賢信は4人目にして初めての男の子でした。
お姉ちゃん達に「王子様」と呼ばれ とても可愛がられ 我が家のアイドルでした。
賢信が何をしようとも誰も怒らない。目の中に入れても痛くないと言うくらいの お姉ちゃん達の可愛がりように「我が儘になりそうやなあ」と思いつつ 本当に可愛がっていました。
あの日賢信は転がるように 悪くなっていきました。
昼ご飯は沢山食べました。
3時半 私が出かけるときにスイカを食べていました。賢信はパパと お留守番です。
その3時間後に帰ってくると 大量の下痢をしていました。
下痢は止まりません。熱を計ると42度になっていました。
慌てて病院へ駆け込みました。
病院へ着くと嘔吐が始まりました。
血液検査の結果はそう悪くはなかったのですが 点滴をしても泣かないし脱水症状もあるので「念のため入院しましょう」といわれました。手続きが済んで 日付が変わった 夜中の3時 痙攣が始まりました。それから数時間後には自発呼吸が亡くなり 瞳孔も開いていました。
私は叫び続けていました。病室の外でどうすることも出来ず「賢信頑張れ」と叫び続けていました。
次に会えたときには 賢信の体には 沢山の点滴と装置がつけられていて 何処を触っても何の反応もなく 生きているかどうかわかる物は 機械の数字だけでした。数時間前はハイハイしていたのに。あんなにご飯を食べていたのに 何が起こったのか・・・
私達夫婦は24時間賢信と一緒にいることが出来ましたので とにかく必死に 何か刺激になればと思い 手と足を揉み続けました。
主治医の先生はいつも 血液検査の神を持ってきました。
一つ一つ 丁寧に説明しながら 毎日話し合いをしました。
手が空いては 病室に来てくれて「手当と言って手を当てるだけでも よくなるんですよ」と賢信の頭に手を当ててくれました。
看護士さんの交代の時間になると みんなが賢信の所にやってきて「賢ちゃんおはよう〜」と声をかけてくれます。
重病人が居るとは思えないほど 明るい病室で よく私も笑い話をしていました。
途中から凄く体が浮腫んできたので 血圧を測ると腕に跡が残ります。
「跡が残ったね ごめんねえ」といいながら 跡が消えるまでさすってくれました。
意識のあること同じように話しかけたりしてくれるのが嬉しかった。
賢信を抱っこする提案もしてくれました。でも 呼吸器をつけている子を抱っこするのは大変なことです。抱っこした弾みで呼吸器が ずれることもあります。怖くて私は抱っこが出来ませんでした。すると 添い寝をすることを提案してくれました。
みんなが本当に一生懸命になってくれました。
私達親は 決して治療の部外者という感じではありませんでした。
同じ立場で一緒に考えてくれました。納得がいくまで説明してくれました。
説明を受け冷静になることで 賢信を可哀相と思うのは辞めました。
賢信は生きるために闘っている 生きるために治療を受けている それなのに賢信を可哀相と思うなんて 賢信に失礼だ。と思うようにしました。
病院での出来事は その後の私に大きな影響を受けました。
ここまでしても助からなかったんだから 大きな流れがあったのかもしれない 私は早い段階でそう思うことが出来たからです。
病院に対して嫌な気持は 私にはほとんどありませんでした。
1才になったばかりの賢信の体は25日目にとうとう限界が来てしまいました。
最終宣告を受けた後 初めて賢信を抱っこしました。
だけれども体が非常に浮腫んでいたのでとても重く、頭から肩に掛けて私の腕の形に変形していました。へこんだまま戻らない。
その時に「ああ 賢信はこんなにひどかったんだ。この子はこんな状態で生きている方が不思議だったんだ。よく今まで生きていた。賢信頑張ったなあ。もういいよ」そう思いました。私が覚悟できるまで ずーっと待っててくれたんだねえ。
それからカウントダウンするように 脈が落ちていきました。
覚悟は出来ていたつもりだった。蘇生は一度と決めていたつもりだったのに 脈が10を切ったとき どうしていいのかわからなかった。蘇生の処置を頼むことも 断ることも出来ずに ただ「どうしたらいいんや」そうつぶやいていました。なすすべが何もなかった。
病院が子供達も一緒に泊まれるようにしてくれました。だから賢信は家族とみんなでお別れが出来ました。機械の意味も知らないのに 子供達は感じたのか最後がわかっていました。東向きの部屋に 朝日が射し込むとき 静かに天国へいってしまいました。
賢信が亡くなって なんで なんで 何での答えを毎日探し続けました。
本やネットで調べまくりました。病気のことを知れば知るほど「なんで」がでてきました。
賢信のお茶碗だけみんなと違ったから?
賢信の勉強机だけ無かったから?
私が何か悪いことをしたから?
あの日私がもっとだっこしていれば
私がもっとこうしていれば
だけど 納得のいく答えなんてでなかった。でるはずがない、それでも探していました。
だけれども「なんで」の答えを探すことが その時の私には必要でした。
賢信は私の未来でした。
私の未来には必ず大きくなった賢信が居ました。
私が死ぬときにも 賢信は生きているはずでした。
大きくなったら 母親と歩くのを嫌がる賢信を 無理矢理買い物に連れていこう そんな事まで考えていました。
賢信がいなくなったとき 私の未来も終わってしまったと思いました。
そして、私の時間はそのまま止まってしまったんです。
大きくなる余所の子を見て 置いてきぼりを食らったような気がしました。
楽しそうにしている人を見て 私はここにいては行けないとも思いました。
ご飯を食べたり笑ったりすることが 母親として失格のような気がしました。
賢信は一人で居るのに 私だけが幸せになるなんて 自分が許せませんでした。
まだ3人の子がいるので後を追うわけにも行かず 悲しむことも許されなかった。
赤ちゃんを連れている人が憎らしかった。妊婦産が幸せに見えて腹が立った。
昔はよく見ていた 大家族をおったテレビ。こんなに沢山子供が居て みんな元気に育っているのに 何故賢信が死ななきゃいけないのか 腹が立ちました。
賢信のためだけに賢信の事だけを考えて暮らしたかったのに 許されないことだった。
賢信が居なくなった日常だけが ただ積み重なっていきました。
それまでは自殺する勇気があるなら 生きればいいのに。そう思っていました。
だけれども 死ぬのに勇気がいるのではなく 存在できないと実感するから 生きる勇気がなくなるからなんだと思いました。
夏の終わりに扇風機を片づけたとき これを出したときには賢信が居て 扇風機に向かっていつも「あーあー」叫んでいたのに 片づけるときにいないなんて 信じられなかった。
スーパーへ行くと 前に来たときは賢信が居たのに 今は居ないなんて信じられなかった。
賢信が居ない日が積み重なるのを ただこなしていくしかなかった。
本当に賢信は居たんだろうか?何もかもわからなくなっていました。
親としての自信もすっかりなくなっていました。
4人産んで 子育てには少し自身があったつもりだった。今まで私は何をしていたんだろう。
母親としてもやっていけなくなりました。
その一方でどこかで「早く立ち直らないと」「この状況を打破しないと」とあせっている自分も居ました。
賢信の事だけを考えて過ごしたい自分と この状況から抜け出さないと思っている自分と相反する考えが よりいっそう苦しくなりました。
賢信の事を思って 心と体がボロボロになるとうれしくなり、立ち直ることは賢信を忘れることだと、賢信に対する思いが薄くなることだと 思っていました。
今になって考えれば あの時は賢信の事を思い出して辛いと言うよりも 失ったつらさと苦しさを 何度も思い出していたように思います。
私は賢信が「1才で死ぬなんて何て不幸なんだ」「苦しかったやろう 痛かったやろう」「守れなかった 私のことを恨んでいる」と思っていました。
ある時 子供が私に「なんで?賢信はママのこと大好きやったやン。いつも笑ってたで」と言いました。
その時にハッとしました。
私は賢信が可哀相な子だ 私を恨んでいる なんて人生なんだ そんなことばかり考えて 賢信に幸せを沢山貰っていたことも、賢信と居た楽しい日々もsyべてわすれていました。
不幸なこともあった、だけれども幸せなことも沢山あったのに 私が賢信を不幸なだけの子であるかのようにしてしまっていたのです。恨むような子じゃないのに・・・
賢信が幸せだったと証明出来るのは 家族なのに 私が不幸だけだった子にしてしまっていました。
新聞史は私が読む前にいつもびりびりにしてくれた
自転車の前椅子にのると 自分が運転しているかのように自転車のハンドルを持ち
向かい合わせに抱っこすると こっちを向けといわんばかりに いつも私の顔をペチペチ叩いていました。
物を持つと投げては笑い 机の上の物は すべて下に落とし
カメラをむけるとカメラに突進してくるので いつもアップの顔ばかり
ペタッペタッとハイハイも勇ましく
私と目があると いつも笑顔だった。いたずらっ子だけど 本当に素晴らしい子だった。
賢信は可哀相なだけの子じゃない
産まれてきてくれて良かった。会えて良かった。
悲しい気持が薄れることは 賢信を忘れることだと思っていました。
けれど前より もっと幸せをくれていた賢信を思い出すことが出来る。
いま、その顔は呼吸器をつけた顔ではなくなりました。
最近は病院のことを思い出したり 余所のことだぶらせて泣くよりも 元気だった頃をよく思い出して泣いています。
苦しさがなくなる事は忘れる事と思っていたんですけど 私を真っ直ぐ見ていた目を やっと思い出すことが出来ました。
先週長女と 少し話をしました。
賢信が亡くなって 私が死にたいほど辛かったことを告げました。
すると小2の長女は静かに言いました。
「うちもね 賢信の所へ行きたかった だけど 賢信のために賢信の分まで生きなアカンと思った。自分が大事と考えた」そう言いました。「自分が大事と思ったんよ」2回繰り返しました。
短い言葉の中に どれほどの思いを長女がしていたのか 伝わってきました。
今も時々 長女は泣いていますが 私よりもずっと 賢信に起きたことを受け止めているのかもしれません。
賢信 もうすぐ一年やなあ。あんたが倒れた7月26日が一番私は怖いわ。
あの日のことは体が覚えている。小野日尾の時にいるように感じる。
時々な わからんくなる。本当に賢信はいたのかなあって。居たことが嘘なんじゃないかなあって 無性に叫びたくなる。
死って何かなあ?いのちって何かなあ?必死で存在感を追っているよ。
賢信 30年間は賢信が家を守ってくれる それから生まれ変わると お坊さんに言われたよ。だけどね 私は1才で30年も家を守るなんて重荷を背負って欲しくないと思う。賢信がまた 幸せになれるところに生まれ変わってくれたらそれでいい。
そう思う。
姉ちゃんが言ったよ「自分を大事に」って。だから賢信も 私達のためでなく 自分のために次に進んでね。
もっと 賢信の人生と関わり合っていたかったけれど 賢信に返すね。かなり早すぎる親離れやなあ。
賢信が存在して 私の子供であったことは 絶対に忘れられない事実です。
私に出来ることは次の賢信の幸せを願うこと。
そして 私自身のためにも 賢信の親であり続けること。
幸せになってね 今はそう思っています。
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