-0-

 貴女は時々、帚星(ほうきぼし)のようだから。

 ふとしたことで流れ、輝きを消してしまい、誰も見つけることができなくなる。

 それでも私が貴女を見つけられるのは、貴女の光ではなく、貴女自身を見ているから。

 だから、私は誰よりも早く、貴女を見つけることができるのよ。

帚星(ほうきぼし)行方(ゆくえ)

-1-

 誰だって本当に苦しい時には、どんな励ましや心遣いも、却って疎ましく思えるものだ。夏休みが終わっても威風堂々と居残る夏の日差しに目を細めながら、小笠原祥子は薔薇の館へと重い足を向けていた。その歩みは、普段の祥子を知るものならば戸惑うくらいに覚束なく、精彩を欠いていた。全てを睥睨するかのようにぴんと張られた背筋、目元の面影はどこにもなく、陽気に反比例した重苦しい空気を吐き続ける始末だった。

 今日こそは、祥子に取って正しく死の宣告を授かる日であり、賜う人物は既に館の中で、紅茶でも啜りながら待っているに違いない。祥子の『姉』である水野蓉子とは、そういう人間だ。常に祥子の前を行き、万難を拝し、秩序を整え、個性派揃いの生徒会や無垢な少女たちの要になってみせる。そして祥子に取っても、完璧に近い『姉』で在り続けている。突拍子に思え、容易には承服し難いことであっても、蓉子の言葉は祥子に大概、正しく作用した。だからこそ、蓉子の言葉が想像でき、憂鬱の総和は増すばかりだった。

 二学期になっても妹を紹介できず、ましてや醜態を曝しに行かざるを得ないという事実は、分厚い雲のように重苦しく、胸の辺りを覆い続けている。引力にすら耐え切れず、祥子はもう一度、溜息を吐く。どうしてこの世界には男がいて、男子校があって、花寺学院があって、男子校で、男ばかりなのだろう。螺旋ループする思考から逃れられず、歩幅も少しずつ狭まっていく。このまま挫けてしまおうか、心が傾き始めた頃合を見計らったかのように、背後から声が掛かる。

「何やってるの、祥子。牛歩戦術の練習かい?」

 からかうような独特の高音。一度聴いたことのある者なら、誰であろうと忘れられそうにない声は、祥子の動揺を表面化させ、振り向かせる。セミロングの髪を無造作にたなびかせ、中性的な顔は見事なまでに相好を崩している。その様子は、今日の仕打ちに彼女が一枚噛んでいることを確信させるもので、祥子は寸でのところで酷い悪態を吐きそうになった。米国で神を冒涜する時に使うのと殆ど同じ意味で使う語彙を留めさせたのは、完璧なまでに礼儀の型にはまった祥子の理性だった。代わりに小さく頭を下げ、毅然とした姿を整えて挨拶する。

「ごきげんよう、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)」そして、棘を含めた言葉を添える。「ええ、そんなところですわ」

 目には目を、歯には歯を、嫌味には嫌味を。精一杯の虚勢を張ったのだが、白薔薇さま――佐藤聖は、珍しい動物でも観察するような視線で見やるばかり。

「私のどこが、そんなに珍しいのですか?」

 すると聖は、祥子の身体を上から下までじろり、まるで好色そうな男性のように眺め回した。

「いやいや。どのような心中か、察したいと思ってね。割と冷静そうで安心したよ」

 口は視線ほど嫌味でなく、祥子の様子を気遣ったものだった。とまれ、聖の口からそんな言葉が出た以上、彼から既に情報は伝わっているのだろう。気勢を逸らさず、祥子は軽い啖呵を切った。

「私の意見を無視して、話を進められても困りますわ」本当、困るのだ。無駄だと分かっていながら、祥子は心の中で、更に強調する。「当の本人に何の了解も得ず、ああいう卑怯な手段を取る方々には、例え尊敬する人物であっても歩み寄るつもりは一切ないから、そのつもりでいて下さい」

「私は実質、当事者じゃないんだけどなあ」

 聖は遠い視線に、薔薇の館を含める。山百合会の拠点となる二階建ては、老朽化の最も進んだ建築物の一つであるが、しかし一校の生徒会にここまでの施設が与えられること自体、その規模と影響力の強さを言外に示している。ちなみに、花寺学院の生徒会室は殆ど物置同然みたいに散らかってるらしい。柏木優の言い分だから、真偽の程はさだかでないが。生徒会という施設である以上、多少は煩雑しているが、最大限の秩序は当然のように約束されている。祥子は館の空気が好きだけど、今日だけは別物だ。しかし前門の紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)、後門の白薔薇さま。いかな人類であろうと逃げ場なし。観念した祥子は、例え却下されようとも散々文句だけは言ってやろうと腹に決め、悠然と歩き出す。

 その姿は聖に、獲物を食い殺さんとする牝豹を想像させる。これから厄介な面倒が起きそうだなと思いつつ、そういうものに首を突っ込むのが嫌いでない彼女は、付かず離れず薔薇の館へと足を進めた。

 不意に、一つだけ、くしゃみが出る。

 噂されているのかな、と思った。

-2-

「私は、真っ平ごめんですわ。先日も申し上げたはず」木造二階建て、新聞部の部長などが耳をそばだてていたら一発で聞こえるような防音性の低い部屋で、小笠原祥子は怒鳴りあげた。水野蓉子は思わず、軽い溜息を吐く。怒っていたとの報告を柏木優から聞いていたけど、まさかこれほどとは。「それなのに、私に一言の断りも入れず、話を進める。アンフェアだと思われる方が、この生徒会には一人もいないんですか!」

 まるで最後まで神の声に従い、戦場を馳せたジャンヌ・ダルクのようだなと蓉子は思う。もっとも、彼女は最終的に火炙りとされ、無残な最期を遂げたのだけど。世の中には曲げようのない正論がある。しかし、正論だけで成り立つほど世の中は寛容じゃない。管理権限という責任を持つ人間にとっては殊更のことだ。祥子と自分が山百合会と関係ない普通の姉妹なら、このようなことはしなかっただろう。しかし、紅薔薇のつぼみという立場である以上、蓉子は妹を追い詰めざるを得なかった。心苦しいことではあるが、祥子にはジャンヌ・ダルクが火刑に処された裁判の雰囲気を味わって貰わなければならない。

 思考をまとめ、沈黙が極大にまでなるのを飲み込んだ後、蓉子は口を開く。

「祥子に話を通さず、進めたことは謝るわ」蓉子は申し訳程度に頭を下げ、それから祥子の険しい視線と正面から対峙してみせる。「でも、山百合会の人間として、長い間友好的な関係を築き続けてきた花寺の方々に、不義理を押し通すことができるなどと、よもや考えているのではないでしょうね」

 倫理としての正論に、団体としての正論がぶつかり、祥子は声を詰まらせる。彼女は基本的に体制側の人間だから、他者の面子や立場を重んじようとする。蓉子は畳み掛けるようにして、言葉を紡いだ。

「良い、祥子。これはもう決定事項よ。山百合会のメンバは全て、花寺祭に参加する」

 普段の祥子なら、どのような理不尽であろうとここで角を収め、積極的に行動するための規則を練り始める。しかし、今日の祥子はいつもより物分りが悪かった。

「つぼみが一人いなくても、問題は起こらない筈でしょう。明確な形として必要なのは薔薇さまたちだけで、私たちは裏方なのですから。こちらでできることは何でもしますし、負担する責任は平等になるよう気をつけます。それでは、いけませんか?」

「うーん、惜しいけどその台詞には看過しがたい矛盾があると思うな」今まで二人の争いを見守ってきた聖が、もっともらしく祥子に言葉をかける。「祥子は一年後、次代の紅薔薇さまになるわけだ」そして、意地悪い笑みを祥子に向けた。「それとも祥子は一年後、紅薔薇さまとして薔薇の館で勉める気がないと。言外にそう、主張したいわけだ」

 聖の指摘に、祥子は厳しく歯を食い縛る。それこそ、祥子が一番指摘されたくなかったことに違いない。そして、蓉子が一番指摘したくなかった点であった。最悪、祥子は姉妹を打ち切るとさえ言えるのだ。聖と同じことを言わなければならないのなら、断固として祥子に諭しただろう。でも、それは最後の手段に取っておきたかった。

 姉妹を危ぶませる発言に、蓉子は聖を横目で睨む。しかし、祥子がその敵愾心を全て聖に向け始めたのを見て、敵意の幾つかを引き受けてくれたのだと察しがついた。聖は、このような争いで姉妹としての絆が切れたりしないということを信じて、敵役になっている。有り難いなと、思った。持つべきものは腐れ縁の薔薇さまだ。

「祥子」聖より高慢にならないよう、宥めるような口調で、蓉子はうなだれる『妹』に念を押す。「白薔薇さまの言う通りよ。去年は見逃して貰えたかもしれない。今年だって、見逃すことは可能よ。でも、来年になって一番困るのは祥子、貴女自身なの。そこのところをよく、考えておきなさい」

 祥子はただ一言、はいと答えただけだった。覇気が消え、消沈としている祥子を見るのは正直言って少し、心が痛む。でも、やはり心を鬼にしないといけないと思う。それに彼女の男嫌いは決して、強くはないはずだ。男親の浮気、潔癖な校風で育てられたというのなら、蓉子の両親だって浮気で喧嘩したことくらいある。

 男は時にどうしようもなく有害だけど、リビドーが外に備えられていて発情しやすいということにさえ気をつけて扱えば、基本的には虫も殺さないくらい無害なのだ。そのことを、祥子は身をもって体感しなければならない。そのためには、普通の男子生徒が集まる学校を訪問することほど相応しいことはない。ほらね、男って全然怖くないでしょう? そう笑ってみせる自信が蓉子にはある。必要なのは、舞台に引きずり込むための手段と実践だけだ。蓉子は当日になって不意打ち的に花寺の敷地へ引きずり込もうと、他のメンバと示し合わせしてきたのだけど、柏木のミスが計画を全ておじゃんにしてしまった。よりによって『リリアン女学園の生徒会が勢揃いするので』と電話で会話しているのを聞かれてしまうとは、お粗末も良いところだろう。

 その報いは後日、何らかの方法で償わせる。蓉子は内外の両方で問題を片付けたと見なし、次の議題に移る。まだ、決めなくてはいけないことが山ほどあり、時間は雀の涙くらい少ない。花寺祭が終われば次はリリアンの体育祭、そして学園祭。生徒会役員を決める選挙も、夏の反対側から様子を伺っている。

 だから、これ見よがしに溜息を何度も吐かないで欲しいのだけど、誰も祥子の消沈を止めようとしなかった。こういう時、彼女に明るい妹がいれば良いんだけど、志摩子の件があったばかりでそう容易く妹のことを口に出せない。結局、解散となるまで館の空気は重いままだった。

 蓉子はいつにもまして気疲れを覚えながら、最後の戸締りを確認してから入り口に向かう。と、そこに我関せずを通していた黄薔薇さま(ロサ・フェディダ)――鳥居江里子が待っていて、声をかけてくる。

「祥子のこと、あれで良かったの?」江利子はいつもの、少し気の無さそうな口調で訊ねてくる。「聖の意見ももっともだと思うけど、少しくらい譲歩しても良いと、私は思う。蓉子は、祥子に対して少し厳し過ぎる気がするから」

「江利子が、令に寛容過ぎるのよ」

「そうかな。まあ、それはあるかも」

 江利子は小憎たらしいことに、否定しなかった。

「私は駄目ね、どうも駄目。何かできることがあるならば、それを看過することができないの、きっと」

「蓉子は、祥子を放っておけないんだ」

「当たり前よ。あれほど構いたいと思わされる人間なんて、そうそういるもんじゃないわ」

 蓉子が祥子を妹として選んだ理由の中に、大きな比重を占めてそれは存在している。

「私は、祥子に妹がいれば良いなと思ってるの」新学期早々にして『孫』を得た江利子は、そんなの簡単よとばかりにさらりと重大問題の一つを口にする。「支えたいと思わせる、そしていざという時には祥子を支えるような、そんな妹」

「江利子の言ってることって、酷く矛盾してない?」

 蓉子の疑問に、江利子はにっこりと笑って答える。

「定理としては矛盾しているけど、人間としては矛盾してないはずよ」

-3-

 自分の部屋のベッドに寝転がると、祥子は特大の溜息を吐く。避けられなかったことは予想済みとしても、あそこまで反論できずに封殺されてしまうとは思わなかった。合弁することは可能だっただろう。しかし、それは混じり気なしの私事で、山百合会のメンバに、取り分け蓉子に吐ける類の言葉ではなかった。それに、聖の言葉が致命傷だった。妹としての資質を疑われているというのに、当の蓉子の前で長々と反論できるほど図々しくはない。祥子にもそれくらい、分かっていた。今回を逃せば、それこそ紅薔薇のつぼみとして蓉子の側にいることなど出来はしないと。例え蓉子が許したとしても、それで自分を許せることなど想像もできない。ならば、一層のこと姉妹でなくなれば良いのだろうか。

 それこそ、考えられなかった。男が苦手だから山百合会を抜けましたなんて、新聞部の格好のものだねで、世間の笑いものだ。お姉さまも、面子を失ってしまうだろう……祥子はそこまで考えて、心の深い所に想いを巡らせる。面子や威厳、それはある意味において大事なものだろう。だけど祥子には世間体と同じくらい、大切なことがあった。

 それは、蓉子と離れたくない、という想いだ。

 確かにいつも厳しくて、時に理不尽とも思えることを申し付けてくるけれど。蓉子が祥子のためを思って物事を進めているのは確かだし、何より側にいると居心地が良かった。剥き出しの棘だらけだったかつての自分に、痛みを共有することを承知で近づき、一本一本丁寧に抜き取ってくれた。できることなら、少しでも向上した自分となって、報いたいのだけど。現実と理想には未だ、大きな隔たりがあった。

 自分の性癖、性格全てが山百合会に存在する上で何らかの障害となる。ままならないものだ、と祥子は思う。この性格は生まれつきのものだし、好きで男嫌いという性癖を抱えてる訳ではない。それは幼い頃から、少しずつ蓄積されたもので。時に不自然な帰宅を通して、時に母の決して付けない香水の匂いとなって混ざり、醸成されていった。今では心の至る所にこびりつき、決して取り除くことができないくらいまで拡大していた。

 もう少し、頭の悪い人間に生まれていれば良かったと思う。どんな時間だろうと父の帰宅を喜び、香水と花の匂いの区別すらつかない愚鈍な娘であれば、無邪気に学園生活を送れていたかもしれない。でも、私は私でしかない。16年ものの重みを経た小笠原祥子は、斯くのようにしてこうであり、簡単には捻じ曲げられない。祥子は大きく息を吐き、今までに何度も自問してきた事柄を心の中で繰り返す。

 どうして、人間は二種類に分かれているのだろう。

 どうして男は女と違い、たった一人の相手で我慢できないのだろう。

 基督教じみた嫌悪感であると分かっているけど、祥子にはそれが我慢ならない。

 カレンダを覗く。花寺祭まで、あと二日しかない。こんな直前になって知るくらいなら、何も知らないまま蓉子の計略に陥ちていた方が良かったと、祥子は頭を掻き毟りたい気分だった。全てが裏目に出て自分を苦しめているようで、祥子は思わず枕を殴りつける。そして我に返ると、アイロンの利いたレースのカヴァをそっと撫でた。

「……ごめんなさいね」形を整えながら、祥子は呟く。「貴女が、悪い訳じゃないのにね」

 悪いのは、意気地のない、自分なのに。

 祥子は、解決しないであろうことを理解していながら、それでも明後日のことに思いを巡らせる。時計は既に一時を回り、それでも寝付くことができない。豆電球も消して、暗闇を更に深くする。

 少し、頭痛が、した。

-4-

 翌日、祥子は学校を休んだ。何て間の悪いことだろうと蓉子は心の中で溜息を吐きながら、不審の目が集うままに任せている。特に病弱の妹を抱えた令の眼光鋭いことは疑いようがなく、祭の前日であるにも関わらず自然と館に全員が揃い、弾劾裁判の様相を示していた。これではまるで、昨日の祥子と同じだ。蓉子は冷静に場を観察しながら、威風堂々と対峙していた。耐え切れず、令が口を開こうとした所に、静かな面持ちで江利子が口を開く。

「やはり、祥子には刺激が強すぎたのかな」

「祭に参加するのが嫌で、ずる休みしたとか」

 横から言葉を押し込む聖を、蓉子は睨みつける。「祥子はそんな、姑息なことをする人間じゃないわ」と、あくまで陰鬱な中に心を荒げ、揶揄を押し返した。聖が冗談だよとばかり、微笑を浮かべる。それで、険悪な空気が薄れ、説明するのに容易い状況へと変わっていた。沈黙の流れに従い、蓉子は会話を繋いでいく。

「今朝、祥子から私に電話があったわ」蓉子は、シンプルに事実だけを話すように勉める。「少し熱が出たので、今日は学校を休みます、と。私に疚しいところがあるのなら、連絡なんて寄越さないでしょう?」

「でも」と、おずおず挙手して発言したのは、令だった。「過度の心配事が、病気の原因の一つになったかもしれないじゃないですか」

 予想された発言だが、蓉子は酷く返答に困ってしまう。助け舟を入れてくれたのは、江利子だった。

「それを言うなら、令なんて由乃のことを真剣に心配し通しでしょう?」当然よね、とばかりの口調に、令は素直に肯く。「心配事をするだけで風邪を引くならば、令も今頃は家で寝込んでないとおかしいはずよ」

 ぐ、と喉を詰まらせる。江利子の指摘は令の弱点を、的確に捉えていた。その一撃が余りに強すぎたので、令は思わず由乃の方に視線を向ける。彼女は、分かっているからと言わんばかり、令に微笑を向ける。由乃が決して、令の気持ちは弱いなどと疑っていないことを示され、ようやく彼女は立ち直る。

「すいません、見当違いのことを口にしてしまいました」

 武人らしい、すっきりとした謝罪の言葉に、ようやく場の空気が和んでいく。大事なイベントを前に、団結を崩さずにすんだことに安堵の息を吐きながら、心の中では祥子のことを考え続けている。病気はどれくらい酷いのだろう。きっと祥子は、風邪より責務のために苦しんでいるに違いない。こうなると、言い過ぎたことを後悔する気持ちがわいてくるけれど、昨日はもう戻って来ない。後悔はいつも、昨日の自分が生み出してしまうものだから、一つとして取り戻しようがない。蓉子にできるのは、未来の祥子に語りかけることだけなのだろう。

 思考に耽っていると、隣に座る聖がそっと耳打ちしてくる。

「見舞いとか、行かなくて良いの?」

「……止めとくわ。何をしても、私は祥子に取って重圧になってしまいそうだから」

「重圧が風邪と関係ないことは、江利子が論証しただろ」

「それでも、よ」

 蓉子は至って真面目な表情で答える。聖は、そんな彼女を羨むような視線で見つめ、それから優しく言い添える。

「祥子の風邪、早く治ると良いな」

 明日のことではなく、あくまでも祥子の心配をしてくれた聖の心遣いが、蓉子にはとても嬉しかった。

-5-

 頭が、痛い。

 ふらふらして、視界が定まらない。机の上に置かれた目覚まし時計は、既に良い時間を指している。早く、起きなければいけなかった。

 昨日より、風邪の酷くなっているのが感覚で理解できる。平衡感覚が、全く理解できない。思考すら明瞭でなく、それでも習慣が身だしなみを整えていた。リリアンの制服を一部の隙もなく着込み、昨夜のうちに用意していた荷物を持って、部屋を出る。壁伝いに歩きながら玄関に向かう途中、運転手を見つけたので、祥子は病を押し殺して毅然な態度を取り、気取られぬようにして向き合う。昨日の今日なので、彼は心配を隠そうともせずに近寄ってきた。

「お嬢様、お体の方はもう宜しいのですか?」

「ええ、この通り元気になったわ。それで、今日は花寺学院のお祭でしょう? 私、故あって参加しなければなけないの。今すぐ、車で乗せていって貰えないかしら」

「それは宜しいですが……」と、そこで運転手の目が祥子を射抜く。「まだ、お顔の色が少し優れないようです。大事を取って、今日はお休みになられた方が」

「いえ、大丈夫よ」それから小さく辺りを見回し、声を潜める。誰か、家の者がやって来てはここから出ることができない。祥子は声を殺しながらも威厳を込めて、命令を放つ。「だから、今すぐ車を出して頂戴」

 祥子の言葉に、運転手はもう一度顔色を眺め、それから「今日だけですよ」と言い含める。酷い状況であることは分からないにしても、風邪が完治してないことくらいは見抜いているに相違ない。それでも見逃してくれることに、祥子は感謝の気持ちで一杯になる。

「ありがとう」

 祥子は小さく頭を下げ、ふらつかないよう精一杯の足取りで屋敷を出た。まもなく横付けされた車に乗り、祥子はシートに身をもたれさせる。風邪特有の吐息がもれぬよう、気をつけて呼吸をする。霞む視界は、膝を抓ることで紛らわせる。時間の感覚は、最早完全に失われていた。だから、着きましたよと言われた時には、長い夜を過ごしたかのような錯覚を味わっていた。それでも表面上は平然を装い、車を降りる。エンジンの音が、遠ざかっていく。待ち合わせ場所となる正門の前には、誰もいない。おかしいなと思って腕時計を見ると、歪んだ針は集合時刻の一時間も前を指していた。風邪のせいで時計盤すら読み間違えていた。本当に重症かもしれない。

 朝方だというのに容赦のない太陽が、全身を照らす。不思議と汗は出ず、そのことが熱を求める体の異常を顕著に表していた。眩暈がして、校門近くの壁にもたれる。挫けそうになると蓉子の表情が浮かんできて、少しだけ身を持ち直すことができた。

 自分はきちんと責務を果たしてるんだって、示したかった。今日休んでしまったら卒業までお姉さまと向き合えない――祥子には、そう思えて仕方がなかった。ごきげんようって皆に挨拶して、あいつに怯まないよう対等に渡り合って、影からしっかりと支えてみせる。大丈夫、大丈夫と何度も繰り返し、暗示をかけていく。

 ふと前を見ると、覚束ない視界の中に人の姿が見える。ああ、きっとお姉さまだ。そっと手を伸ばし、腕を掴む。その感触は妙に筋肉質で、祥子は力を振り絞って焦点を合わせる。

「やあ、さっちゃん。こんな朝早くからどうしたの?」

 聞いたことのある声、でも……違う。目の前の人物は男で、触りたくもない存在で。祥子は声をあげようと喉に力を入れる。でも、それは彼女に残っていた緊張の線を根こそぎ切り取っただけだった。見る見るうちに視界が歪む。白濁し、ノイズのない世界へと落ちていく。どんどん明るく、暗い場所に沈んでいく……。

「ちょっと、大丈夫か! おい、幾ら嫌ってるからってそういう冗談は……、…ぃ、……熱…ゃ……か。ぉ…、…子!」

 声が聞こえない、何も見えない。

 誰か、誰か私を目覚めさせて。

 私はお姉さまに会わないといけないの。

 会わないと、いけないのよ!

-6-

 整った睫毛から覗く切れ長の目が、徐々に開いていく。蓉子は緊張した面持ちの顔を心なし綻ばせ、祥子の手を握り締める。彼女は最初、どこにいるか分からないようだったが、着ている服の感触や布団の重さでどこにいるか理解したようだった。

「ここは、私の部屋……」

「そうよ。祥子、貴女は校門の前で倒れたのよ、憶えてる?」

「倒れ、た?」

 自分の身に起こったことすら認識できないくらい、祥子は混乱している。蓉子は長くすべすべとした指を絡めながら、子供に言い聞かせるみたいに状況を伝えていく。

「ええ。それで、祥子を心配してずっと様子を伺っていた運転手の方が、連れ帰ってくれたの」

 連れ帰ってくれた。蓉子の最後の言葉に、祥子の瞳が精彩を取り戻していく。明確な焦点が蓉子の瞳の表面に合わさり、不安げな心までが伝わってくる。祥子は病人と思えないほどのはっきりした声を部屋に響かせる。

「花寺祭はどうなったのですか? 時間は……そもそも、お姉さまが何故ここにいるんですか?」

 不安そうな彼女に、失望を与えてしまうのは辛い。しかし、短い間ですら隠せるようなことではない。蓉子は祥子の疑問に、正直に答える。

「もう、終わったから」

 そう言って示した時計は6時30分を指していた。勿論、朝ではなく夕方の6時。祥子は病気の頭ですら、すぐに現状を理解した。そして蓉子の見たくなかったように顔色が曇っていく。

「ごめんなさい」

 弱さの露になった、張りのない声が、心に痛い。

「私、何もできませんでした。大事なイベントの当日に身体を壊して、お姉さまに迷惑をかけて、面目を潰して……」

 じっとりと汗ばんだ手に、祥子の熱と力がこもる。

「本当に、ごめんなさい……」

 本当なら、泣いてしまいたいのだろう。でも、祥子のプライドが必死に涙を留めていた。そのために歪んだ顔が、余計に痛々しい。そして繰り返し謝るその声は、祥子がいかに責務と正面から向き合おうとしたのかを、強く示している。彼女は逃げたのではなく、精一杯に胸を張っていたのだ。意志が挫かれたのは、祥子の責任ではなく、流行性感冒という忌々しい疾病のためだ。

「良いのよ」

 蓉子はさらさらの髪の毛に手をかけ、撫でるように伝わせていく。誰もが羨むような髪を公然と弄ぶことができるのは、家族を除けば自分だけ。そんな倒錯した満足感が、いつもよりほんの少し、蓉子の言葉を優しくする。

「祥子は自分のできることを精一杯やったわ。私は誰よりもそれを知ってるし、少しばかり誇りに思っているの。責める必要なんて、一つもないのよ」

「でも……」

 なおも卑下を続けようとしている祥子の唇を、蓉子は人差し指でそっと塞ぐ。

 そして、頬を撫でながら、優しく叱る。

「でも、じゃないでしょ。誉めてるんだから、素直に受け取りなさい」

「はい。でも……」

 そう言ってから口を紡ぎ、蓉子の瞳をじっと見つめる。否定の言葉ではないことを見て取り、蓉子は無言で喋ることを許可した。

「来年は、どうしましょう」

 確かに、それは懸案事項に違いない。でも今は、祥子のことだけを見ていたくて、だから全く根拠のない言葉でお茶を濁すことに決めた。

「大丈夫。きっと何とかなるし、機会があれば何とかなるように力を尽くしてみるわよ」

「できれば、少しくらいは手加減して欲しいのですが」

 少しだけ情けない顔をする祥子に、蓉子は思わず自分のペースを重ねてしまう。

「私の性格、知ってるでしょ? それは、できないと思っておくこと。良いわね?」

 見舞いに来た先輩のいう台詞ではないなと思いながら、蓉子は柔らかく微笑む。でも、祥子は嫌な顔をしなかった。それどころか、表情には安堵の色が見えた。

「安心しました。こんなことになったから、お姉さまがこれまで通りに接してくれないんじゃないかって、少し怖かったんです」

 祥子の発言に、蓉子は少し驚く。厳しい物言いは祥子にとって厭いたいものだと思っていたからだ。でも、祥子はきちんと受け止めてくれていた。蓉子の思っていた以上に、祥子は紅薔薇としての自覚を身に付けている。姉から妹へ、伝わるものは思ったより沢山あるのだ。そのことを再認識できたのは、蓉子にとって存外の喜びだった。

「だったら、祥子は養生して。きちんと元気になってから、学校に出てくるのよ」

 はい、と肯く祥子。と、柏木に言われていたことを思い出して、蓉子は言葉を付け足す。

「あと、運転手の方にはきちんと謝っておくのよ。今日のことで、酷く叱られたそうだから」

 これで思い当たらないほど、祥子の頭は鈍っていなかった。ドアの向こう側に申し訳なさそうな視線を送ってから、祥子は蓉子に約束の言葉を返す。

「はい、きちんと謝りますわ」

 その約束を聴き、蓉子は安心して、からかいの言葉をかけてきた柏木の腹に一撃食らわせたことを、脳の記憶領域から完全に抹消する。

 これで伝えるべきことは全て伝えた。急いで来たから見舞いの品を選ぶ暇すらなかったけど、今回くらいは良いだろう。まだ少し眠たげな祥子の様子から判断して、蓉子は辞去することにした。

「私はこれで失礼するけど。祥子の方で何か訊いておきたいことはない?」

 すると、祥子は迷った後、おずおずと挙手しながら尋ねてくる。

「では、一つだけ宜しいですか?」

 蓉子はしっかりと肯き、祥子の言葉に耳を傾ける。

「私はお姉さまと出会って、少しでも変わることができたでしょうか?」彼女の声は切実さに満ちており、長い間同じ苦しみで悩んでいたことを伺わせるものだった。「時々怖くなるんです。お姉さまは私をきちんと指導して下さっているのに、私は全然進歩してないような気がするから」

 己に対する厳しさ故の自己卑下。慎みなさいといつも言っているのに、祥子は本当に弱いとき、散々その価値を貶めてしまう。蓉子は安心させるよう、肩にそっと手を置いた。

「そんなことはないわ。祥子は去年の今頃に比べて、随分としっかりしてきたと思う。今の祥子の弱点は、短期決戦型なところと、男性が嫌いなところくらいね。あ、それと妹がいないことかな?」

 痛いところを抉るのは承知だけど、訊いてきたのだから正直に答えるのが筋というものだろう。蓉子はそのような思いを込めて客観を述べた後、心の中に在る主観を祥子に語る。

「貴女は時々、帚星のようだから。ふとしたことで流れ、輝きを消してしまい、誰も見つけることができなくなる。それでも彼女が貴女を見つけられるのは、貴女の光ではなく、貴女自身を見ているから。だから、彼女は誰よりも早く、貴女を見つけることができるのよ」

 突然の抽象的な物言いに、祥子はきょとんとする。蓉子は慌てて、言葉を付け足した。

「私は祥子に、そういう妹ができたらなって思うの」

 蓉子は、江利子と似たようなことを自分も言ってるなと、自嘲的な思いを弄びながら、言葉の意味を噛み砕こうとして真剣な祥子を見つめる。彼女は少しの間考え込んだ後、不意にくすくすと笑い出した。

「その彼女ってまるで、お姉さまみたいではないですか」

 今度は、蓉子が目を丸くする番だった。驚く彼女に向け、祥子は確信を込めて言葉を紡ぐ。

「お姉さまは、誰よりも早く私を見つけてくれました。だから、私とお姉さまは今、こうして在ることができているのでしょう?」

 祥子の言葉は、蓉子にとってとても魅力的だった。認めてしまえば、祥子に対してとても楽な立場となることができる。強い誘惑に駆られたけど、蓉子の中にある同一性が、それを拒否した。私が祥子を見出したように、祥子もまた私を見出したのであって、一方的な関係では決してないはず。そう、思ったからだ。

「それは、買い被りすぎよ。私はそこまで出来た人間じゃないもの」

 少し不安定な笑みを浮かべながら、蓉子は否定的な答えを告げる。自分は祥子を祥子として見ているけど、紅薔薇のつぼみとして彼女を見ていることも確かだから。嘘を吐くことは、できなかった。

 祥子の沈んだ顔を見て少し胸がちくりとしたけど、やはり祥子の在りのままをを見つける役目は、彼女の妹となるべき人間に譲るべきだと思う。

「では、祥子。きちんと風邪を治すのよ」

 蓉子は部屋を出て、屋敷の者に挨拶をしてから丁重に辞した。広大な敷地を玄関まで案内され、人気のない高級住宅地の隙間に一人、取り残される。ふと気になり、夜空を見上げてみるけれど、星は汚れた空気と不夜の光に阻まれ、覆い隠されてしまっている。朧な月だけが宙に舞い、一層妖しく輝いている。溜息を吐いて、空に上げた視線を現実に降ろそうとする。その時、一条の光が蓉子の視界を過ぎっていった。彼女は笑み、そして先程祥子に言った言葉を自分に置き換えてみる。

 

 貴女は時々、帚星のようだから。

 ふとしたことで流れ、輝きを消してしまい、誰も見つけることができなくなる。

 それでも私が貴女を見つけられるのは、貴女の光ではなく、貴女自身を見ているから。

 だから、私は誰よりも早く、貴女を見つけることができるのよ。

 

 心の中で唱えると、胸に僅かだけど沈殿していたわだかまりが、すっと消えていくように思えた。

 大きく息を吸い、吐き出すと、少し陽気に、そして誇らしげに。

 蓉子は街灯に照らされた道を歩き出す。

 今日ほど祥子が妹でいてくれて良かった、と素直に思えた日はなかった。

 

 

 

 

  Fin

あとがき

Author: 仮面の男, Date: 2004-01-31, Mail:maskman@muc.biglobe.ne.jp