マリア様のこころ、それは――
荘厳な雰囲気に包まれた私立リリアン女学園の高等部入学式。
講堂にマリア様に祈りを捧げる聖歌隊の歌声が響いたあと、学園の理事長や来賓から長々とした式辞が贈られ、式次第もようやくその半ばを消化していた。
緊張しているだろう新入生たちにもそろそろ眠気や退屈が蔓延しはじめていて、他人に気付かれぬようハンカチの下で小さな欠伸を洩らすものもいる。流石に居眠りをするような不心得者はいないが、早く終わらないかなぁ、という無言の囁きが講堂には満ちていた。
『新入生歓迎挨拶』
式次第を読み上げる教頭の声が講堂に響いた。
在校生代表の女生徒が壇上にあがると、間延びしていた空気が一瞬にして引き締まった。新入生の半数以上の視線が彼女に集中する。「ご入学おめでとうございます」というありきたりの挨拶から始まった彼女の式辞は、それまでの誰よりも真剣に聞き入られていた。
『――みなさんも、これから始まる高校生活でたくさん不安になることがあると思います。でも、大丈夫です。一人で悩まず、よく周りを見てください。先生方やわたしたちはいつでもみなさんの力になることを忘れないでください。そしてわたしたちと一緒にたくさんの思い出をつくりましょう。みなさんが、わたしたちと同じ学舎(まなびや)で過ごせることを、心から歓迎いたします』
二年生になったばかりの紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)は、壇上にあるお姉さま――紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の祝辞を聞きながら、新入生たちの羨望を含んだ横顔を眺めていた。いつになっても山百合会の薔薇さま方は人気がある。
新入生の多くは中等部からの持ち上がりだから薔薇さま方について知らないもののほうが少ないだろう。本来なら中等部で手にはいるはずのない「リリアンかわら版」を回し読みしている生徒たちもいるらしい。彼女たちの中では薔薇さま方は、TVのアイドルタレントとほとんど同じ位置づけなのだ。
(それはまあ高等部も一緒だろうけどね)
リリアンを外部から受験した生徒たちはいきなり変化したまわりの雰囲気に戸惑っているに違いない。経験から鑑みて、少しだけ可笑しく思った。自分はもう、こんなにもリリアンに馴染んでしまっている。
「どうしたの?」
隣から黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)が訝しげに声を掛けてきた。どうやらさきほどの苦笑でも見咎められたものらしい。なんでもありません、と答えると黄薔薇さまはそれ以上は追求せず「そう」と答えて姿勢を戻した。壇上では紅薔薇さまが挨拶を終え一礼したところだった。
『続きまして、新入生代表挨拶』
式次第を読み上げた教頭が新入生代表の名を告げ、名前を呼ばれた女生徒が返事をして立ち上がった。
艶のある黒髪を揺らしながらその新入生は悠然と壇上へと歩いていく。緊張の欠片も見せず、場慣れしているかのような彼女の所作は新入生らしくなく堂々としている。
「まるでお人形さんみたいね」
黄薔薇さまがぽつりと零す。容姿を好意的に評したその言葉に、それ以上の意味はなかっただろう。でもその言葉は彼女の本質を巧く言い表しているような気がした。
『本日は、私たちリリアン女学園新入生一同に対し――』
新入生代表の挨拶が始まった。凛とした意志を感じさせる双眸。原稿を読み上げる声はしっかりとしていた。
自分は去年、こんなにも堂々としていられただろうか。あの時は目の前の原稿を読むのに必死で、まわりなど少しも見えていなかったような気がする。とても彼女のようではなかっただろう。
新入生代表挨拶がもうすぐ終わる。
彼女は最後の一文を高らかに読み終えると、原稿から顔を上げた。緑なす黒髪が揺れ、自らの名を告げる毅然たる声が講堂に響いた。
「新入生代表――」
『 薔薇の系譜 〜Rosa Chinensis〜 』
【リリアン女学園高等部】
上級生になると靴箱が替わる。
それを思い出したのは、真新しい制服に身を包んだ新入生たちがこれまた新しい上履きに足を通しているのを目の当たりにしたときだった。慌てて二年生の靴箱へと方向転換する。危ない危ない。もうあの靴箱は三月とは違う名前を貼り付けられているのだ。
休み呆けかしら、と紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)である水野蓉子はコツンと頭を叩いた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
久しぶりに顔を合わせる級友たちに挨拶を交わしながら靴を履き替える。
新しくなにかが始まろうとするときのちょっとした緊張感と期待が胸にはある。春になると思い出し暖かさとともに薄れいくその感覚を蓉子は嫌いではない。襟口で揃えた黒髪、いつの間にか着慣れた制服、履き慣れた靴。どれもがいつもと同じようでいて、でも同じものではない気がした。
二年生の教室へと向かう廊下をゆっくりと歩く。窓から見える並木はもう青々とした若葉に覆われている。いつもより早かった開花のせいか桜の花びらはすっかりなくなっていた。
ふと蓉子は階段の手前で足を止めた。
立ち止まった彼女を追い越すようにして新入生たちが廊下を歩いていく。
彼女らの行く先には蓉子たちが一年間学んだ教室たちがあった。同じ校舎にあっても、蓉子たちがあの場所で学ぶことはもうないだろう。先月まで当たり前のように入っていた自分たちの教室がわずか二週間程度でこんなにも縁遠くなっている。
「……」
なにかを言おうとして、笑おうとして、でも喉の奥からはなにも零れてはこなかった。
たぶんそれで良いんだろうと蓉子は思う。大事なことはある。大切なものもあった。でもそれは置き忘れてきたわけではない。高校一年生という引き出しにしっかりとしまい込んだだけなのだ。いずれまた時が来れば引き出しを覗き込むこともあるだろう。
見送っていた新入生が談笑しながら教室へ入っていくのを眺めたあと、蓉子は階段へと向かった。
§
「ごきげんよう」
教室に足を踏み入れて、いつものように挨拶をする。返ってくる挨拶に会釈を返しながら蓉子は部屋の中をぐるりと見渡した。知ってる顔もいれば知らない顔もいる。黒板に貼りだしてある席次表を見て蓉子は自分の席に向かった。廊下側から二番目の列、前から三番目という微妙といえば微妙なポジション。まあ一番前に座るよりは良いか。優等生らしくないことを考えながら指定された席に腰を下ろした。
「蓉子さん、また同じクラスになっちゃったわね」
「え?」
後ろから声を掛けられて振り向くと、一昨年も同じクラスだった佐藤信子さんがひらひらと手を振っていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
挨拶を交わしてちょっと笑い合う。それから蓉子はちょっと斜め上に視線を向けて考える。
「これで三回目かしら。信子さんと同じクラスになるのは?」
「中等部から数えると――そうなるわね」
信子さんは指折り数えて答えた。
リリアンでは一学年に約二百人前後の生徒がいて、それが六クラスに別れている。確率でいえば連続でない限り同じクラスになるのもそう低いものでもない。しかし五年間で三回となるとなかなか珍しいのではないだろうか。
「一年おきに同じクラスになるなんて面白いわね。いろいろご縁がありそう」
「聖さん絡みで?」
「……それは言わないで」
くすくす笑う信子さんに蓉子は凹んで見せた。
中等部の頃から蓉子と聖の口喧嘩は学年の中でも有名だった。同じクラスになったことのない生徒でも知っているくらいだから相当のものだったと思う。先生たちの耳にだって入っていたに違いない。でも先生たちは口を出してくることはなかった。蓉子さんは先生たちに信頼されてたのよ、と信子さんは笑うが、本当は面倒だっただけではないのだろうか。人間、ネガティブな精神状態にあると、疑心暗鬼に駆られるものらしい。
蓉子はクラスの中をぐるりと見回してみた。目的の顔はその中にはない。
「――今年は聖はいないみたいね」
「違うクラスになったみたい。確か……椿組だったかしら?」
蓉子と聖とは中等部一年の時と三年の時が同じクラスだった。もちろん信子さんも同じだ。高等部に入ってはじめてこの三人が揃わなかったことになる。
信子さんは頬杖をついた。
「私としては心穏やかに過ごせそうだからありがたいけどねー」
「毎度毎度、すまなかったわね」
「おじいさんや、それは言わない約束でしょう」
そう言って信子さんはわざとらしく咳き込んだりする。
蓉子が聖と口喧嘩したとき、よく仲裁してくれたのがこの信子さんだった。ふたりの口喧嘩のあまりの剣幕にまわりが恐れおののくなかで、彼女だけは平然と割り入ることができたのは、持ち前ののんびりした性格と、出席番号順で並んでいた席順のせいだっただろう。
蓉子と聖の喧嘩場所は概ね聖の席上で行われていた(聖が蓉子のところに近寄ることは滅多になかった)から、後ろに座っていた信子さんにとっては、自分が仲裁しないと目の前で延々と言い合いを見せられることになる。最初のうちはさすがに怖くて足が震えたこともあったというが、回数が増えていくとだんだん慣れてきて、割り込むべき潮時がわかるようになったという。終いには仲裁するのに最も良い間合いさえ測れるようになってしまった――。
「まあこれも熟練のワザよね」
あれにくらべると他の娘たちの喧嘩なんて可愛らしいものだわ、と信子さんは笑った。
「感謝してます。聖の後ろにいたのが信子さんでほんとに良かったわ」
「同じ佐藤さんだからね。仕方ないわよ。それに止めるべき学級委員が当事者だったから他に適当なひとがいなかったともいうし」
「…やっぱ、根に持ってる?」
学級委員だった当事者は情けない顔をした。
「冗談よ。気にしてないわ。ところで――」
信子さんは話題を変える。
「蓉子さん、わざわざ入学式に出たんだって?」
「え、なんで知ってるの」
「ほら、これ」
と、信子さんが取りだしたのは「リリアンかわら版」の号外だった。一面には新入生へのお祝いの文字が躍っている。
よく読んでみると学園長の式辞や紅薔薇さまの祝辞がもう掲載されていた。写りは悪いが何枚かの写真まである。そのうちの一枚には確かに蓉子が映っていた。まあ写真のターゲットは薔薇さま方なのだろうけど。
「どうだった、新入生たち?」
信子さんは興味津々に聞いてきた。
「新入生代表は誰が務めたの。やっぱり受験組?」
「今年の代表挨拶は祥子ちゃんだったわ」
ああ、と納得したように信子さんは頷く。
小笠原グループの令嬢である小笠原祥子の名前は、リリアンに通う生徒にとって薔薇さま並みに有名だ。
「そうか、お姫さまが今年の新入生代表だったんだ。――じゃあ蓉子さん、彼女を妹にするのね」
「え?」
(信子さん、なんで知ってるの?)
一瞬、蓉子は言葉に詰まった。
祥子との約束は誰にも口外したことはなかったはずなのに。
混乱する蓉子をよそに信子さんは喋り続ける。
「毎年、新入生代表になった娘が、紅薔薇さまのつぼみの妹になるなんて、良くできた慣習よね。生徒会長になるべくしてなるっていうかさ。まあできるひとはなにやらせてもできるって事なのかもしれないけど」
「…誰が決めたの? そんな決まり」
初耳だった。
信子さんは意外って顔をした。
「え? ちがうの?」
「違うわよ」
「でも、蓉子さんだって去年、新入生代表挨拶したじゃない。いまの紅薔薇さまだってそうだったって先輩から聞いたわよ?」
「そんなの、聞いたことない」
祥子との約束をなんだか侮辱されたような気がして蓉子は憤慨した。
「絶対に違うわ。そんなどっちの意志も蔑ろにするような決まりなんて、迷惑以外の何ものでもないじゃない。相手のことを知らないまま姉妹(スール)になるなんて馬鹿げてる。祥子を妹にするのはそんな理由からじゃないわ」
「でも先輩から聞いた話だと、毎年そうなってるって…」
語尾が小さくなって、信子さんはぽつりと零す。
「そんなに怒らないでよ」
蓉子ははっと我に返ると「ごめんなさい」と謝った。
まわりを見てみれクラスメイトたちがばなにごとかと蓉子たちを眺めている。信子さんは大丈夫って頭を振ってから頬を緩めた。
「蓉子さんの怒り方って散々見てきてたつもりだったけど、やっぱり自分に向けられると迫力が違うね」
「…ごめんなさい」
「ああ、そうじゃなくて。気を悪くしたとかじゃないから。新学期そうそう珍しいものに遭遇したって感じかしら」
「意外と気が短いのよ私。リリアンに入る前なんか男の子と取っ組み合いの喧嘩したことだってあったし」
嘘。信子さんの顔はそう言っていた。
まあ幼稚園の頃の話なんだけど、リリアンに入る前のことだから間違いではない。
「これでも頑張って猫被ってるんだから。リリアンらしくお嬢さまに見えるように」
「…ながく付き合ってきたつもりだったけど、まだまだ知らないことはいっぱいありそう」
「信子さんもね?」
「私はほら、しがない桶屋の娘ですから」
「桶屋?」
蓉子は“はてなマーク”を頭上に浮かべる。
「桶屋って、あの“風吹けば――”の桶屋?」
「いやそんな棚ぼた的な商売はしてないけど……。その儲からない方の桶屋です」
なんでもホテルや高級旅館にヒバやヒノキで作った手作りの桶を納めているらしい。漆塗りじゃない寿司桶なんかも手掛けているそうだ。珍しいところではウイスキーの樽作りとか。
へぇ、と蓉子は感心した。
「そんな職業があることだって知らなかったわ」
「まあみんなそう言うんだけどね」
「職人さんなんだ。すごい」
「まあ、私の家の話は置いておくとしてもよ」
ごほんと信子さんは咳払いした。
顔が仄かに赤いところを見ると、あんまり感心されすぎて恥ずかしくなったらしい。
「じゃあ蓉子さん。そんな決まりってホントはないの?」
「ないわよ。少なくともお姉さまからそんなこと言われたことないもの。きっとたまたま何代か続いただけの話なんじゃないの」
「ふーむ」
信子さんは唸った。
「でも、お姫さまを妹にするって言うのは否定しないんだ?」
「あ」
「……結構、そそっかしいところもあるよね。蓉子さん」
あの状況で聞き逃さない信子さんも信子さんだと思う。もしかしてあの涙も泣き真似だったのかも知れない。いやそうなんだろう。ゴホンとこんどは蓉子が咳払いをする。すでに白状したも同然だからここで否定したって仕方がない。
「そうよ。私は祥子を妹にする」
蓉子は真面目な顔で言った。宣言というには小さすぎるけど、でもその決意は揺るぎなく固い。
信子さんも「そう」と頷いてくれた。
「でもこれは私が決めたことなの。祥子を妹に選んだのは他の誰でもない、私の意志よ」
しきたりなんかじゃない。
それはもう断言できることだった。
§
桜はもう終わりかけている。
瑞々しい若葉が木々に萌えはじめ、散りゆく花びらは残雪のよう。また新しい花を咲かせるときまで彼らは眠りにつくのだろう。
入学式も終わり、一旦薔薇の館に戻った山百合会の面々も特に用事はないので解散することになった。早々に引き上げた黄薔薇さまはこのあと病院に寄っていくらしい。白薔薇さまは図書館に寄ってから帰ると言っていた。
「蓉子はどうするの?」
紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)――お姉さまが聞いてきた。美人というよりは可愛らしさの勝った容貌は、下級生たちにも人気が高い。薔薇さまなのに親しみやすい雰囲気もそれを助長している。かなり背が低いというのもチャームポイントだろうか。平均的な身長の蓉子と比べても頭ひとつ分は低いのだ。
「用事がないならどこか寄っていく?」
下からやや見上げるような視線。細い三つ編みを束ねた尻尾が、背中でふりふりと揺れている。
お姉さまのお誘いはとても魅力的だったけれど、蓉子には先約があった。
「ごめんなさい、お姉さま。実はひとと逢う約束があるんです」
「そう」
頷くお姉さまはそれ以上なにも言わなかったけれど、きっと蓉子がこれから誰に会うのか知っているんだろうと思わせるものだった。
「じゃあ、早く行っておあげなさい」
「はい。行ってきます」
お姉さまに送り出された蓉子はひとり、薔薇の館を出て古い温室へと向かった。その場所は講堂の裏手、リリアン女学園の中でもあまりひとに知られていない場所にひっそりと立っている。最近、新しい温室が出来たおかげで先生たちも古い温室には見向きもしなくなっていると聞く。温室の管理を任されている用務員のおばさんたちは今日はお休みだから、たぶん誰もいないだろう。
やや急ぎ足でその場所に辿り着くと、思っていた通り、真新しいリリアン女学園高等部の制服を着た女生徒がひとり、蓉子を待っていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
ふたりは挨拶を交わして、懐かしさと恥ずかしさが入り交じった微笑を浮かべる。
蓉子はその女生徒のカラーをさらりと撫でて、言った。
「ひさしぶりね。祥子」
「はい」
新入生代表、小笠原祥子。
講堂で堂々と挨拶をしていた彼女は、はにかむようにして蓉子に返事をした。
同じリリアン女学園という敷地に通っていれば、中等部と高等部という違いはあれど、ふたりともお互いの姿を見かけることぐらいはあった。遠目に見てそれが誰なのかわからない二人でもない。でも逢って話をしたのは去年の三月以来のことになる。蓉子が中等部を卒業したあの日から、一年近い時間をふたりは別々に過ごしてきた。
「入学式の挨拶、立派だったわよ」
「ありがとうございます」
祥子はちょこんと頭を下げた。
「それに立派なお花まで頂いてしまって…」
「お祝い、だからね」
蓉子は小さく笑う。
前日に祥子の自宅におおきな花束を贈っておいたのだが無事に届いていたらしい。
「どう、高等部にあがった感想は?」
「それはまだなんとも…。蓉子さまはお元気でしたか」
「大過なく過ごしてきたわ。まさか紅薔薇のつぼみになるなんて思いもしなかったけれど」
「紅薔薇のつぼみ……ですか」
祥子は少し驚いたように蓉子をみた。
さすがに生粋のリリアン生徒。それがなにを意味するのか正確に把握しているようだった。蓉子もそれが判っていたからあえてこの話題を口にしたのだが。
さあ、祥子には選んでもらわなければならない。あの時の約束は今日この時のためにある。一年前となにも変わらないこの場所で、蓉子はもう一度聞かなければいけない。
「蓉子さま」
やがて祥子はなにかを決意した顔で蓉子を呼んだ。でも続く言葉を言い淀む。
蓉子はなにも言わなかった。言えないのではなく言わない。祥子らしくない逡巡をただじっと見つめるだけ。
地面を彷徨うような視線はやがて蓉子を真っ直ぐ捉え、彼女の形の良い唇から、緊張と覚悟を含んだ言葉が紡がれるのを蓉子は聞いた。
「覚えていますか?」
――あの約束を、と。
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