちの道楽、意味のない似非科学として嘲笑を浴びました。その巨大な温室の中にノアの箱船よろしく開放された様々な昆虫は、一種の蟻の増殖により食べ尽くされ、最後には一匹の虫も存在しなかったということです。


私はこれは意義のある実験であったと思います。現在は大学の管理下におかれ、様々な自然条件の変化が生態系に及ぼす影響を調べる施設として活動を続けています。

この種の実験の成功なくして、なんで自給自足の火星基地や宇宙コロニーが可能になるでしょう。 真空の宇宙、はるかに劣悪な条件下の他の惑星でのコロニーに比べたら、空気も土もある地球上の基地の方がずっと有利なはずです。 二年間の隔離生活を送った人数は8人でしたが、この人数としては、SFで扱われる宇宙空間の人工基地よりはるかに大きな恵まれたスペースです。

このプロジェクトの失敗は、人間が現在の世界の仕組みを離れて単独で存在することの難しさを無情に示したものであると思います。人間は容易には現在の世界の連鎖、因果の流れから離れることは出来ません。


人間の生活に限らず、太陽の生涯も、またこの銀河系を含む巨大な宇宙群、半径百数十億光年の観測可能な宇宙すら、超大な場の中の揺らぎから生まれた偶発的なエントロピーのアンバランスの復活がその源であり、大きな連鎖の中で存在しています。それは一つの大きな流れの中に、そして全ては大きな因果の中にあります。

最近の宇宙論の主流の考え方によれば、宇宙誕生の前には時間も空間も物質もない状態があった。その中の量子論的な揺らぎから生じたアンバランスが現在の宇宙の始まりであるビッグバンを産んだ。その結果生じた大きな広がりの中で、もっとも単純な要素として水素が生まれ、その分布のゆらぎが密度の偏りを生じ、それがあちこちで凝縮して星の素となりました。

重力により圧縮された水素からなる星は核融合によって次々に重い原子を作りつつ縮小し、最後には超新星となって爆発して多様な原子をばらまいた。その繰り返しがまた星ぼしを産み、1000億の恒星からなる銀河、更にその銀河が2000億個あり、銀河群が網目のような構造を持つ現在の宇宙を産み出し、その中に生命体が宿りました。

更に、現在の宇宙論では、このビッグバンは一つではないといいます。現在の2000億の銀河からなる宇宙は、沸騰し始めた湯の中に局部的に現れては消える泡のようなもので、この宇宙の他にも無数のビッグバンがあり、中には知的生命体を生じないもの、それどころか宇宙や星ぼしすら生じないものもあるということです。

これをユニバースに対してマルチバース、無量宇宙と呼ぶそうです。その多様性、無限の可能性こそが、現在の我々の宇宙がこのように複雑な銀河や、生命や、素粒子の世界を産み出した源と考えることが出来ます。


知的生命体が発生してこそ、認識が生まれ、疑問が生まれる。人間が産み出されてこそ宇宙に対する認識が生じます。 一つの仮説、逃げ道として考えられた人間原理は、無量宇宙の考え方により今またその意義を見直されつつあります。

このような複雑な生命体が生まれたのは何故かという問いには、このような生命体が生まれたことそのものが答です。その背景には巨大な無の世界、量子ゆらぎと呼ばれる無限時間の中の気まぐれによってさまざまな宇宙がそこから産み出される世界があります。

自分とは何か、という疑問は自分が存在することに起因しています。全ての銀河団が無の世界から産み出され無に帰るように、自分自身もまた無から生まれ無に帰ります。


現在の宇宙が我々にとって唯一無二のものであると同様、今考えている自分自身も唯一無二のものです。私は唯心論の立場はとりませんが、巨大な揺らぎの中のひとつとして生まれた自分は貴重なものであると感じます。それをしっかりと意識することが、粥を食べたら椀を洗っておけ、であり、麻三斤、であり、それをおろそかにして一生を過ごす者は、煩悩と不安に悩まされる飯袋です。

無門関は第一則で「無」の提示に始まり、第二則で最も長い文章を費やして因果に触れています。そして最終則でまた、万物を支配する大きな因果関係を示唆しています。

この万物を支配する大きな因果、人間はあるときはそれを万能の神の意志とし、それを仏性と呼んできました。自然科学の側ではその法則を理論として明らかすることに取り組んできました。全てをまとめて解釈する統一場理論の解明に取り組んだ科学者もありました。無門和尚は禅の側からこれを示しているのでしょう。


その大きな因果に囚われず、それをごまかさず、なお自分というものを確保し、そこに大きな安心を得ます。それは日常の事件や事象で揺らぐことのない高次元の安心であり、禅の究極の目的なのでしょう。そしてその入り口は目の前の空間にあり、全ては一つに繋がっています。
無門関、門のない関所とはこのことでした。

無に始まり、物質と宇宙を支配する大きな因果に至る壮大なテキスト、無門関は、大きく巡って目の前の空間に戻り、ここに幕を降ろします。

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