『遅い桜』

風見由大



「白薔薇さま、白薔薇さま」
 背後から掛けられる声が自分を呼ぶものだと、佐藤聖が思い至るまでにはしばらく時間がかかった。
「何かしら」
 できるだけゆっくりと振り返り、微笑みを浮かべる。その仕草が白薔薇の名に恥じぬものかどうかを考えながら。
 視線の先にいたのは、見知らぬ顔だった。
 聖は身構える。
「ごめんなさい。少し考え事をしていたものだから」
 聖の言葉に少女は軽く頷いてから、少し緊張した様子でおずおずと手に持った紙を差し出す。
「この書類をお渡しするようにと、先生から頼まれましたので」
 どうやら一年生のようだ。まだ入学してひと月も経たない新入生だ。
 ひどく初々しい。
 そんなに畏まらなくとも、別に獲って食いやしないのに。
「ありがとう」
 ぷるぷると震える細い手から書類を受け取る。
「あ、あの。で、では。し、失礼します」
 ぴょこん、とお辞儀をすると、その一年生はそそくさと立ち去っていった。

 ひとり、残される。
 少し、寂しくなる。

 書類に目を通す。生徒会活動に関する定期的な報告書だった。
 何もわざわざ一年生を使わなくとも良いだろうに。

「白薔薇さま、か」
 聖は自らに与えられた呼び名を小さな声で呟く。
 その音は聖の口から漏れた溜息とともにすぐに消える。


 聖は校庭に面した窓枠にもたれかかっていた。
 外を見てみれば、桜もそろそろ散り際である。
 この春は温暖な気候が続き、雨も降らなかったためか、例年より遅くまで桜が残っていた。
 だが黄金週間を間近に控え、さすがにそれも限界のようである。
 ひとつ風が吹き、ひとたび桜の枝が揺れる度にはらはらと花弁が舞う。
 染井吉野の薄桃色をした花弁が微風に弄ばれる。あちらへ、ひらり。こなたへ、はらり。
 行き着く地面には既に多くの先達が累々と敷き詰められている。

 その桜色の絨毯を踏みしめ、校門から外へと流れてゆく生徒の群れは一様に騒々しい。
 無論、距離を隔てているから、その姦しい声が実際に聞こえてくるわけではないが、その様子は容易に想像がつく。
 幾らリリアン女学院がお嬢様学校と言っても、通っているのは年相応の少女たち。
 箸が転げても可笑しいお年頃には違いない。ただ、口を開けるのははしたない。出来うる限り噤んだままお上品に、ではあるけれど。

 時折、見かけたような顔が通り過ぎて行く。二、三年生には当然だが、新入生にも知った顔がある。中等部からそのまま高等部に進む生徒が殆どであるし、先日行われた「新入生を迎える会」では薔薇さまのお目見えに壇上でひとりずつおメダイを渡したのだから。
 そう、知っている顔があるのは当然なのだ。
 だから、その中からひとりの少女の姿を捜そうとしてしまうことも──。
 特に不自然なことではないはず、だ。

 聖はしばらくの間、眼下を通り過ぎていく列を見つめていた。
 見つけられたところで、どうすることもない。
 もし声をかけようと思ったところで、下まで降りていった頃には既に校外に出てしまっているだろうし。
 二、三度顔を合わせただけ、言葉も交わしたことが無い相手に何を言うことがあるだろうか。
 きっと。
 姿を見つければ、それで満足するのだろう。

 それでは、まるで──恋する乙女ではないか。

 そこまで考えが至ったところで、聖は思わず首を振る。
 否。自分はそのようなつもりがあったわけではない。ただ放課後の時間を潰すために、ぼんやりとしていただけなのだ。
 さて、何時までも眺めていても仕方が無い。
 書類を受け取った以上、これを届けるためにも薔薇の館へ足を運ばなくてはならない。
 
「よいしょ」
 体を動かすのに思わず声を出し、こんなことだから蓉子には「親父くさい」と言われるのだ、と聖は苦笑した。




「ごきげんよう」
 聖が扉を開けると、返事をしたのは水野蓉子だけだった。
「あれ、他の皆は?」
「さあ。江利子はクラスの用事があるから、少し遅れると聞いているけれど。祥子と令は知らないわね。由乃ちゃんは来るとしたら、令と一緒でしょう」
 蓉子は由乃の名前を少し優しく、口にする。まだ山百合会に入ったばかりの新入生。支倉令とは従姉妹同士であるから、気心も知れているだろうが、彼女以外のメンバーに慣れるには、しばらくの時間を要しそうだ。

「じゃあ、しばらくは蓉子とふたりきりか」
「あら、嫌なのかしら」
「とんでもない。愛しの紅薔薇さまとおふたりきりのお時間を頂けるなど、恐悦至極に存じます」
 聖の軽口も何時ものこと。蓉子は「はいはい」と答えながら、紅茶を淹れようと立ち上がる。
「私の分もお願いね」
「言われなくても」
「さすがは、紅薔薇さま」
「……もう、それは良いわよ」
 お湯が沸くまでの時間を潰すように、蓉子は鞄から文庫本を取り出す。
「あっ、そうそう。これを預かってきたんだっけ」
 蓉子が本に目を落とした途端に、聖はさっき一年生から渡された書類を見せる。
「なにかしら」
「さてね。あまり急を要するものでもなさそうだけど」
 聖の言葉を聞くのに半分、紙に目を通すのに半分、蓉子は意識を使い分ける。
 そして、その言葉どおりだろうとすぐに判断し、脇に置く。
 こぽこぽと。湯の沸き立つ音が聞こえ始める。
「なぁ、蓉子」
 しばらく所在無いまま、部屋をぶらぶらとしていた聖が呟く。
「紅薔薇さま」
「だから、なによ」
「いや……」
 何と言われると実は困る。別に用は無い。蓉子もそれは分かっているのだろうが。
 ふと、思い出す。
「さっきさ、一年生から"白薔薇さま"と呼ばれたんだけど。……すぐに気がつかなくてさ」
 聖の言葉に、蓉子は顔を上げる。それで、と無言で促す。
「なんかまだ慣れないな、と。まぁ、それだけの話なんだけど」
「……そうね。つい先日までは"紅薔薇のつぼみ"だったのが。"つぼみ"が取れただけで、こうも違うものかと。私も思うわ」
「今じゃ、あの祥子がその"紅薔薇のつぼみ"、か」
 聖が微笑んで、
「まぁ、あの子は最初から貫禄があったけどね。蓉子と並べると、どちらが"つぼみの妹"か分からない位に」
 と付け加える。
「懐かしいわね。……って、まだ三年生になったばかりだけど」
「今年はどんな一年生が入ってくることやら。令は既に妹を持ったし……」
 そこまで言って、聖は自分が口を滑らしたことに気付く。
「あら、一年生に興味がおありかしら」
 聖の失言を見逃すはずのない蓉子である。悪戯な笑みを浮かべる。
「あー、まぁね。その、どんな可愛い子が入ってくるかは、興味があるよ。私の趣味に合う子がいれば良いんだけどね」
 わきわきと手を揉む聖。
 しかし、自分の発言によって蓉子が次に言う台詞は容易に想像がついている。
 簡単には逃してくれまい。
「ねぇ、聖。もし私たち、学年が違っていたら姉妹になっていたかしら?」
 しかし、蓉子の言葉はその想像とは少し違う角度からのものだった。
「はっ?」
 思わず、息を漏らしてから。考えてみる。
「それは、どっちが上なんだ」
「どちらでも良いけど……。じゃあ、私がお姉さまね」
「ごめんだね」
 聖は即答する。
「蓉子みたいなお姉さまがいたら、私は怖くて、おちおち学校に顔も出せないよ」 
「……失礼ね。ちゃんと祥子は学校に来てるわよ。じゃあ、私が妹だったら?」
 今度は聖が答えるまでには少しの間があった。
「……どうだろう? 私は妹にしたいと思ったのはひとりだけ。幾ら仮定の話でも、それは答えられない質問だ」
「そう。私は仮定の話は好きだけどね」
「私はあまり好きじゃない」
 この話はこれでお終い、とばかりに聖は席を立ち、紅茶を用意する。
 白い陶磁のカップが並べられている。ひとつを手に取るとき、かちんと隣りのカップに当たり、互いに音を立てる。
「……私の分は淹れてくれないの」
「ご自分でどうぞ」 
「そもそもお湯を沸かしたのは、私なんだけどな」
「自給自足」
 ちょっと言葉の使い方が間違っているかも知れない、と聖は内心呟く。

 そうしてから、あの桜の花弁舞う下で出会った一年生のことを思い出す。
 誰かに似ているような、誰にも似ていないような。
 ひとりの少女を。
 そこから先を考えることは──やはり、仮定の話になってしまいそうだったから。
 慌てて、聖は首を振った。

「どうしたの?」
 すぐ傍で蓉子の声がする。
「うわっ、びっくりさせないでよ」
 見れば、蓉子もカップを手にしている。
「何よ。あなたが淹れてくれないから、自分でやりに来たのよ」
「そうなら、そうと。声をかけてくれれば」
「かけたのに、やってくれなかったじゃない」
「……そうだったかしら」
「はぁ」
 蓉子は溜息をつく。そうしてから、
「ねぇ、さっきの話なんだけどね」
「うん」
「やっぱり、私は聖とは同級生が良いわ。こうやって、バカな話ができる同級生がね」
 その言葉に聖も無言で頷いた。
 蓉子や江利子、良い友達を持ったと思う。口にはしないけれど。
「私のお姉さまは、ひとりしか居ないし。私の妹も祥子しか居ない。……どんな孫ができるかは、楽しみであるけどね」
「紅薔薇さまはどうされているのかしら」
 聖の言う"紅薔薇さま"が先代のことを言っているのだろう、と蓉子はすぐに悟る。
「お姉さまはお元気よ。大学が始まったばかりで、まだあまりすることが無いらしいわ」
「やっぱり、あの方は蓉子と連絡を取っているんだな」
「白薔薇さまは?」
「私のところは、割とドライだったから。まぁ、便りが無いのは良い便り、だと思うことにしているよ」
「少し寂しい?」
「いや。……そうだな。寂しくないと言えば嘘になるな。叱られなくなったから」
「厳しかったものね」
 先代の白薔薇さまは、今の山百合会で言えば祥子に似ていて、規律に厳しい方だった。
 無論、山百合会のメンバーたる者、他の生徒の模範となるべきであるのだが。
 先代の白薔薇さまは、特に強くそれを自分にも他人にも求めた。
「一年生の頃なんか、よく叱られたな」
 タイが曲がっている、と。私語を慎むように、と。テーブルマナーが違っている、と。礼儀作法がなっていない、と。
 時には口煩い、と思ったことがあるのも事実。
 でも、そこにあるのが本当の"優しさ"だと知っていたから。
 叱るために、叱るのではない。
 躾と暴力の区別すら付かない、叱ることで自分の優位性を示そうとするような、下劣な感情とは程遠い。

 "誰か"のために、叱るのだから。
 聖はお姉さまのことが好きだった。

「まだ"紅薔薇さま"と呼ばれることには、やっぱり私も慣れていないけど。私たちがお姉さまから教えてもらったことは、祥子や令、それに新しく山百合会に入ることになるであろう子たちにも引き継いであげたいわね」
 蓉子が、ゆっくりと口にする。
「……私もその意見には賛成するよ。叱ってくれる人が居なくなったのは、少し寂しいけれど。その分、私たちがその役目を引き継ぐことになるんだろうから」
 自分の性格では、お姉さまのように綺麗には行かないだろうけど。
 そこは自分なりの表し方で、新しい子を導きたい、と。
 聖は思うのだ。

「それには、まず。貴女には妹が必要かもね」
 蓉子が微笑む。
「……かな」
 聖も素直に頷いた。

 そして、もう一度。
 "彼女"の顔を思い出す。久保栞ではなく、あの一年生の顔を。
 自分は、彼女に何か伝えることができるのだろうか、と。
 人はただ関わり合うだけで、知らず知らずのうちに、与え、与えられるものがある。
 

 ふたりはテーブルで向かい合い、黙って紅茶のカップを揃って口にした。

 春の日差しが、窓から入ってくる。
 確かな暖かさがそこにある。
 直に五月が来ることを告げる風が微かに窓を鳴らす。

 もうすぐ、遅い桜の季節も終わろうとしている。


あとがき