【リリアン女学園中等部】



 中等部二年の水野蓉子は理科準備室の扉を閉めると、耳に届いてきた「それ」に興味を惹かれた。

「音楽室から…?」

 静かな廊下には蓉子ひとりの影しかない。階下のざわめきもどこか遠くの世界の出来事に思える。
 流れてくる旋律に好奇心を刺激された理由は、それが蓉子がリリアンにきていまだ慣れていない曲のひとつだったからだろうか。
 
「……」
 
 用事のあった理科準備室から音楽室までほんの数メートルの距離。
 十歩も足を進めれば、防音処理された二重のガラス窓から室内が覗けるだろう。蓉子はすこしだけ躊躇したあと、蜜に誘われた蝶のように吸い寄せられていった。もしかしたら先生だろうか。そんな風にも思いながらそっと室内を覗き込む。
 
 ガランとした音楽室では女生徒がひとり、ピアノの鍵盤に向かっていた。
 
 ピンと伸ばされた姿勢がとても美しくて蓉子は知らず吐息を洩らした。いったい誰なのだろうと思う。
 昼休みもすでに半ばを過ぎたこの時間。四時間目に音楽の授業を受けていたクラスの居残りとも思えない。クラブ活動の練習だろうかとも思ったが、よーく考えてみればリリアンにピアノを使うような部活があっただろうか。高等部なら合唱部があるけれど中等部に合唱部はない。ブラスバンド部やマンドリン部、フォークソング部に箏曲部なんていうのはあるのに不思議なことだ。

「もしかして聖歌隊のひとかしら?」

 それならあり得そうな気もする。昼休みにお聖堂のオルガンで練習というわけにもいかないだろうから、音楽室のピアノで代用するなんてありそうなことだ。でもそれにしても、と蓉子は首を傾げた。
 
 なぜ彼女は「マリア様のこころ」なんて弾いているのだろう。
 
 それはリリアンらしいといえばリリアンらしいけれど、わざわざ昼休みを潰してまで練習するに相応しい曲目だとはとても思えない。気付いたときからずっと同じメロディーを繰り返し繰り返し弾いているから、練習の息抜きに一曲、というわけでもないらしい。
 練習といえば彼女の周囲には楽譜の類が見当たらないのも不思議な話ではある。ずっと暗譜で弾いているのだろうか。
 蓉子も手習い程度にはピアノを習ったことがあるから、彼女の演奏がかなり年季の入ったものだということぐらいはわかった。少なくとも自分より遙かにレベルが高いと思う。
 
「でもなんだか悲しそう…」

 蓉子はぽつりと呟いて、それから自らの唇から零れた言葉に妙に納得してしまった。
 そうだ。それが彼女の演奏が耳に入ったときから気になっていたことだった。ただひとりきりの演奏会はまるで映画かドラマのワンシーンを思わせるのに、その中心にいる彼女からは存在感というか生気が乏しすぎた。例えていえば、ネジを巻けば決められた通りに音楽を奏でるオートマタのよう。流れ出す音楽には楽しさとか、喜びという感情がなにも含まれていない、そんな感じ。
 蓉子は自らの好奇心が騒ぎはじめるのに気付いていた。
 
 彼女はいったい誰なの?
 
 いけないいけないと思いながらも、それはもう風船のようにどんどんと膨らんでいっている。いったん気になるともうどうにもとまらない自分の性格はほとほと厄介なものだと思う。知りたい、やってみたいと探求心にどうしても抗えない。
 そうあの味噌汁のときだって大失敗したというのに。リリアンでも随分と困らせられたというのに。

(やけどぐらいじゃ薬にもならなかったわね)
 
 つまり自分は馬鹿なんだろうと思う。成長という言葉をどこかに置き忘れでもしたのだろうか。
 苦笑しながらでもそんな自分が蓉子は嫌いではなかった。
 
 

 §



 あれほど混雑していた廊下もだいぶひとが少なくなっていた。
 学年があがると仲の良かったクラスメートともバラバラになる。それが当たり前だと判っていても、クラス割りの張り出された掲示板の前で自分の名前を見つけたあと、蓉子はなかなかそこから動けずにいた。

「いつまでも突っ立っていたら邪魔になるわよ?」

 後ろから声を掛けられて蓉子は振り向いた。見慣れたヘアバンドとセミロングの髪、形の良いタイの持ち主が腕を組んだ格好で笑っていた。
 
「江利子」

 ごきげんよう、と前年度のクラス委員は挨拶を交わして蓉子の隣に並ぶ。
 蓉子は江利子から掲示板に視線を戻して言った。

「今年も同じクラスになっちゃったみたいよ」
「新年度そうそうついてるわ」
「どうして?」
「面倒なクラス委員をほいほい引き受けてくれるクラスメートが居てくれるから、私は楽が出来る」
「あれはあなたが……」

 言いかけて、蓉子はなにか閃いたように笑う。

「じゃあ、また副委員長でもお願いしようかしら。それとも今度は立場を逆にしてみる?」
「委員会活動にはもう飽きたわ。こんどは違うひとを生け贄にしてちょうだい」
「生け贄って…」

 蓉子は苦笑する。たしかに生け贄と言われても仕方がない。前年度のクラス委員長を引き受けたとき、副委員に江利子を推挙したのは蓉子自身である。理由は色々あった。その理由のひとつに蓉子を委員長に推挙した彼女への意趣返しが含まれていたことを蓉子は自覚している。きっと江利子はその事を言っているに違いない。

 それにしても昨年のクラスには特異な生徒が目立っていたなと蓉子は思う。
 隣にいる鳥居江利子はもとよりヘンだし、一匹狼然とした佐藤聖などは本人が思っている以上に記憶に残る人物だった。その他にも妙に耳ざとい噂話の達人とか、まさにガリ勉としか称しようのない女生徒だとか、ある意味、奇人変人の集まりだったと言っても過言ではないだろう。判で押したような優等生だった自分など大多数のクラスメートには記憶に残るかどうか。
 一度その話を江利子にもしたことがあるが、彼女の返事は「同じ穴の狢(むじな)」だった。失礼な、と思う。

(まあ――それはともかく)
 
 蓉子はもう一度掲示板を眺めて、口を開いた。

「なにはともあれ、あなたが居てくれて私は助かるわ。ただ……聖がいないのは残念だけど」
「アイツの話はよして」

 江利子はそう言ってフイッと顔を背けた。相変わらず聖の話題になると彼女は途端に頑なになる。わかってて口にする蓉子も意地が悪いと言えば意地が悪い。
 
「はいはい」
 
 蓉子は降参という感じで手を挙げた。
 江利子と聖の仲の悪さは、もう天敵というレベルではなかった。表だって喧嘩をしてくれればまだ仲裁のしようもあるが、ふたりとも互いを無視するだけで接点すら作ろうとしないものだから蓉子も手の出しようがなかった。
 双方ともがどういう理由で仲違いしたのか話もしてくれないものだから「いい加減仲直りしたら?」という蓉子の忠告もほとんどなしのつぶて。
 
 初等部から彼女達を知っているはずの他の級友たちにも聞いてみたが、誰しも「喧嘩の理由は知らない」としか答えが返ってこなかった。そもそも江利子と聖は初等部で一度も同じクラスになったことはないのだという。ではどこで彼女達は接点を持ったのだろう。
 まあもうしばらくは様子をみるしかないだろうと蓉子は思っている。あまりせっつくと蓉子の方こそまた聖と喧嘩になりかねないし。

「一度離れるのも良いことかもしれないわね」
「離れていてくれるなら一生離れて欲しいわよ。そうすれば私の精神に安定が訪れるから」
「またそんなこと言って…」

 我ながらどうしてこんな気苦労を背負おうとするんだろうか。放っておくのが一番良いのだと思いつつも口と手が出てしまうのを止められない蓉子である。

「あなたたちが仲良くなってくれれば、私の精神も安定するんだけど?」
「そうすると苦労性の誰かさんは次の火種で気をもむだけよ。あなたの精神が安定するのは世の中から争いがなくなったときだけかしらね」
「あのね…」
「ストップ」

 蓉子が口を開きかけると江利子が手の平を突き出した。

「もうすぐ予鈴が鳴るわ。行きましょう」
「――ええ」

 蓉子は頷く。まあそう急ぐこともないだろう。自分が無事に高等部まで進級できたとしたら、彼女達とはあと四年以上も付き合えるのだから。
 ひとけもまばらになり始めた廊下を、ふたりは新しいクラスへと向かって歩き出した。



 §



 演奏はまだ続いていた。
 ただ曲目は変わっている。題名は思い出せないが冬に良く耳にするメロディーだったと蓉子は記憶している。もの悲しさすれすれの音律は、もう初夏を待つばかりのこの季節にはまったく似つかわしくない。

(声を掛けてみようか)
 
 ふと浮かんだ好奇心は、でも音楽室の彼女の緑なす黒髪をみているだけで気後れに変わる。
 それは彼女に対する遠慮ではなく、彼女のまとう空間を自分が壊してしまうことへの躊躇いだっただろうか。脆くて壊れやすいそれは、まるでガラスか氷で作り上げられた透明な箱のようで――。
 
「――!」
 
 リリアン独特の、教会の鐘を模した予鈴が廊下に鳴り響いた。
 
 それはもうすぐ五時間目の授業が始まるという合図。我に返った蓉子は、かなり長い間、彼女を見つめ続けていたことに気付いた。なにをやってるんだろうと思う。
 
 教室に戻らなければ。
 軽く頭を振りながら、踵を返し――返しかけて、蓉子はピアノの少女に見つめられていたことに気付いた。
 
(あっ…)
 
 ガラス越しに交わされた瞳と瞳。
 同性なのに蓉子はその瞳に魅入られた。吸い込まれたように動けなかった。
 真っ直ぐに蓉子を見据えた切れ長の双眸は彼女を見透かすかのよう。あまりに挑戦的にも思えるその視線なのに、でも蓉子の裡に怒りが芽生えることはなくて。
 
(名前はなんていうのだろう?)
 
 ただそんな疑問がぐるぐると渦巻くだけだった。
 
 
 それが水野蓉子と小笠原祥子の、初めての出逢い――









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