夕焼けの君へ

 

 

 

 私立リリアン女学園。
 乙女の園の放課後は、微妙なけだるさと深い色の少ししおれた制服とタイ、そして翻さないスカートと開放感に立脚した笑顔で出来ている。
 大抵は、出来ている。

「ごめんみんな、今日は薔薇の館行くの待って欲しいんだ」

 無論、そうで無い事もある。
 その一例たる今日、みんなで集合したのっけから、夕焼け間近の太陽を背負った令さまは頭を下げた。
 背の高いベリーショートが、体育会系のノリでびしっと頭を下げると、それはそれで様になる。
 様になりすぎて、思わず理由も聞かずはいわかりました、なんて言いたくなるくらい。

「はい、わかりました……」
「ダメよ、祐巳。幾ら令が様になっていると言っても、理由くらいは聞かないと」

 当然のように口に出してしまった祐巳を、当然のようにお姉さま、祥子さまはたしなめる。
 そもそも薔薇の館は、自分たちの場所。黄薔薇さまとはいえ、支倉令さま一人の意見で今日は集まらないなんて決定するのはプライドが許さない。
 普通なら。あくまで、普通ならであるが。

「……それで、令。今回はどんな風に由乃ちゃんを怒らせたのかしら?」

 ま、のっけからこれである。祥子さまともあろうお方が最初から、妥協を前提とした切り出し方。
 らしくないんだけれど、それもまあやむをえない。令さまがこんな提案をする理由は、まあそれしかないのだ。

 場所はちなみに、それぞれにそれぞれの思いがありそうな古い温室。
 祐巳には、お姉さまとの思い出がたくさんあって。
 令さまには、黄薔薇革命の時のシェルターとしての記憶がある。
 志摩子さんたちは良く解らないけれど、祐巳的にはそういう意味で、第二の山百合会総本部ってイメージがあるところ。

 その名前にかなりふさわしい勢いで集うのは、山百合会ほぼオールキャスト。
 紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さまの三薔薇揃い踏み。
 紅薔薇のつぼみ、白薔薇のつぼみもその傍らに控えている。
 祐巳はもう慣れているけれど、一般生徒ならばラインナップを見た途端に倒れてしまいそうな豪華キャスティングである。

 ……ま、そんな風に名前を並べるよりは、山百合会マイナス黄薔薇のつぼみって言った方が早いかもしれない。
 山百合会マイナス島津由乃って言ってしまえば、わかる人にはなぜこの面子なのかまで含めて、全て解っちゃうんだけれど。

「やっぱり解る?」
「解るわよ、それは。私とあなたの付き合い長いし、それに」

 意図したわけでは無いだろうけれど、自然とロサ・キネンシス(お花の方)の隣に位置取ってお嬢様オーラ全開な祥子さまは、なんとなく申し訳なさそうな視線で辺りを見回す。
 つまりは、うんうんと容赦なく頷いている祐巳たちを。
 由乃さんを知ってる人なら、誰だって解るよって総意がそこかしこに現れる景色を。

「……そっか。解っちゃうか、みんなにも。乃梨子ちゃんにもばれている辺りがなんだかなあだけれど」

 季節は、夏。
 祐巳はお姉さまと仲直りして、その少しあとくらい。

 乃梨子ちゃんが山百合会に加わってから、日はそんなに経過していない。
 そんな後輩にもあっさりと全体像が知れ渡っているというのが、令さま的にはショックだったらしい。
 ま、確かにちょっと早いかもしれない。乃梨子ちゃんが鋭く賢い子だからこそには違いないんだけれど。

「まあ私のことはともかくとして、です。由乃さまが怒っていると、どうしてお分かりになりましたか?」

 乃梨子ちゃんの突っ込み開始。
 どちらかといえば山百合会はボケ担当が多い。突っ込み担当は由乃さんと乃梨子ちゃんくらいだから、今は彼女がその人を一手に担う。
 そう、言われてみればまずそこから始めよう。
 由乃さん曰く、おおぼけ令ちゃんの令さまである。もしかしたら勘違いしている可能性だってあるのだ。

 由乃さん、ちょっとしたことで軽く火がつくけれど、大抵ボヤで済むのもまた真実。沸点は低いが、滅多に蒸発しきらない。
 それでも熱しやすく冷めづらいところにこそ、島津由乃の微妙にはた迷惑な魅力は存在するのだけれど。

「うん……朝家に迎えに行ったときから何を話しかけても無視されてね。学校に着く直前、『先行く。じゃあね、令ちゃん』って」
「それくらいなら解らないじゃないですか。考え事をしていて、ふと何か用事を思い出したのかも」
「願わくば、今日は話しかけないでって言い残して」
「……」
「……」

 ああ、これはダメだな。
 みんなが一斉にそう思ったのが、空気でわかる。
 由乃さんがそう言ったのなら間違いない。何かでへそを曲げている。

 曲がり具合、マックスに近い。
 話しかけないでって言うのは、彼女の『令ちゃんのバカ!』表現の中でも最高の物の一つである。
 親友だと思ってはいるけれど、そんな由乃さんはさすがの祐巳でも近寄りたくないターゲットの一つ。慣れて来たけれど、それでも近寄りがたい超不機嫌なお姉さまと同じくらい。

「……とりあえず、この場所を由乃さんが見つけたら冗談じゃすまないわね……」

 志摩子さんの指摘は、ごく自然に心の中から漏れたものだろう。
 この少しあと、体育祭で心の底からその恐怖を味わうことになる未来を予見していたかのような発言。

 とはいえ。

「…い、いないよね。由乃さんいないよね、志摩子さん?」
「ちょ、ちょっと! 今さっきちらっと影を見たとかじゃないんでしょうね、志摩子?」
「え、ええ。ただいたら大変なことになるなあっていうもしもの話なんです……が……」

 そうあってくれないと困る。いや、ほんと。
 祐巳のみならず、お姉さままで志摩子さんに確認するあたり、由乃さんの隠然たる力がわかる。
 まだあまり爆発現場に立ち会っていないとはいえ、乃梨子ちゃんにもそのあたりは漠然とわかっているようで。

「お姉さま、困ります。そんな恐ろしいことをさりげなく何気なく口にされては」
「…うん、ごめんなさい。反省するわ」

 まったくである。寿命が縮んでもおかしくない爆弾発言。乃梨子ちゃんが志摩子さんを窘めたくなるのも当然といえば当然だ。事の重要性を認識してか、微妙にしゅんとなる志摩子さんはちなみに微妙に可愛いが。
 ……なんて、かなり失礼なことを思っている間の令さまはといえば、妹について散々意見されて怒っているかといえば、そんな事は全然全く欠片もなく。

「いないよね、由乃…いないね、うん。いないね。いないいない」

 なんて、きょろきょろと温室周りをチェックし続けていたり。
 これまたミスターリリアンの名前の刻まれた木簡が中央からぼっきり折れてしまいそうな。
 そして由乃さんが嘆き悲しみそうな有様である。

 ま、由乃さんの一番近くにいる令さまだ。
 この場所を見られたら、のケースのもしもが生々しく想像されすぎたのだろう、きっと。

「しっかりしてください、令さま。大丈夫です、由乃さんは今頃きっと薔薇の館ですから」

 今頃、きっと。
 祐巳の推理には微妙な要素が大分詰まっているんだけれど、それにすら令さまは気付いたりしないというか出来ない。
 そのままで、そうなのって尋ねてくる。ミスターリリアンはこの際忘れようって、きっと誰もが思っている中で祐巳が頷く。

「はい。掃除を終えて、教室を出てゆくのを見ました。私が掃除中、中庭を横切る姿も見ましたから、まず間違いなく」
「そっか、よかった。……まあ、ある意味都合はいいんだけれど」

 ほっと胸をなでおろす令さま。
 怖がっていると同時にそれは、由乃さんにこの場を見つかって嫌われたり嫌な思いをされたりするのを避けたいっていう気持ちがにじみ出ている。
 当たり前のことだけれど、それくらい令さまは由乃さんのことが大切で。

 だからこそ、こんな風に祐巳たちを集めてこそこそしているに違いないわけでもあるんだけれど。

「一つ、宜しいでしょうか」
「なに、乃梨子ちゃん」

 由乃さん接近疑惑が払拭されたところで、さっと手を上げる後輩。
 乃梨子ちゃんはこの中では、一番由乃さんとの接点が薄い。だから知らないことも多い分基礎的な、それ故思い切ったことも聞ける。

「由乃さまは、何をそこまで怒っておられるのでしょうか? その理由さえ解れば、対処の仕様もあると思うのですが」

 うむ、まったくもって常識的で正しい意見。
 頭に血が上っている時の由乃さんに、常識が通用するかどうかはまったくもって別問題なんだけれど。
 とはいえ、そこから始めるのも間違ってはいないだろう。

「そうね、令が私たちを集めたのも、その辺が理由なんでしょう?」
「うん、まあそれもあるかな」

 それ以外もあるってことだろうけれど、弱気になってる令さまはいつもながら決め付け口調のお姉さまに押されて頷く。
 お姉さま、割とこういう細かい部分の機微が読めなかったりするのが困りもの。まあとはいえ、お姉さまの意見は間違ってはいない。決して。
 ある意味、残念ながらでもあるけれど。

「では、折角ですので考えてみましょうか。由乃さんに何があったのか。……令さま、心当たりは?」

 山百合会でも基本的には議事進行を担当している志摩子さんが切り出す。
 穏やかな表情は、ひっそりしっかり隣に控えている妹の乃梨子ちゃんと一緒。よく似ている。
 祐巳と祥子さまも、あたふたとかヒステリックにかという違いはあるにせよ、表情がよく変わるという点では似ているのかもしれない。

 他方こちらは、見た目も中身もかなり正反対な令さまと由乃さん。
 だからこそ相手のことが良く解るのか、はたまた良く解らないのか。とりあえず腕組みして悩みのポーズ。

「……解らない。っていうか、由乃が怒ってる理由推理して当てたためしがないんだ、私」
「らしいと言えばらしいですけれど」

 祐巳の正直な感想は、梅雨明け間近とはいえ明らかに梅雨である季節の空気に、どこかじっとりと湿って残る。
 令さまがそういうところ鈍そうなのは明らかだし、由乃さんが不条理で突拍子も無いデータから怒るのも明らか。推理というより、半ば以上あてずっぽうになるのは仕方ないんだと思う。

 こういうとき頼りになるのは、やっぱり白薔薇姉妹。
 祐巳は基本的におっちょこちょいで、祥子さまも実はまあ似たようなもの。
 すればのんびりしているけれど落ち着いてもいる志摩子さんか、頭の回転の速い乃梨子ちゃん頼みになる。

 祐巳、祥子さま、果ては令さまの期待の眼差しに耐え切れなくなっておろおろする志摩子さんをサポートするのは、やっぱり乃梨子ちゃん。
 とりあえず、と小さく手を上げて発言開始。

「昨日までは由乃さまは普通だったんですよね。特に変わりなく、令さまと接しておられた……」
「あ、うん。それは間違いない。昨日はお互い買い物があってK駅まで出て、それで途中でわかれたんだ。由乃はもう少し買い物があるっていって、私は宿題しとかないといけなかったから」
「それで別れ際、由乃さんは普通だったんですね」

 志摩子さんの問いに、そこは自信有り気に頷く令さま。
 やっぱり普通の、つまり『令ちゃん令ちゃんっ』な由乃さんを思い出すのは楽しいのだろう。
 昨日の妹でないと素直に思うことすら厳しい現状の難しさをちらっと忘れてしまう辺りが、いかにも令さま。

「また明日ねって言って、ちょっとした買い物をするとかでデパートに駆けて行ったよ」
「どこに行くとか聞いてます?」
「うーん、確かデパートの三階だったかな」
「三階と言うと…」

 山百合会のデパートマニア、二条乃梨子ちゃんはこつこつと側頭部を叩きながら記憶を引き出す。
 どことなくお坊さんっぽいなあなんて思うのは、隣にいるのが住職さんの娘さんだからでは多分無い。

「婦人服が少しあって、あとは台所用品が多いフロアですね。何を買いに行ったのでしょう」
「乃梨子ちゃん。それ、由乃さんの不機嫌と関係あるの?」
「さあ。一応データを出してみただけで、無いかもしれませんが」
「なるほど」

 客観的なデータの洗い出しという概念は、祐巳にはあまり無い。
 基本的に主観と言うか直感主体で生きているからだろうか。この辺は女の子の特性かもしれない。乃梨子ちゃんも間違いなく女の子なのだけれど、客観性重視というスタイルは山百合会では際立っている。蓉子さまのもしかしたら、正当な後継者かも。

「まあそれはそれとして。ええと……何があるかしらね、由乃ちゃんが怒る理由というと? 仲直りしやすい原因だといいのだけれど」
「そうだね……ありがとう、祥子」
「いいえ。単にあなたたちが仲悪いと山百合会に影響小さくないからよ」

 とかいいながら、ちゃんと心配してることは誰にだってわかる。
 もちろん妹である祐巳にも当たり前のようにして。お姉さま、無理しちゃってみたいな笑顔がつい浮かんでしまう。
 大好きなお姉さまの優しさを見つけるのは、祐巳の数多いお姉さま観察の中でもかなり楽しい趣味に当たる。

「ほら祐巳。へらへらしていないでなにか思い当たることは無いの? あなた、同じクラスなんでしょう?」
「あ、はいっ。ごめんなさい。ええと、ええと……」

 嬉しくて、へらへらして、お姉さまに注意される。
 多分そこまでのプロセス含めてが、自分のお姉さまのいいとこ探しなんだろうと祐巳は思う。
 単純だけれど、でも凄く幸せな自分をかみ締めて……噛み締め続けているとお姉さまに本気で怒られるので仕方なく真面目に、ちょっとだけ無駄な努力だろうなあと思いながら考えてみる。

 今日の由乃さん……えーっと……。

「あ――確かにご機嫌斜めではあったかも……」
「そうなの。その理由とか聞かなかったの、祐巳?」
「ご機嫌斜めな由乃さんに近寄っても、あまりいい思い出ないので」
「……」
「……」

 なんとなく、沈黙。
 真っ先にうつむいたその姉の姿に、尚更沈黙。
 姉が言うんだ、間違いない。 
 っていうか、姉が何も言わないんだ、間違いない。

「うん、それで正解だよ。あのレベルのへその曲げ方なら、近づかないでいい。やっぱりご機嫌斜めで合ってるんだね、由乃は」
「はい、そのようです。…黙って窓の外を見ていることが多かったかな? それ以外は特に目立つ様子はありませんでした」
「なるほど、祐巳からの情報は当てにならない、と。まあとはいえ、やっぱり自分の身が大切だから仕方ないわね」

 お姉さまの慰めは、祐巳にとっては無論何よりの栄養。
 けれど、心の中で少しだけ親友にごめんなさい。乃梨子ちゃん内部のあなたのイメージを変えてしまったかも。

「とすると一般論として、由乃ちゃんが令に腹を立てるケースを考えましょう。色々あげてゆけば、令が何か思い出すかも」
「そうだね。やってみよう」
「解りました」
「はい」

 それにしても、そんなの多すぎると思うんだけれどなあ。
 祐巳は思ったけれど、もちろんそれを口に出すほどバカじゃない。
 正論だけれど、正論だからこそ口に出せないって事も多いわけで。

 とはいえ、多いのは本当。
 由乃さんの令さまに対するお腹立ちの要因は基本的に、嫉妬深い彼女が彼氏に対して、みたいなケースがほとんどなのだ。無論祐巳にも、祥子さまにも志摩子さんにも乃梨子ちゃんにもその手の経験は無いけれど。
 けれどやっぱり女の子だから、なんとなく解るような気がする部分でもまたあるわけで。

 とりあえず、まず思いつくケースとして祐巳は、昔由乃さんから愚痴百パーセントで聞いた事例を元に提案してみる。

「例えば……令さまが誰かに色目を使ったとか」
「そんなことしてないよ」

 色目なんて、そりゃ使わないと思うけれど。
 けれど令さまは優しいから(由乃さんにいわせると優柔不断らしい)、知らず知らずの間に優しい視線を送っていることもあり。
 それを、嫉妬と勘違いのアンテナを世界中に張り巡らせている由乃さんなら、見つけてしまう可能性は否定できない。

 ちなみにモデルケースは田沼ちさとさんのそれ。
 今ではそれなりに仲良しさんらしいから、世の中わからないって思うけれど。
 だから世の中って素敵、とも思ったりするわけなんだが。

 と、世の中の素敵さについてはともかくとして、だ。
 令さまの『そんなことしてないよ』は、以上のような理由によりイマイチ信が置けない。

「いいえ、わからないわ。令は基本的に分け隔てなくみんなと接するから、由乃ちゃんは勘違いするかも」

 なんて祥子さまの見も蓋も無い発言に、祐巳は小さくずっこけかける。
 古くて広くない温室に五人詰まっているわけで、コントみたいな大技は使えないからその程度で、かろうじて。
 だって。

 おいおい、あなたが言いますか?
 って思ってしまったのだ。梅雨の日々の出来事は、思い出にしたけれど忘れることも出来ない。
 あのときの祥子さまの態度には、やっぱり傷ついたもの。勘違い、させられたもの。

 なんにしても、自分のことは自分が一番よく見えないってことなのかもしれない。
 お姉さまは祐巳のフォローをしようとしてくれているわけだし。

「うーん、それはあるかもしれないけれど」
「由乃さまの場合は、勘違いの仕様が無いケースでも勘違いされますけれどね」
「こら、乃梨子。そんなこと言うものじゃないわ、たとえ真実でも」

 ごめんなさい、お姉さま。
 素直に反省する乃梨子ちゃんと、解ればいいのよ的カラー満面の志摩子さん。

「二人は仲良しでいいねえ……」
「…あ、ごめんなさい。令さま」
「申し訳ありません、令さま」
「いや、いいんだけれどさ。二人の言うとおりではあるし」

 でも、と令さまは続ける。

「確かに私にはそういうところがある、それは認める。けれど由乃の性格から言えば、そーゆーの見つけたら瞬間湯沸し沸騰だと思うんだよ」
「ああ、それは令さまの言うとおりかもしれません。由乃さんなら、おかしいって思ったとたんにどかーんだと思います」
「うーん、それは祐巳の言うとおりね。とすると、それでは無いってことかしら」

 お姉さまが翻意したところで、ひとまずこのラインは失効。
 とすると次は……なんだろう。

「由乃さんは、令さまの些細な発言でいきなり、という事もありますよね」
「ああ、あるね。でもそれも色目と同種じゃないかな?」
「ああ、なるほど。令さまの仰るとおり、その場合でも由乃さんはその場で反応しますね」

 瞬間湯沸し沸騰器、ここでも健在。
 とすると、令さまの何か行動が気に障ったとか発言にカチンと来たとか、そのラインは全てありえなくなる。
 昨日のお別れが穏やかなものであったというところで、リアクションの早い由乃さん的にはその時点ではご機嫌だったってことだ。

 とすると……。

「ということは、由乃ちゃんのご機嫌斜めは思い出しご機嫌斜めの可能性が高いのかしら」
「思い出しご機嫌斜め、ですか」

 ええ、と頷くお姉さま。
 お嬢様的造語には時々ついてゆけない。妹として説明を求めると時々むくれるので、ここは待ちの一手。
 あるいは他の誰かが尋ねてくれるか、はたまた他の誰かが意を汲んでくれるまでの待機。

 救いのマリア様の手は、令さまから。
 ああ、って感じで腕組みをときながらの発言だけれど、やっぱり狭い空間に集まっているからそれもどことなく遠慮がちな仕草。
 まあ、話の内容も内容だし。距離を置いて大きな声で話すには、ちょっぴり気が引ける。

「つまりその日の行動をあとから思い出して、それでやっぱり許せないって気持ちになるやつだね。……今までも何度かあったから良く解るよ、祥子の例え」

 なるほど、由乃さん。瞬間湯沸し沸騰器であるばかりか執念深いぬかづけでもあるのか。なんと迷惑……もとい、高性能女子高生であるか。令さまのご苦労、心からお察し申し上げる。
 おっちょこちょいで落ち着きがなくて平凡だけれど、そこまで嫉妬深くは無い(なれないとも言うが)祐巳が妹であるっていうのは、祥子さまとしては幸せなことなのかもしれない。

 もちろん、姉妹の幸せなんて嫉妬深さやらなんやらだけで計れるものではないわけで。
 恋人や夫婦とそれは同じ。令さまは他の誰を妹にするよりも由乃さんと一緒である方が幸せに決まっているのだけれど。

「じゃあそれじゃないんでしょうか。客観的事実を総合すると、それ以外可能性は無いと思うのですが」

 乃梨子ちゃん、手をお腹の辺りで組んで発言。
 うーん、確かに正しい意見だ。ハッピー由乃さんからご機嫌斜め由乃さんへのトランスフォーム間にある断絶を鑑みるに、それが一番ありえそう。
 けれど、ありえそうがそのまま真実とはもちろん限らない。令さまの疑問一杯の表情がその何よりの証拠。

 どんなに正しいと思える推理、推論でも。
 こと由乃さんに関する事例なら、令さまが頷かないとイマイチ真実味が出てこない。
 そういう姉妹だ、彼女たちは。

「なにか納得できないことでもあるのですか、令さま?」

 こちらは伸ばした腕を腰の前辺りで組んでいる志摩子さん。
 高さは違うけれど、姉妹なんとなく似たポーズ。のめりこむ祐巳や祥子さまと違って、やっぱり冷静軍団って感じ。
 あごに手をやり小さく頷いて、令さまはその眉間のしわの訳をご披露してゆく。

「その機嫌の悪さは今までも確かに何度かあった。いきなりだから今回のと似てはいるんだ。いるんだけれど、ちょっと違う」
「どこがなの?」
「うん。由乃の性格から言うと、思い出したネタで怒るってのはちょっと潔くないって思うらしいんだ。武士は潔さが第一なんて、一応あいつの座右の銘の一つらしいし」

 いくつあるんだろ、由乃さんの座右の銘って。
 きっと十個じゃ終わらないよね。なんかそれっぽく気に入ったの見つけたら追加する人だし。

「まあ全然守れてないんだけれど、それでもやっぱり思い出し機嫌斜めは後ろめたいところがあるみたいで、どことなくふてくされたような感じになるんだ。でも今日のは……」
「違ったって訳ですね。……うん、確かに。教室の様子を見ても、積極的にご機嫌斜めな感じはしました」
「そっか。…今朝もそんな感じだったんだ、あれは近いところで私が腹を立たせるような何かをした時のりアクションだった。だから違うなって、漠然とそう思うんだ」

 令さまの漠然とした、由乃さんに関する推理。
 それはきっと、私の友人としての勘とか、乃梨子ちゃんの推理とか、祥子さまの何の根拠も無い高ピー決め付けとか。
 ありとあらゆる何か、全てを越えて正解に一番近いんだと思う。理由なんて無い。

 ただ。

「そう。じゃあきっと違うのね。……とすると……ほらほらみんな。他に何か意見、アイデアは無いの?」

 ただ、祥子さまだけじゃなく。
 ここにいるみんながそうなんだろうって思ってしまう。
 ただ、それだけで。

 でも、それより上のものなんて、きっと何もなくて。
 由乃さんの怒っている理由も、それに対処する方法も、全然見つからない温室の中で、それが。
 それだけがたった一つの真実のようで。

「え、えーっと……」
「そうですねえ…」
「うーん…」

 まるで、そう。
 それだけが救いのように、腕組みして首を傾げるみんなの真ん中にあるような、そんな気がしていたのだった。

 

 

 話し合いは、大体十分くらい。
 当たり前のことかもしれないけれど、何にもわからなかったし見つからなかった。
 土台、お天気屋さんで瞬間湯沸し沸騰器でかつぬかづけな由乃さんの心理を予測するのなんて不可能なのだ。

 ちなみに上述のネーミング、全てシュレッダーで消去することが祐巳内部では決定している。
 迂闊なことを思っていたら、いつ何時本人の前で出てこないとも限らないのだから。

「はあ、やっぱりダメだな。やめよう、やめやめ」

 疲れたように令さまがお手上げのポーズ。
 あわせるように祐巳たちもそっと脱力。
 さすがに疲れ、溜まってきていたし。

 ある種不毛と、解ってもいたし。
 それでも頑張ったのは、令さまが今みたいに肩を落とす姿を見たくなかったから。
 見るんだろうなあと思っていても、それでも、出来るならばって思っていたから。

「あーあ……結局なんで由乃が怒ってるのか解らないし」

 こんなことじゃお姉さま失格かな、なんて。
 大して広くも無い温室で、豪快に肩を落として盛大にため息をつく令さま。みんなのほぼ、予想通りの落ち込み方。
 その姿はいじらしく、痛ましく、それでいてどこかこっけいでもある。

 そしてひどく、黄薔薇さまらしくなくて。
 そしてひどく、支倉令らしくて。

「そんな事は無いわよ、令」

 ぽん。
 祥子さまがその肩に優しく触れて、そっと笑う。
 そんな事無いって、首を振りながら。

 祐巳たちは無論、合わせたように一斉に頷いた。
 そんな事無い、絶対絶対無い。
 由乃さんの怒る理由をいちいち理解していたら、多分それ以外を考える余裕がなくなっちゃうと思うから。

 それに。
 それに、そんな事は無いのだ。

 由乃さんのことがわからなくても。
 それでも、令さまだからこそ由乃さんのお姉さま出来ているわけだし。

「そうですよ、令さま。そんな事絶対に無いです!」
「……ありがとう、みんな」

 声をかけるのは、きっと紅薔薇の伝統。
 黙って頷いて、微笑みかけるのが、きっと白薔薇の伝統。

 ちょっぴり寂しそうな笑顔と共に令さまはでももう一度ありがとう。
 それから時計に目をやって、そろそろ行かないとって。
 怒鳴られに行かないと、って。

「お役に立てずに申し訳ありません、黄薔薇さま」
「ううん、いいんだ。さすがに情報足りなすぎるよ。由乃の意味不明はまあ、いつものことだしね」

 乃梨子ちゃんに、大丈夫大丈夫って手を振る。
 全然大丈夫じゃないって解るから、誰もが心配になっちゃうんだけれど。
 あまり見たことの無い令さまに、乃梨子ちゃんは本当に心配そうな顔。最後の悪あがきって感じで、また言葉を並べる。

「……昨日わかれてから接点が一つも無いのに、由乃さまが態度を変える理由が思いつかないんですよね。接点が無ければ態度を変えることも……。令さま、もう一度確認します。昨日は駅で別れてからまっすぐ帰って、家で宿題されていたんですよね。それ以降、由乃さまとはお会いになっていない?」
「うん。家に帰ったときは由乃の部屋の明かりはついていたから、もう戻っていたはず。ずっとついてたから、由乃は部屋から出ていないよ」
「そうですか。とすると部屋で何か……」
「……え。ちょ、ちょっと待ってください、令さま」

 不意に、祐巳は声を荒げた。
 え、え、え?
 それって何かおかしい。

「どうしたの、祐巳?」

 お姉さまにちょっと待ってくださいってごめんして、考えをまとめる。
 ……うん、おかしい。これはおかしくて正しいはずだ。

 令さまに向き直る。
 まっすぐ、驚いた顔の先輩に、そして尋ねる。
 四季咲きの薔薇を、背中に背負って。

「どうしてそこで、由乃さんの部屋の明かりがついているんです? 令さまの方が先に帰ったんですよね、家に向かって」
「え? あ、そうだね。えっと、うーんと……ああそうだ、思い出した思い出した。実は家に戻る途中の列車で、たまたまお姉さま…じゃないや、江利子さまと会ったんだよ。気がついたのが駅に止まる寸前だったから、折角だからってことで下車して、ベンチでコーヒー飲みながらしばらく話しをしてたんだ。そのせいじゃないかな」

 令さまは、今思い出したって感じで話してゆく。
 乃梨子ちゃんが呆れたようにぽかんと口を開けて。
 志摩子さんが、よくあることなのよって顔で妹の肩を叩く。

 令さまお得意のおおぼけ。
 今の今まで、全然思い出さないあたり、筋金入り。
 そして、それが答え。

 きっと、答え。

「……あ。まさか……」
「そのまさかだと思います、きっと」

 絶句する祥子さま。

「なにが?」

 そして、おおぼけ継続中の令さま。
 こめかみの辺りを押さえながら、祥子さまは親友の肩を叩く。
 さっきとは随分、たたいた時の音が違うと思った。
 気のせいじゃ、絶対無かった。お嬢様的、最後通告の音。

「由乃ちゃん、見たのよ。あなたたちの姿を、駅のベンチで」
「……え?」

 そして、青ざめる令さま。
 ちなみに、志摩子さんもかすかにおびえている。
 同学年として、由乃さんのパワーを知る人間としては、まあ自然なリアクションかも。

 残酷な様だけれど、でも祐巳は続ける。
 推理。……というか、ある種死刑宣告。
 でも続けないと、この重苦しい空気にみんなが押しつぶされてしまいそうだから。気付いた当人として、祐巳はなんとなく正義感で続ける。

 気付くの遅いわよ、祐巳さんっ。
 想像の中の由乃さんは、頭に角が生えて尻尾が生えててとがっていた。
 残念ながら、きわめて遺憾ながら驚くほど似合っていた。

「由乃さんの性格なら、そしてきっとこう思うと思います。先に帰って勉強するとか言っておきながら、こんな寂れた駅で江利子さまと二人っきりでデートしているなんて…。しかも私に嘘をついでまで、アリバイ工作してまで。……許せない、許せないわ、令ちゃんっ! ……って、今のは由乃さんバージョンの私ですからね」
「祐巳、ちょっと真に迫りすぎよ。令、おびえてるじゃない」
「ごめんなさい、お姉さま」

 てへっ、みたいに軽く舌を出して謝る祐巳。
 仕方ないわねえ、なんて笑って許す祥子さま。

 無論そして、それどころでは無い令さま。
 なまじ同じクラスで付き合いも深いだけに、祐巳の物まね(似てはいないんだが思考回路とかはよく出来ていると思う)におびえること、一通りではない。

「……まさか、まさか……それはまずい。きわめてまずい」

 まずい、まずいって。
 今の今まで忘れていた事実に、散々おびえ始める令さまだった。
 運が悪いってだけなんだけれど、それにしても……やっぱり。

「尻にしかれる姉ねえ、あなたも」

 まったくです、お姉さま。
 どちらかと言えば尻に敷かれているようで、でもその実手綱を引き締める側でもあるような妹である祐巳は、こくこくと温室のロサ・キネンシスの前で頷いた。
 かくかくと、壊れた人形みたいに口をパクパクさせる令さまに、同情の眼差しを向けながら……。

 

 

 

「…はあ、仕方ない。もう覚悟を決めるかなあ」

 壊れた人形を終えた令さまは、今度はビジュアル系芸能人へチェンジ。
 前髪を右手ですくっておでこを出してから、はあって大きな大きなため息、ウィズクローズドアイズ。
 長い長いため息に覚悟をこめて、よし、って気合充電。

 さあ、行くか。
 愛しの妹の下へ。
 ……きっとけちょんけちょんに怒鳴られに。

「ところで、結局令はどうしたいのかしら。ここにみんなを集めたということは、なにか決心があったのよね」
「あれ。由乃さんの怒ってる理由探しじゃなかったんですか?」
「それは途中から私たちが盛り上がったことよ。それもあるって、令は言っていたでしょう?」
「……そういえば」

 完全に勘違いしてました、お姉さま。
 ぽりぽりとほっぺたをかく祐巳が気まずさごまかすために周りを見れば、志摩子さんも乃梨子ちゃんも同じポーズ。
 ……なんだかんだ言っておしゃべりに夢中になってしまうのは、薔薇さまとはいえど同じなのだ、うん。

 ともあれ、勘違いは正さなくてはならない。
 今日はいつにも増して苦笑いの多い令さまは、えっとねって説明へ。
 物分りと勘のよいお姉さま以外の私たちにしてくれる。

「とりあえず、私が由乃と話をしてくるから、その間二人にして欲しいなって」

 …なんとなく、想像できた言葉。
 そして普通ならそれは、当たり前の言葉。妹と二人で時間を過ごしたいって、それだけなんだから。
 なのになぜだろう、この言葉がこんなにも悲壮感を漂って感じられるのは。
 なんとなく、祐巳は目端に涙が浮かんできそうな気がした。凄いな、令さまって。

 普段ならそんな事無いんだけれど、今の祐巳は……そして山百合会は過度に由乃さん恐怖症。
 令さまがここまで素直にやばいって思うくらいだもの。本気の由乃さんなんて、想像するに余りある。
 伊達にロザリオ返していない。っていうかロザリオ返したことのある(本気で)女の子なんて、リリアンでもまれだ。その度胸たるや、やはりリリアンでも指折りなのである。

 多分祐巳たちは、本気の由乃さんを知らないのだ。
 知れているだけ、知っているだけ、令さまが凄いということでもあるんだけれど。

「だ、大丈夫ですか、令さま? 私がついていっても宜しいですよ。私が一緒なら、由乃さまももしかしたら……」

 気持ちは、わかる。
 まるで一人で戦地に赴く勇者のような佇まい。容貌とも相まって余計に鮮烈な令さまである。

 であるがしかし、心配してそれを声に出してしまう乃梨子ちゃんは、こういうときちょっとピントが外れている。
 賢いから、そして優しいからの心配には違いないのだけれど。
 けれど、やっぱりまだ令さま&由乃さんを経験不足なのだ。

 それが、どんなに大変なことだとしても。
 でも、誰かに助けて欲しいなんて令さまは決して思わない。
 どんなに叱られるとしても、物を投げられるとしても。それでも一人で由乃さんに会いに行くのだ。

 令さまだから。
 そして、由乃さんだから。

「大丈夫よ、乃梨子。令さまは一人で行きたいの。だから、我慢なさい」
「お姉さま……」
「そうだよ、乃梨子ちゃん。ついでに言うなら、誰がいたって由乃さんの爆発は止められないしね」
「祐巳の言うとおり。ここは令に任せましょう」

 乃梨子ちゃんを諭すのがお姉さまである志摩子さん。
 フォローは紅薔薇姉妹。
 そして締めは、頷いてくれる令さま。

 大丈夫だよ、って。
 そして、ありがとうって。

「……解りました、令さま。申し訳ありません」
「ううん、ありがとう。……さて、じゃあ行ってきますか」

 一息。
 気合を入れて、歩き出す。
 狭い狭い温室だから、みんな少しずつスペースを空けて。
 戦いに行く勇者に、道をあける。

 頑張って、とも。
 気をつけて、とも。
 どの言葉もふさわしく無い気がして、だからみんなただ、見送る。

 見つめる。
 それだけで、きっと。
 そう。それだけで、きっと。

「骨は拾ってあげるわ、令」

 祥子さまったら、そんな風に。
 みんなを全然代表していないような、でも。

「ありがと。感謝するよ、祥子」

 でも、どこか素敵な言葉をかけて。
 令さまはありがとうって、片手を挙げて温室を出てゆく。
 様になりすぎて怖いくらい。令さまが男の人だったら、多分……。

「令さまが男性だったら、凄くしっくり来るシーンね」

 おや、志摩子さんも珍しく同じことを思ったみたい。
 祥子さまにだけ聞こえないような、空気を僅かに流すだけの声で言ったから、祐巳ももちろんって頷いた。
 自分のお姉さまだけれど、でも確かに決まる。お姉さまと令さまのデート、多分ありえないけれどそれは最高にかっこいいだろう。

 でも、って。
 誰もが思うことを代表して言ってくれるのは、なんとなく乃梨子ちゃん。

「だとすると由乃さまと紅薔薇さまの激闘でリリアン激震だと思うんですが……」
「……確かに」
「……そうね」

 まるでリリアン瓦版の見出しみたいな乃梨子ちゃんの『リリアン激震!』に、二年生二人はそっと笑って。
 こらって、小さく叱る祥子さまにあわせて、視線を温室の外へ。
 背中へ。

「……そうだ」

 まっすぐ伸びた、三年生の背中にかける言葉を思いついた祐巳は、そっと。
 けれど、狭くて思い出の一杯詰まった小さな温室には十分なくらいの大きさで。
 小ささで、呟いた。

「由乃さんに宜しくお伝えください、令さま」

 友へ。
 今はきっと、怒鳴りつける言葉を考えるので一生懸命な。
 一人、薔薇の館でいらいらしているだろう親友へ向けたそれは。

 大切な、大切な。
 世界で一番そして、その親友を思う人に預ける、それは言葉なのだった……。

 任せてって感じで、振り返らず右手をひらひら振る令さまの去った温室で。
 風も無いのに、祐巳たちの後ろで薔薇たちが揺れた。
 祐巳の言葉で、きっと揺れたのだろう。
 マリア様しか見ていない、それは不思議で小さな、薔薇たちのダンスだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 薔薇の館は、当たり前だけれど静かだった。
 元気な縦ロールの一年生がいればまた違ったかもしれないけれど、とりあえず今は静か。
 つまり、由乃一人って事だと令は解釈する。

「…さあ、頑張ろう」

 解釈したから、気合を入れる。
 一階の扉を抜け、階段へ。
 なんとなく足音を立てないよう、静かに上ってしまうのは、まあ仕方ない。

 解っていても、解っていない。
 仕方ないけれど、やっぱり怖い。
 支倉令らしさを前面に押し出しながら、一段一段彼女は妹の元へ。

 ぎしぎしときしむ木の段が、いつもより少しにぎやかだと思った。由乃はそんなに耳ざとい方では無いけれど、これでは上の部屋にいたら間違いなく接近に気がつく。
 今頃はきっと、パワー充填中。部屋に入った途端一気にどかーん、って感じだろうか。

 やれやれ、せめて願う奇跡としては。
 このいつもより大き目の階段の音が一気に裂けて、崩れ落ちてくれないかっていう程度の願い。
 それなら、さすがに由乃も責める気にもならないだろう。崩壊した階段に埋もれている自分を見つければ、さすがに。

「そんな痛いのは、さすがにごめんだけれど」

 あと数段まで行って呟く。
 それにもし階段崩れると、由乃も降りてこられなくなっちゃうし。
 なんて、そっちの心配の割合が心の中明らかに重たい令は、やっぱり令なのであった。

 しかしどうしてだろう。
 もしそんな事故がおきたとしても、やっぱり由乃が二階から怒っている姿しか思いつかない。
『バカなんじゃないの、令ちゃん。普通階段崩れる?』みたいな理不尽きわまる叱責をする姿が。
 つくづく、令にとって由乃は凄い笑顔か、凄い怒っているかの妹であった。

「……さて、行こうか」

 もう何度目だろう、自分に勢いをつけたのは。
 半ば呆れながら、令は上りきった階段からビスケット扉を目指す。
 佇む二枚の板の向こうに、由乃はいる。
 おそらく、いる。

 …。
 ……。
 ………。

 よし。
 行こう。

 ノブに手を置く。
 ノックしようかどうか少しだけ迷って、やっぱりやめておいた。
 それじゃあまるで、二人での対決を知っているみたいだったから。

 何も知らないフリをして。
 そして素直に攻撃されよう。
 願わくば……そう、せめて、願わくば。

「薔薇の館の椅子がとんでくることの無いように」

 それだけはさすがに勘弁して欲しかった。
 プロレスの場外乱闘が出来るくらいまで体力が回復しているなら、喜ばしいことでもあるのだけれど……なんて思ってしまう自分は、やっぱりダメなんだろうな。
 苦笑いしながら令は、ドアを開けて。
 そして、その向こう側の景色に、一瞬言葉をなくした。

「え?」

 そこには、小さな奇跡が。
 本当に本当に、小さな小さな奇跡が――。

 

 

 

 

 

 

 静かな時間が、流れていた。
 令が部屋に入ってから、もう二十分。夕焼けが優しさを増すには十分な時間が過ぎて。
 その間、由乃との間には一言も言葉は交わされていない。

 静かだった。
 優しい、時間だった。
 少しほこりっぽい気のする部屋に、優しさがずっと漂っていると思った。

「…ふー。……むにゃ……」

 由乃は、眠っていた。
 薔薇の館の大きなテーブル、いつもの席に腰掛けて。
 机に突っ伏しながら、すやすやって擬音と共に眠っていた。

「……やれやれ、お疲れでしたか。お姫様」

 その隣の席にそっと……本当にそっと腰を下ろしてから、令は笑う。
 苦笑いではない、素直な笑顔。
 意味を考えることまではしない、笑顔。 

 夕焼けが差し込む部屋に、静かな寝息が規則正しく響いてゆく。
 時計の音とだけ混ざり合ってそれは、優しく暖かい音楽を奏でていた。
 階段を上りながら予想していた喧騒とは大違い。

 静かで。
 幸せで。
 それでいて、どこか寂しい気がする自分は、やっぱりちょっと変なんだろうって令は、そっと笑った。

 でも、変でいいんだろうって。
 やっぱり、そっと笑った。

「こうして見ると、由乃はほんとに可愛いよねえ」

 普段だって可愛いけれど。でも今の由乃は、目を覚ましていたら決して言わないようなセリフをつい口にしてしまうくらい可愛くて。
 それくらいそして、令は今穏やかな気持ちでいた。
 少し長めに伸びた影が、由乃にかからない方の椅子に腰掛けて。
 だから由乃の影を浴びながら、そっと、そっと。

 そっと、その小さな手に触れる。
 指先に触れる由乃の手の甲は、温かかった。とても、とても、温かかった。

 そこにある、そして文字を見る。
 眠っている由乃より、下手をしたら先に見つけた笑ってしまうような、左手の甲に書かれた言葉を。

「…温かくて、生きていて」

 生きている。
 島津由乃は、生きている。
 誰よりも、誰よりも、生きている。

「そして、私を叱る未来を忘れないように、か」

 リリアンでも時々やってる子がいる。手の甲に言葉を書いておくってやつ。
 確かにあれは忘れないだろう。祥子とかは絶対にやらないと思うけれど、祐巳ちゃんとか瞳子ちゃんとかならやっていてもおかしくないかもしれない。
 見たことが無いのはきっと、祥子に見つかって叱られるのが怖いからかもしれない。

 令は、したことが無い。
 由乃も、気がつく限りではしたことがなかった。初めて見た、だから妹の手に躍る文字を。

 その最初が、これだ。

「目を覚ましたら、まず私に『バカ!』なんだろうね」

 バカ。
 左手に踊る、バカって文字。
 そんなに綺麗ではないそれをなでながら、苦笑する。
 それはもう、想像なんて生易しいレベルじゃない。確かな未来だった。

 支倉令だから、見えてくる。
 島津由乃との間にだけ見えてくる、確定未来。
 予想じゃない。そうなるに決まっている、録画されたビデオテープの先みたいな、そんなシーン。

「令ちゃんのバカっ! ……だよね、由乃」

 黒マジックが語りかけてくる。
 令ちゃんのバカっ。
 由乃の声で。

 元気一杯の、島津由乃の声で。

 そうなると、なんとなく早く聞きたくなってくるから人間って不思議だと思う。
 無論単に、令の精神構造が不思議なだけである可能性も否定できないけれど。

 今の由乃は、きっと本気。
 本気の由乃のバカは、やっぱり怖い。昔その後、一連の流れでロザリオ投げつけられた事もあるんだから、当然といえば当然。
 姉なんだからそして、妹にバカなんていわれない自分でいたいのだって本当だ。由乃がいつだって誇れる自分でありたい。

 そんなの、きっと絶対無理だけれど。
 けれど、言われない方がいいには違いない。
 けれど。
 けれど、思うのだ。

 支倉令は、思うのだ。
 支倉令だから、思うのだ。

「でも、私は由乃のバカに鍛えられて、せかされて、元気付けられて、励まされて生きてきたんだよね……」

 少し、強く。
 でも決して起こさない程度に、その手をつかむ。
 文字を隠さない位置を、そっと。
 そして、思う。
 もしも、もしも。たくさんのもしもを。

 例えば、そう。
 もしも由乃の文句や叱咤が無かったら、ここまで剣道を頑張っていただろうか。
 山百合会で、ここまで頑張ろうとしただろうか。

 叱ってくれる、従姉妹がいた。
 彼女は、友人で、幼馴染で、性別が違えば確実に恋人で。
 そして、妹で。

 世界で一番、大切な人で。

 世界中でただ一人。
 バカと言われても、なんとなく頬が緩んでしまうような、そんな相手で。

「こんな事考えていたら、また言われちゃうね。令ちゃんのバカ、意気地なし、って」

 由乃は、弱気な令が大嫌い。
 由乃の令ちゃんは、いつも格好よく、強く、潔く。
 そうで無いと、妹はすぐに怒る。

 令はそんな時、いつだって困ってしまう。
 高望みしすぎだよって、腰が引ける。自分はそんなにご大層な人間じゃない。運動は得意だし、山百合会の一員としてがんばってはいるけれど、本質的にはどこにでもいる普通の女の子だと思う。
 顔形についての自意識は、ある。ミスターリリアンって称号も、趣味を鑑みればどうだろうって感じだけれど、まあ悪くは無い。

 けれど、いつも思う。自分は祥子や、あと例えば蓉子さまのような特別な何かを持っている人間ではない、と。
 下手をしたら山百合会で、一番普通の人間なんじゃないかと思ったりする。それでいいんだけれど、もちろん。

 そんな自分が、でも多少なりともまともな人間になれたのは。
 頑張ろうって、思えるようになったのは。
 リリアンを引っ張ってゆく立場に今、立っているのは。
 それは間違いなくこの、目の前で眠っている少女のお陰なのだから。

 島津由乃。
 夕焼けの差し込む薔薇の館で一人、テーブルに突っ伏してすやすや眠っている。
 その姿はまるで、わがままで叱られてばかりの天使のよう。
 わがままだけれど。叱られてばかりだけれど。

 それでも、天使のよう。

「これからも宜しくね、由乃。あんたのバカ、待ってるよ」

 叱られたいわけじゃない。
 叱られないような、由乃の望む自分になってゆきたいと心から思う。
 それはこの夏、胸を張って堂々と差し込む太陽の光のように揺らぐことの無い決意。
 けれど、それは今のこの、夕焼けの明かりのように。 

 どこか弱弱しく、揺らめいて見えるような逃げも込みの決意。
 夕焼けは、儚く。
 そんな風に令は、自分の未来を曖昧にぼかしておく。

 叱られないように頑張りたい。
 けれど、叱られないとしたら自分はきっとダメになる気がする。
 由乃の叱咤激励から逃げるように、でも逃げられないままで。
 だから自分は、ここまでやってこられたのだから。

 これからも。
 だからきっと、由乃には叱り続けてもらわないといけないって。
 そう思うのだ――。

 夕焼けに眠る天使。
 わがまま天使を令は、ただ見つめていた。

 最初は、隣から。
 途中から、少し離れて、天使を。

 夕焼けの差し込む窓の、その側から。
 赤い光を半分だけ背中に背負って、じっと。

 そのわがままという魔法が唱えられる瞬間まで、ずっと、じっと、そうしていた。

「……ん。あれ?」

 ゆっくりと目を覚ます。
 天使の目覚め。夕焼けが消した羽が、影となって見えた気がした。
 もちろんそれは、目をこする妹の手の影なんだけれど。

 赤を背負ったその姿を見た由乃が。
 バカって第一声を忘れないようにと、手に書いてまで置いた由乃が思わず。
 叱るはずだった由乃が、思わずそれを忘れてしまうくらいに。

「令ちゃん……西部劇の保安官みたい」

 赤い光を背負った、長身の乙女チックミスターリリアンは。
 妹の言葉の通り、まるで夕焼けの地平線からヒロインを助けに現れる、西部劇のヒーローのように見えた。
 保安官。あるいは。

「保安官なの? 北町奉行所のお奉行様じゃなくて?」
「あ、そっちかも。まあどっちでもいいんだけれどね」

 そっか、ってそっと微笑む令。
 同じ様に、由乃も微笑んだ。
 令の一番好きな人の、一番好きな顔。

 それを見ている令の顔が、そしてきっと由乃の一番好きな令の顔。

 距離を縮めないで。
 立ったまま、腰掛けたまま、お互いを見詰め合う時間が少し。
 心象的には、相当長い間続く。

 どちらにも、言うべき言葉がある。
 だから、言いづらい言葉がある。
 止まったような時と、止まる瞬間のない心を抱きしめて、そのままでそして。

「……ごめんね、由乃」

 多分、そこに何の正統性も無いままで、でも令は謝った。
 その意味は、もちろん由乃には解る。
 それが自分のわがままから出てることも。令ちゃんもそうだって解ってることも。

 それでも謝っちゃう、令ちゃんだって事も。

 だから由乃は、少しだけ目を閉じて。
 ごめんねを、何度も何度もリフレインして。

 そして、それから立ち上がる。
 歩き出す、姉の側へ。隣へ。
 夕焼けを背負って側にいる姉の手をとって。

「ねえ、令ちゃん」
「ん。なあに、由乃?」

 うっすら、笑みを。
 とても幸せな笑顔を浮かべながら。
 一度視線を、左手に落として。そして、それから。

「…ばか」

 小さな小さな声で、姉を叱ったのだった。
 夕焼けの中、届いた言葉を
 小さな、小さな声で。

 スキ。

 その言葉とどう違うのか、多分世界中の誰にも区別できないような、小さくて曖昧な声で……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕焼けの君へ
〜prelude & epilogue〜
Interlude あり


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