講演会内容


講演会などで発表した内容をのせています


2004年3月17日 小児救急フォーラム
1才の誕生日を5日後に控えたその日 朝から賢信は熱がありました。
ご飯も良く食べて、目もぱっちり開いているし 水分もとれている 大丈夫だろうと判断し、病院にも行きませんでした。
 賢信は4番目に産まれた初めての男の子でした。私には熱に対する慣れもありました。
昼1時 昼ご飯を沢山食べました。
私が3時半に 幼稚園の行事に行くときは スイカを食べていました。
賢信はそのまま 主人と留守番をしていました。
6時半に帰ってくると 大量の下痢をしていました。下痢は止まりません。
熱を計ると42度ありました。手は服を握りしめボーっとしています。
私の体が震えます。「これはやばい!病院へ!」かかりつけの病院へ電話すると「今は小児科医がいないから42度も熱のある子は点滴が必要だから内科医では処置が出来ない」という返事をされました。その日は土曜日の夜 大阪市内に他に診てくれる小児科は家から遠い診療所しか思い浮かびません。もう頭が真っ白になりました。ニュースや新聞で読む 病院をたらい回し という言葉が浮かびます。
 救急車を呼ぼうか 一瞬考えて辞めました。救急車を呼んでもまず 大きい病院には行ってくれないだろう。遠い診療所に連れて行かれたらたまらない。良くて少し大きい病院だろう。それでは間に合わない。でも 大阪市内に小児救急患者を最後まで診てくれる病院は思い当たらない。
 そこでふと 思い出しました。引っ越ししてすぐに 夜間診てくれる病院はないかと公園で聴きまわった事があったのです。
 その時に教えて貰った 隣の市にある病院。とにかくそこへ行こう!
どのような設備があるのかもわからぬまま 受け入れ先がそこしか思いつかず 自分たちの車で向かいました。受け入れてくれるかどうか とにかく不安でした。
 病院の受付けで「42度の熱があるんです!」と叫びました。手が震えて名前も書けない私を「とにかく中へ」と通してくれ 他にも待っていた人が居ましたが 最優先で診てくれました。
血液検査の結果は入院するほど悪くはなかったのですが、賢信は点滴をしても泣きません。「念のため入院しましょう」といわれました。私は看護士さんに「ここは何処まで対応できるのですか?」と訪ねました。「どんな事があっても対応できます」という言葉に とても安心しました。
 入院の手続きを済ませ 日付が変わった 朝3時 痙攣が始まりました。
熱性痙攣は上の子で3回経験したことがあります。
だけど今までに見た熱性痙攣とは全く違っていました。特に左側だけが硬くなっていました。そして薬を入れても止まりません。痙攣は7分続きました。
 そしてその数時間後には 自発呼吸もほとんどなくなり 病室はあわただしくなり、私は病室の外へ出ました。「賢信頑張れ!」私は叫び続けるしかなく、状況を理解できないでいました。
 次に会えたときには テレビでしか見たことのない機会が 賢信に沢山取り付けられていました。
 賢信は何処を触っても 全く動きませんでした。
何の反応もなく 何処も冷たくて 生きているかどうかわかる物は 機械の数字だけでした。
ほんの数時間前まで動いていたのに ご飯も沢山食べていたのに 信じられませんでした。
入院してから数時間 もし家に帰っていたら どうなっていたでしょうか。
 私達 夫婦は24時間 賢信と一緒にいることが出来ました。
そして賢信の 足と手を必死に揉み続けました。ツボを押して少しでも刺激になればと 必死でした。
賢信も賢明に答えてくれ、頑張ってくれたのですが 1才になったばかりの体は 24日目にとうとう限界が来てしまいました。
 最後の日を迎えたとき カウントダウンするように落ちていく脈をみながら「賢信大好きだよ、よく頑張ったね。ありがとう。おまえは名前の通り賢い子や」何度も何度も言いました。
 そして最後に 眠るように逝って欲しくて 子守歌を歌いました。
 いつも寝るのがへたくそな賢信は おっぱいを飲んで、抱っこを死て 子守歌を歌って眠っていました。
子守歌を歌いながらトントンすると 私の腕の中で すうーっ と眠っていました。
手はいつも私の服を掴んでいました。その寝顔を見ると 可愛くて 可愛くて 昼間あんなに泣いていたのが 嘘のように静かになります。寝顔にチュウーをして幸せな気分になる。すぐにおろすと泣くので そのまま一緒に寝ころび、腕枕をして寝ます。いつも幸せそうな顔をして 私の腕の中で眠っていた賢信。
どうしてこんなことになった?
パパやお姉ちゃんと同じ日に産まれて
いい名前をつけてもらって
みんなに愛されているのにどうして?
賢信の鯉のぼり どうするの?
服沢山貰ったんだよ
玩具も沢山貰ったよ。誰が遊ぶの?
どうするの?どうして?なんで・・・
 ニュースや新聞で脳症や小児救急の話を聞いても 怖い とは思ったけど 何処か人ごとだった。
自分の子が亡くなるなんて 考えてもいなかった。
病院の計らいで 前日から泊まり込み 子供も含めた家族全員で見送ることが出来ました。そして、家族全員に大きな物を残して 静かに眠りにつきました。
 賢信が亡くなってから いっぱい「何故」を探しました。
亡くなった理由も どうしたら残りの子が死なずに済むかも探しました。
 脳症という病気のことも調べました。
どんな理由も納得がいかなくて 沢山 苦しみました。
 だけど時間が経つ内に 賢信は病院がすぐにみつかり入院することが出来た。
良いことも悪いこともすべて説明を受け、今どういう状態でどういう治療をしているのかも すべて聞いていました。先生とも話し合いをいっぱいしました。本当にみんなで闘い、みんなが一生懸命でした。賢信も本当によく頑張りました。
 それでも助からなかったんだから 何かどうしようもできない 大きな流れがあったんだと思うようになってきました。
 死ぬことにどんな理由をつけても納得は行きませんが 最善を尽くして貰ったということは 残された家族に大きいと思います。
 賢信が入院しているときに 看護士さんや先生に 何故この道を選んだかを聞きました。
色んな理由があって それぞれの思いがあると知りました。
誰もが「この子を助けたい」と思っていました。
だけど どんなに頑張っても賢信のように助からない子は出てくる、その時にお互いに理解が出来るような小児救急であったとき 遺族には次の一歩を進む大きな物となります。
亡くなって半年で 私がこの場に立てるのも 良い小児救急を受けれたからだと思います。
 しかし、今の小児救急の現状では 先生や看護士さん達が本当にやりたいことも 家族がして欲しいことも お互いの意志の疎通も出来にくいと思います。
例え救えなかったとしても みんなの苦しみが少しでも和らぐような 大きな流れがあったと思えるような 小児救急になることを強く望みます。
 賢信が生きていたらもしかしたらこの中に 会うはずだった人がいるかもしれません。
賢信と同じ職場で働いていたかもしれない。
娘さんやお孫さんと結婚していたかもしれない。
大切な人がいる すべての人に考えてもらえたらと思っています。

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