姉の妹 妹の姉





 リリアンの中等部の生徒は、スールの話が大好きである。


「そういえば」
 お昼休み。机をくっつけていつものメンバーでお弁当を広げて、そしていつものたわいのないお喋り。
「喜多子(きたこ)さんのお姉さまはお姉さまをつくられたのかしら?」
 自分の発した言葉の微妙な違和感に、おさげがトレードマークの瑞枝さんが慌ててつけ足す。
「スールをつくられたのかしら、て意味よ」
 全員が「わかっていますわ」という顔で応じて、そんなことよりも強く興味を惹かれた話の内容のほうに飛びつく。
「喜多子さん、どうなのかしら?」
「どなたかとスールの契りを結ばれたのかしら?」
 リリアンの中等部の生徒は、スールの話が大好きである。
「つくってない──と思う」
 リリアン女学園中等部三年、幼稚舎からの生粋のリリアン生であり、同じく生粋のリリアン生である高等部一年の若崎幸子(こうこ)さまの妹でもある若崎喜多子さんが答える。
 曖昧な言い方はしたが、いないと断言できた。
 なのに言い切らなかったのは、姉に詳しいことが恥ずかしく思えたから。
「確かに喜多子さんのお姉さまってどなたかの妹になる感じの方ではないわよね。生まれながらのお姉さまというのかしら」
 変な日本語ではあったが、その場にいた喜多子の姉を知る面々には自然に受け入れられた。
「ほんと、喜多子さんを指導なさっている姿なんて厳しくて、なのにどこか優しくていらして」
「怒るのが好きなだけだよ」
 何となく抵抗してみる。何に対してどう抵抗しているのか、本人にもよく判っていなかったが。
「あら、それなら喜多子さんは怒られるのがお好きなの? 何かあればすぐにお姉さまのところへ行くのに」
「そうよね、喜多子さんが居ない時は幸子さまを捜すとついでに見つかるものね」
 いつも通り姉との関係をからかわれる。そしていつも通り反論できずに黙る。
「でも幸子さまがお姉さまをおつくりにならないとしても、それはスールをおつくりにならないということではありませんでしょう?」
 喜多子の見せる不服そうな表情を笑顔で流して、雪菜さんが話題を戻す。
「そうですわ。あと二ヶ月もすればプティ・スールの候補が進学するのですものね」
 より興味深い方向に話が向かい、自然と熱を帯びる。
「つまりこの中の誰かがが幸子さまの妹になってもおかしくないということですよね」
「わっ、そうなったら素敵」
「あ、でもプティ・スールを選ばれると幸子さまは妹を二人お持ちになることに?」
「しかも同じ学年に」
「もしかしたら同じクラスだったりして」
「そうなったら面白いですわね」
「ええ、とても面白いですわ」
 それに関しては、喜多子は別の意見を持っていた。
 ちっとも面白くなかった。












 リリアンの高等部の生徒は、スールの話が大好きである。


「おわかりになりまして?」
 お昼休み。机をくっつけてお弁当を広げて、たわいのないお喋り。
「ええ──ただ、あたらしい疑問が幾つか」
「おっしゃって」
「上級生のお姉さま方とはどこでお知り合いになるのかしら? スールになるにはお互いのことを知らないといけないと思うのですが」
 今日は高等部から受験で入学してきた貴子さんへ、スール制度の説明会。
「その通りですわ。もちろん一目惚れのような出逢いもありますけど、多いのはクラブ活動や委員会活動で接点のある同士がスールになることですわね」
「やっぱりクラブには入ったほうがいいのかしら?」
「気に入ったクラブがあれば入ることをお勧めしますわ──そうですわ、今日の放課後、クラブ活動の見学に参りませんか?」
「まあ、素敵な提案」
「そうですわね、クラブを決めていない者同士で見学に参りましょうっ」
「雪菜さんと朋子さんはクラブもうお決めになってるから、残りのメンバーで放課後に──あら、喜多子さんは気乗りじゃなさそう」
 残りのメンバーを見回して、目ざとく喜多子のつまらなそうな表情を読み取った瑞枝さんが声をかけてくる。
「あ、いえ、実は」心に決めたクラブが──と言いかけて慌てて別の言い訳を考える。「今日は母と買い物の約束があって」
 下手にクラブの名前を出すと、そこが見学コースに組み込まれるだけだから。そして咄嗟に思い浮かべたクラブは、どうしてか人に勧めたくなかったから。
「まあ、それは残念。それとも明日にしましょうか?」
「いえ、お気遣いなく。明日が活動日ではないクラブもあると思いますから」
「そうですか。では、今日は私たちだけで参りましょうか」
「残念ですけどしかたありませんわね」
「しかたありませんわね」
 喜多子は、何か意外な程ほっとしている自分に気づく。
 ただ自分は、クラブ活動に興味がないだけ。だからクラブの見学は気が進まなくて。うまく断らなければそのまま連れて行かれるだろうから、それができてほっとしたのだ。
 その筈だった。




 学校から帰ってまずすることは、買い物の約束があることになっている母親と、まったりお茶。
「結局、幸子は一年間お姉さまをつくらなかったわねぇ」
 リリアンOGであり、お茶につき合わないとご機嫌が斜めになる癖がある、若崎姉妹の母親がそんなことを言い出す。脈絡なく。
「まあ、あの子らしいけど」
 示し合わせでもしたように家でもスールの話を聞かされ、喜多子は不機嫌さを隠さずに、音を立ててカップをソーサーに置く。
 いつ頃からか、喜多子の中ではスールの話が楽しくない話題になっていた。けっして嫌いではなかった話の筈なのに。
「幸子なら薔薇様になれるんじゃないかって少し期待していたのよね」
 喜多子の様子に気づいていない訳ではないのに、面白がってか話を続ける母。
「多分、今のブゥトンよりも堂々としてるんじゃないの? 学校で」
「知らないけど──でも山百合会は敵だから、お姉ちゃん」
 若崎幸子は博物学同好会をほぼ一年前に立ち上げ、以来山百合会とは活動場所の確保や部へ昇格させるための折衝などでしばしばやり合う関係になっていた。
 リリアンかわら版に載るくらいに。
「ある意味、大物であることは証明してくれてる訳だけど──あ、帰ってきたわね」
 玄関のドアが開く音に気づいて、母親が立ち上がる。お湯を沸かし直すために。
 ちなみに、姉妹の母はリリアンかわら版の愛読者だった。
 幸子が帰宅を知らせるためにダイニングに顔を出す。
「ただいま」
「おかえりなさい、今お茶淹れるから、着替えてらっしゃい」
「いらない。調べ物あるから」
 一言で母親の楽しみを拒否して、そのまま幸子は廊下の先に消える。階段を上る音。取り残される母と妹。
「あそこまで堂々とした態度で言われると引き止められないわね」
 そう言って苦笑すると、お茶の準備を再開する。
「お茶淹れたら幸子のところに持っていって」
「うん」




 トレイを持ってドアをノックするのは困難である。
「おねーちゃんっ、お茶もってきたー!」
 だからちょっとはしたないけれど、大声を出す。
 少しして、ドアが開く。
 開いたドアから現れた幸子さまのお顔に浮かぶのは、喜怒哀楽の二番目辺り。
 簡単に言うと、お姉ちゃんは怒っていた。
「大声じゃなくても聞こえるって、何度言えば理解できるの?」
 弁解するならば、理解はしているのだ。さすがにもう五、六十回は言われているのだから、判らないほうがおかしい。ただこういうのはイキオイとかノリとかもあるし、それに、言えない理由もあったりするのだ。
 怒っているお姉ちゃんは、凛として綺麗だ。
「お茶、冷めちゃう」
「……入りなさい」
 ある意味、挑発とも受け取れる妹の台詞に、でも幸子は応じずに、自室へ招き入れる。もっとも適切な妹の扱い方を知っていて、実行する。
 妹を部屋に入れて、でもそれ以上構わずに、机に向かい調べ物を続ける。
「はい」
 喜多子が机にトレイを置く。
「ありがとう」
 それだけ言う。顔も上げない。
 喜多子は手持ちぶさたにきょろきょろと部屋を見回したり無意味にうろうろしたりの後、ベッドに腰掛ける。
 足をぶらぶらさせたり、ごろごろしたりして、やがてうつぶせに寝た状態で落ち着いた。
 かまってくれないし。
 そう顔に書いて、うらめしそうに姉の後頭部を見つめる。
 しばらく、カップとソーサーの触れる音と本のページをめくる音だけの静かな時間が続いた。
「お姉ちゃん、ロザリオ持ってる?」
 ただ沈黙を埋めるために口にしたような質問だった。喜多子の頭の中が、良くも悪くもスールの事で一杯だから出たような台詞。そもそも、生粋のリリアンっこではあるけれど熱心なカトリックの信者ではないし、お姉さまとスールの契りを結んだという訳でもない幸子がロザリオを持っているとは考えにくい。それは、答えの判っている質問だった。
「持ってるわよ」
 だからその言葉に、無防備だった喜多子は、心臓を締め付けられるような感覚に襲われた。
「──なんでっ!」
 何故か、すごく腹が立った。
「買ったから」
 相変わらず顔を上げず、口調も静かなままの幸子の態度に、さらに感情が刺激される。
「なんで買ったのっ!?」
「つき合いよ」
「なんのっ!」
「買い物」
「こたえになってないっ!」
「うるさいッ!」
 初めて本から顔を上げ、幸子が妹を睨みつけた。
「私がロザリオ持ってるとあんたに迷惑かかるの? それともそれ以外にあんたに責められる理由があるの!?」
 喜多子はきつく口を結んで下を向く。
「じゃあただのわがまま? 私は姉というだけであんたの文句を甘んじて受けないといけないの?
 答えなさい!」
 喜多子にも、自分が不条理なことを言っているのは判っていた。それでも、間違ってはいないと思う。
 理屈に合わない正しさというものも、人と人の間にはあるから。
 だから口を閉ざす。
「──喜多子のこと、ちょっと甘やかしすぎたかもしれないわね。私も、お父さんもお母さんも。高等部にもあがったことだし、ちょうどいい機会だからあなたスールをつくって指導してもらうといいわ」
「スールなんてつくらないもんっ!」
 喜多子の、そこが譲れない一線だった。幸子が珍しく驚いた表情を見せる。
「スールなんてつくらないもんっ!!」
 目に涙を浮かべて、そう繰り返す。
 ドアをノックする音がして、ドアが開かれる。母親が顔を出す。
「二人とも喧嘩しないの。どうせあなた達の喧嘩なんて夕御飯までもたないんだから」
 幸子が声を荒げた時点で下の娘に勝ち目がないことは経験上明らかで、そしてその場合、早めに仲裁に入るにこしたことはなく、なので階段を上がってきた。
 でも、今回は少し違って見えた。
 上の娘の顔に険がなかった。階下まで聞こえる怒声を上げたばかりとは思えない、どこか優しい顔。
「お母さん、うるさいからそれ連れていって」
 穏やかな口調。
 自分が何のために二階まで上がってきたのか判らなくなる。
「──幸子、お茶のおかわり、いる?」
「いらない」
「そう──じゃあ、喜多子いらっしゃい。夕食の準備手伝って」
「うん」
 下の娘を連れて幸子の部屋を出た。
 ほんと、何をしにきたのだろう?
「──そういえば、喜多子はスールをつくらないの?」
 振り返って、とことことついてくる次女に、気になったことをそのまま訊く。
「いらない」
 あんまりきっぱり言うので、
「そう」
 そう言うしかなかった。




 幸子がお風呂から出て自室に戻ると、照明とエアコンがついていた。
 ベッドの中に、先に入浴を済ませている喜多子。
 無断侵入を咎めることなく、というよりも空気扱いで、最初ちらっと見ただけで後は意識していない風に机に向かい、夕方の続きの調べ物を始める。
 途中、幸子がCDをかけるまで、エアコンの音が室内を支配していた。
 ビバルディの『四季』が静かに流れる部屋。『夏』の、嵐を表現した三つの楽章が終わる。
「高等部は二年になるとロザリオ需要が増えるのよ。そのぶん買い物につき合わされる回数も増えるでしょ。だから最初に買っておけばそういうの断る口実になるの」
 まるで会話の続きのような、自然な口調。
「うん」
 当たり前のように返事。
 そして、会話などなかったように、沈黙。
 ビバルディの『四季』が終わり、幸子がCDを入れ替える。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集。トラック1の『ワルトシュタイン』第一楽章が流れ始める。
 第二楽章。
「──博物学同好会、新しい一年生入った?」
 沈黙。
「中等部の時の会の後輩、知ってるでしょ? 咲子ちゃん」
 沈黙。
「ひとり?」
 沈黙。
「二人いれば部への昇格が出来るのに」
 第三楽章。
「……ふーん」
 『テンペスト』第一楽章。
「自分の部屋で寝なさい」
 沈黙。
「一緒に寝る」
「二人寝られる広さに見えて?」
「──じゃあ、お布団持ってくる」
「……好きにしなさい」












 幸子の希望と努力に反して未だ部に昇格していない博物学同好会には、もちろん部室はなく、ゆえに活動はおもに山百合会との折衝により確保した特別教室を、曜日指定で使う事になっていた。今日は水曜日で、化学室。
 幸子の目の前には、中等部時代に同好会を一緒に立ち上げた琴実さんがいて、その横に、入部──入会希望者の一年生が立っていた。
 よく知っている顔だった。
「何で?」
 それが、入部──会の意思を伝えられ、一瞬の間の後に幸子が言った言葉だった。
 言われた方には、予想外の言葉。だから、笑顔を凍らせた。
「え……」
「あなた、何するつもりでウチに入るの?」
 その雰囲気に、役目的にも立ち位置的にも仲介のポジションにいる琴実が割って入ろうとする。が、遅かった。
「私が三年前に博物学同好会をつくった時、一応は誘ったわよね? 実の妹だから学問的なものには興味ないの知ってるけど、実の妹だからほかの下級生に声を掛ける前に形だけでも訊いておかないとあなた拗ねるし、だから。そしてあなたは断った──その、学問に興味のないあなたが今になってウチで何をする気になったの? ねえ、ここをお茶会でもするところだと思ってるの? みんなで集まってお喋りでもしてると思ってるの? 私が家でどれだけの時間を調べ物に費やしているか、一番知ってるのはのべつつきまとってくるあなたでしょ? それともあなたには私が遊んでいるように見えた?
 あなたは私達が真剣にやっていることに遊び半分で首を突っ込んでくるの!?」
「幸子、言い過ぎよ」
 早口でまくし立てる幸子に口を挟むタイミングをあたえてもらえず、一通り言い切った後にやっと、琴実は間に入るきっかけを見つける。
「喜多子ちゃんはあなたに喜んでもらいたいから」
 でも、火に油を注いだだけだった。
「私が喜ぶって何!? 喜多子が入れば部へ昇格できること? 私のために頭数になってくれるって? そんなことで昇格して私は喜ぶって思われてるんだ?
 だったら初めから幽霊部員集めて部に昇格させてるわよ!」
 博物学同好会を部にするのが目的ではない。博物学を知ってもらうこと、興味を持ってもらうこと、そしてそんな人達が集まれる場をつくることが、博物学をやりたいという目的に適っていただけだった。
 やりたいことをやるために、そうしているだけのこと。
 それは今の同好会という形でも実現しうることで、だけど人が集まれば自然と部としての条件が整うし、部であれば環境面も整うので、結果として、部への昇格を目指しているだけだった。
 多分、そのことを忘れないでいられることが、妥協しない姿勢が大切だった。その純粋さが、人を惹きつける。
 それが、若崎幸子の魅力だった。
 だから絶対に退かない。たとえ相手が可愛がっている妹であっても。
「それともやりたいことが出来たの? だったら歓迎するから、あるならおっしゃい。どうなの喜多子!?」
 答えを求められて、でも、喜多子は口を閉ざす。
 ここで何をしたいかなんて考えてもいなかった。
「答えなさい!」
「幸子さま、もうおやめになってっ」
 不意に予想しない方向から掛かった声に、その場に出来上がっていた流れが止まる。声の主は、今まで目立たないように離れて控えていた、一年生の咲子。
「そんなに強く責められては、喜多子さんも何も言えませんわ。もっと落ち着いてお話を聞いてさしあげないと」
 中等部からのリリアン生で、成績は常に学年の上位で、運動は少し苦手で、おしとやかで、そして綺麗な咲子さん。
 喜多子は、琴実さまにかばわれた時は感じなかった想いに、唇を噛みしめる。惨めさに、涙が滲む。
「この子は自分が正しいと思ったら私になんか遠慮しないで何でも言う子よ。だからそういう気遣いは必要ないわ」
 幸子が言い終わるのと同時に、喜多子が踵を返し、走り出す。
 幸子の言葉がきっかけになったのではなかった。
 化学室を飛び出した時に溜まっていた涙がこぼれた。
 とにかく、誰もいないところにいきたかった。ただ、それは難しいことかもしれない。背後から、追いかけてくる足音が聞こえた。
 追いかけられている筈なのになんだかどんどん遠ざかってゆく足音を連れて、駆け下りた階段の踊り場で足をもつれさせて、壁に手をついて止まる。
 遠ざかっていた足音が再び近づいて、階段の上から──今一番見たくない人が姿を現す。
 多分、「お待ちになって」とでも言いたいんだろう、口をパクパクさせて、だけど意思に反して呼吸を優先する体のせいで、声らしい声を出せずにいる少女。
 本当に運動が苦手そうだった。
 なのに、息を切らせて追いかけてきた。
 それだけで、話を聞いてあげなくてはいけない気になる。
 一番、泣いている事を見せたくなかった相手だけど。
 ずっとお姉ちゃんをとられるんじゃないかと、不安にさせられていた相手だけれど。
「わた、あし、おそ、て──ごめんなさ、ぃ」
 別に足が遅いことを謝ったのではなくて、ちゃんと言葉が出せないことへの謝罪。
「どうぞ息を整えて、ゆっくりお喋りになって」
 一度鼻をすすってから、そう声を掛ける。
 息を整えるのに、マリア様の心を歌えるくらいの時間をつかって、ようやく、
「私、ずっと喜多子さんとお話ししたいと思っていたの」
 と、少しずれたことを言う、咲子さん。
「はい?」
「中等部の頃から幸子さまに親しくしていただいて、喜多子さんのお話を色々とうかがっていて、ですからとても親しい方のように思えて。なのに、ほとんどお話をしたことがなかったから」
 話をしなかったのは、喜多子が避けたから。話したくなかったから。それは、今も。
「──幸子さまはああおっしゃったけど、本心は喜多子さんに博物学同好会へ入ってもらいたいのよ。ただ、潔癖な方だから、喜多子さんに言っていた理由が気になってしまったんでしょうね。もし喜多子さんが入っても部への昇格を申請できなかったり、もう人数が揃っていたなら、少しは何か言ったかもしれないけれど、歓迎なさった筈。
 だって、それを言ったら私の入会動機だって不純ですのも」
 喜多子の胸に、かすかな痛みがはしる。
「中等部の体育祭で活躍される幸子さまを見て、私運動が苦手だから、すごいなって。そうしたら成績も学年でトップだって聞いて。
 私も勉強だけは少し自信あったんです。でも、それがどれだけ狭い世界での自信かを思い知らされて。勉強しかできないだけなんだって──それに気づいた時から、幸子さまは私の憧れの人で。それで、少しでもお近づきになりたかったから」
「スールになりたい?」
 喜多子の本心を隠した問い掛けに、咲子さんは裏を感じさせない笑顔を見せる。
「そうなれたら素敵。でも幸子さま、プティ・スールはおつくりにならないから」
 頬に手を当てて、「残念」とつぶやく。
「え?」
 聞き間違いかと思う。
「中等部の頃におっしゃってたんですよ、同じ学年に妹が二人いると面倒だからって──あら、ご存じなかったかしら?」
 しらない。
 そんな話、聞いてない。
「ああ、話が脱線してしまいましたね。
 喜多子さん、喜多子さんがやりたいことを見つければ幸子さまも嬉しいと思うの。博物学って言われて具体的にどういうことをするのか判らないのが普通ですもの、それが判れば興味をひかれることなんてたくさん見つかりますわ。
 ですから、それを一緒に探してみませんか?」
 思いがけない提案──というより、その前に聞かされた思いがけない話のせいで、少し混乱していたのだろう。
 一緒に探す約束をしていた。
 幸子がスールをつくらないのなら、無理して博物学同好会に入らなくてもいいのに。


 でも、話してみると咲子さんという人は、何だかヘンで優しくて面白い女の子だった。












 幸子がお風呂から出て自室に戻ると、照明とエアコンがついていた。
 ベッドの中に、先に入浴を済ませている喜多子。
 帰ってからずっと空気扱いの妹はそのまま放って調べ物──を始めると余計拗ねるので、まずうるさいのを片づけておく。
 抽斗を開け、中から飾りのほとんどない、シンプルなデザインのロザリオを取り出し、静かに机に置く。
「欲しかったらあげるわ」
 主語を省略した、別に伝わらなければそれでもいいという感じの、さりげない言葉。
 喜多子が跳ねるように起きあがり、机の上のものが何か、確認する。
「──くれるだけ?」
 そして、意味の確認。
「あなたにはちゃんと指導する人間が必要だって、今日改めて思わされたから。昨日はスールつくらないって言ってたけど、すでに姉である私だったら抵抗も少ないでしょう? リリアンはスール制度のお陰で実の姉妹というのが微妙な関係になるから、立場を明確にしておかないと上級生として指導するにしてもやりにくいし。別に嫌ならいいけど」
 淀みなく真っ当な理由を説明して、決して喜多子を妹にしたいんだと言わないところがずるいと思う。
 そして、最後につけ足した言葉が、とてもずるいと思う。
「──嫌じゃない」
 ぽつりと言う。言わされる。ずるいと思う。
「でも、首に掛けてくれなきゃヤダ」
 だから、抵抗してみる。仕方ないなという感じでロザリオを持って立ち上がった幸子に、喜多子が言葉の続きを告げる。
「マリア像の前で」
 わずかに顔を赤くして、それから姉は、うんざりした顔でそれを隠す。
「別にどこでもいいじゃない」
「お姉ちゃんはムードがないっ」
 喜多子には、ここは譲れないところ。
「そう──でも、お姉さまの部屋でロザリオの授受をできるスールなんて滅多にいないわよ」
「う」
 心の片隅に、譲ってもいいかなという気持ちが芽生える。
「お姉さまのベッドの上でロザリオを掛けてもらえる妹なんて、スール制度の歴史の中でも例がないんじゃないかしら」
「──うー」
 いつもなら、姉のベッドなんかは自分のベッドの延長くらいにしか思っていない筈なのに。何故か今、ここが特別な場所に思える。
「別に嫌ならいいけど」
「──嫌じゃない」
 別に、折れた訳ではない。お姉さまを立てるのも、妹の役目だから。
 幸子が喜多子の前に立って、無言で行動を促す。
 だから喜多子は、背筋を伸ばして、深呼吸して、それから少し頭を下げて。
 目を瞑る。
 首に、冷たい感触。姉の細い指が喜多子の髪を整える時に首筋に触れる。
 目を開ける。胸元を撫でてロザリオの位置を直している綺麗な手が見える。
「喜多子」
 呼びかけに、真っ赤になった顔を上げる。優しく微笑みかける、大好きな人の顔がある。

 お姉ちゃんが大好きだった。昔から、ずっと憧れていた。大好きじゃなかった事なんて一度もなかった。

「これからもよろしくね」
 今までもずっと一緒だった人が言う。
 これからも、きっと、ずっと大好きな人。

「はい──『お姉さま』!」




あとがき