「悪かった」
喫茶店のテーブルにつくなり、甲之進さんはまず頭を下げた。
「志村さんが謝ることは無いです」
ぶんぶん、という擬音が似合いそうなほどに首を激しく左右に振って、甲之進さんは頭を抱える。
「いや、俺の勘違いで、迷惑掛けた。別にじいさん――祖父のことを信じてなかったわけじゃないんだけど。勢いで乃梨子さんや志摩子さんを侮辱することになっちゃって」
この人は自分の世界に入り込んでしまう人なんだ。ふとそんなことを思う。
自分を見ている様で、あるいは乃梨子を見ている様で。
そうか、乃梨子もそうなのかも知れない、なんて気付いた。そう思うと、不謹慎ながら少しおかしい。
「私も乃梨子も、侮辱されたなんて思ってませんから」
「そう言ってくれると救われる、けど」
くすりと笑みを零してしまって、言葉を中断させてしまった。あわてて次の言葉を探す甲之進さんに、またおかしさがこみ上げてくる。
「志村さんって、おじいさんとはまた違って面白い方ですね」
折った指を口元に泳がせながら、くつくつと笑う。彼の顔が何故か赤くなった。
学園祭の準備で忙しい夏休み明けだった。たまたま空いた日曜日を見計らって、乃梨子と志村さんと三人で、奥多摩の寺院に秘蔵の阿弥陀如来を観に行くことになっていた。いつも通学するときとは逆方向のに乗り、はじめて降りたT駅。同じ東京とは思えないよう様なひなびた駅前に、口角泡を飛ばす二人の男性がいた。
「じいさん! ほら、みっともないから帰るぞ!」
青年の声は高く、よく響く。それが周囲の注目を集めて居るとも知らず。一方、年配の男性――志村さんの声は、ぼそぼそと呟く様で、きちんとは聞き取れない。
彼が志村さんだということは、つまり、青年の方は乃梨子から訊いた甲之進さんなのだろうか。本人からも「ときどき孫が尾行してきて困る」という話を聞いたことがある。
エキサイトしている二人の間には入りづらく、どうしようかと思案していると、また聞き覚えのある声が届いた。乃梨子だ。
「あ、あのっ、タクヤ君――志村さんは、趣味仲間です。甲之進さんの思ってるような間柄ではありませんから」
珍しく乃梨子が狼狽している。志村さん――どちらも志村さんなのだけど――を擁護したつもりなのだろうけど、それは火に油を注ぐ、あるいは藪から蛇、そんな結果になってしまっていた。
「タクヤ君、ノリちゃんって……」
絶句して、交互に自分の祖父と乃梨子を眺め、天を仰ぐ青年。密かに同情した。それはそうだろう。自分の祖父と、15歳の少女が使う呼称ではない。『タクヤ君』と呼ぶのを父に注意されたことを感謝した。
「全く、じいさん、こんなことしてて恥ずかしくないのかよ」
微笑ましいな、なんて場違いな感想が浮かんでくる。当人達は緊迫したつもりで、きっとそれは他愛のない、家族間の愛情だから。珍しく志村さんが顔を紅潮させて、その隣では乃梨子がうろたえていて、助け船を出してやりたくて、気持ちは急かされていたけれども。
でも、柱の影からいざこざを眺めていただけだった。
で、その甲之進さんが、どうして頭を下げているのかというと、つまりは誤解が解けたからなのだけれど。ただ、誤解を解くまでが大変だったそうだ。結局三人の間に割って入った志摩子の取りなしに、勘違いが判明、笑いながら四人で駅を後にした――というのならめでたしめでたしだったのだが、納得しない彼と志村さんが帰り、その後にメールのやりとりや、二人(三人?)の関係を辛抱強く説明されて、やっと甲之進さんは自分がなにか勘違いしていたことを知ったらしい。途端に、彼は項垂れてしてしまったそうである。
つまり、私は何もしていないしされていないのだけど。志摩子は再び首をひねる。
『謝りたいそうですけど、どうしましょう、お姉さま』
と相談を受けたのが一昨日のこと。それならばきちんとお話ししてきたらいいんじゃない?と返した気がする。
『お姉さまもご一緒に、というのが、なんだか引っかかるんですよね』
引っかかっていた割には、当の乃梨子は珍しく遅刻して、ほとんどはじめましての二人で彼女を待つことになってしまった。正直なところ、少し困る。共通の話題がほとんど無いのだから。
正面で緊張気味に見える甲之進さんに、さしあたり飲み物のメニューを促した。「どうぞ」とにっこりと笑うと、はじめて彼は大きく息をついた。
「怪しいわね」
とは、同じ店内の反対側で呟く真美。先週の事件の情報をはやばやとキャッチした彼女は、それとなく白薔薇姉妹をマークしていた先で、遂に金鉱を掘り当てたらしい。手に汗を握り、頭を駆けめぐるのは、リリアン瓦版の一面見出し。『白薔薇様、熱愛発覚!』あるいはシンプルに『白い情事』なんてどうかしら、なんて浮かれながら、左手のメモを握りつぶしていることに気付いた。慌ててその皺を伸ばし、再び二人を観察する。
そんな彼女の扮装は、いつもとは違う縁の太めのメガネとベレー帽だ。彼女の姉ほどではないにせよ、ほどよい怪しさを醸し出しているのに本人は気付いているのだろうか。
「確かに怪しいね、あの男の人」
一方、こちらはいつも通り、望遠レンズをニョキッと生やしたカメラを片手に蔦子さん。真美に呼び出され、二つ返事で駆けつけてくれたのはありがたい。だって、記事には決定的な写真が必要でしょう? 写真部のエースなら申し分なし。
でも。
真美はため息をつき、目の前メガネちゃんを窘めた。
「蔦子さん、そんなに堂々と撮ってちゃバレちゃうって」
「大丈夫、案外目立たないよ。どっちにしろ、私が変装してもカメラでわかっちゃうんだから。こそこそするからかえって怪しまれるんだ」
「変装が無駄なのは同意するわ、でもね……」
蔦子さんの持論は、周囲の視線を考えるに、あまりあてにならない気がした。そもそも、喫茶店でカメラを振り回す女子高生は、そうは居ない。
レンズは、談笑中の二人に向けられている。蔦子さんの場合、プロ根性ゆえか、目立たない様にこっそりという撮り方はしないそうだ。必ず両手をカメラに添え、ファインダーを眺めて、構図をあーだこーだとか口にしながらスタンバイ。疲れないのだろうか。
カシャッカシャッカシャッ!
シャッター音が響き、その度に小さく舌打ちしたり、頷いたり。
「蔦子さん、舌打ちははしたないんじゃなくて?」
「これは失敬、おっと」
ひゅっと口笛を鳴らして、またカシャカシャとシャッターを切る。
「今はいい笑顔だったね」
と、蔦子さんもまた満面の笑顔。そんな顔を向けられると、こちらとしても何も言えなくなる。
黙って、二人を眺めることにした。
「それでさ、あの人、誰なの?」
一段落ついたところで、蔦子さんがようやく疑問を口にした。本来なら真っ先に気になるはずの話題なのに、とにかくカメラを向けてから、というのが蔦子さんらしい。
「志村甲之進さん、たぶん」
たぶん、とは言ったが、夏休み、志摩子さんを追ってずっと観察していた彼の顔は忘れていない。今日は信号カラーシャツじゃないけれど、見た瞬間わかった。
「あらあら、時代がかったお名前ですこと。志摩子さんとの間柄は?」
「もともとは乃梨子ちゃん関係の人なんだけどね」
真美はあらかた(と言っても、ホームページ『タクヤの仏間』と、夏休みの『タクヤ君』との邂逅で得た程度の知識だけど)を蔦子さんに説明した。ふんふんと興味深そうに頷きながら、彼女はひとときたりともカメラから目を離さない。やがて黒光りするカメラからフィルムの巻き取り音が響きだし、ようやく蔦子さんはカメラをテーブルに置いた。
「ふーん、つまり」
彼女は顔を近づけて声をそばだてる。
「甲之進さんと志摩子さんは何の関係もないんじゃない」
「そう、そこなのよ」
ぴん、と人差し指を立てて、こちらもひそひそ声。
「なのに二人で逢ってる。しかも雰囲気良さそう」
「こうやって見てる限りだと、男の方は恋してるね」
「ほうほう、恋してる、と――って、え?」
メモをとってから、その意味に気付いてうろたえた。
「あら真美さん、恥ずかしがるも何も、そういう風に二人を見てたんじゃなくて?」
「そ、そうだけど、やっぱりそうなんだ……」
予想が一致すると、途端に信憑性が増す気がするのはどうしてだろう。
「志摩子さんはどうなんだろう。嫌がってる風ではないけれど。うーん、こちらはやっぱりわかんないな」
そう呟くと、蔦子さんは再びカメラを持ち上げる。いつの間にフィルムを装填し終わっていたのか、また、時折シャッターが切られる音を背景に、真美は観察に没頭する。
「蔦子さんって、結構怖いかも」
「あはは。写真には声は写らないけど、心は映るからね」
「そうなのですか?」
「うわあ!」
空から降ってきた声に、不意をつかれて大声を出してしまった。ぱっと口を塞ぎ、慌ててターゲットを確認する。大丈夫、志摩子さんたちには気付かれていない様子。
そして、振り返るとそこには
「の、乃梨子ちゃん?」
と、これまた蔦子さんと被ってしまう声。薄手の七分袖のシャツに、薄手のカーディガンを引っかけて、白薔薇のつぼみが首を傾げていた。綺麗に切り揃えられた髪が、少し揺れる。
「……驚いた」
と、蔦子さんが胸を撫で撫で深呼吸。
「ごきげんよう、驚かせてしまったみたいですみません」
「ご、ごきげんよう」
先に復活した蔦子さんが、隣に座る様に促すと、彼女は首を小さく振った。
「お姉さまたちと合流しますので」
「あ、そりゃそうだよね。ごめん」
頭を掻く蔦子さんを尻目に、真美は重大な依頼をする。
「ねえ、乃梨子ちゃん、こんなことを言えた義理じゃないんだけど」
きっとこの世の終わりみたいな声になっているのだろう。でも続けた。
「ここで見てること、志摩子さんたちには内緒にしておいてくれない?」
「構いませんけど、あまり覗きや隠し撮りは感心しませんね」
「一年生に諭されると堪えるなあ……」
頭を掻く蔦子さんに「では」と頭を下げて、彼女は志摩子さんたちのテーブルへ。その後ろ姿に、蔦子さんがぽつりと呟いた。
「ねえ、彼女、怒ってる?」
そう言われて眺めても、よくわからない。
「私たちに呆れたのよ、きっと」
「――そうじゃないと思うな」
いつもファインダーを眺めている蔦子さんには、本当に心の中まで見通せてしまっているのだろうか。
お姉さまと甲之進さん。二人のテーブルに到達した乃梨子は、見張られていることを話すべきか否か、考えながら頭を下げた。
「ごきげんよう、お姉さま。それから甲之進さん、この前は失礼しました」
「ごきげんよう」
「こんにちは、こちらこそ失礼した」
「遅れてしまって、すいません」
いいよいいよ、と手を振る甲之進さんと、ただにっこり微笑むお姉さまにもう一度頭を下げて、促された隣の席に座った。拍子にふわりと揺れたお姉さまの髪の隙間から、ほのかに和らぐ香りが漂ってきて、イライラは少し収まったかも知れない。
そう、私はどこかおかしかった。どことなく現れる不快感の原因を特定できずに困っていたのに、着席した途端、その理由が分かった。
この陽気と、空気のせいだ。
「乃梨子さんも、ごめん。先週は恥ずかしいところを見せちゃって」
頭を下げる男の人。それを見つめる目が、どうしてだろう、冷ややかになっているのが自分でも解る。
「いいえ、気にしてませんから」
「そう言ってくれると救われる」
お姉さまがくすくす笑いながら「それ、さっきも仰いましたね」と加えた。
「そうだっけ」
頭を掻く彼に、またくすくす笑うお姉さま。意外な気はしたけれど、よくよく考えれば、人当たりはいい人なのだ。
「そういえば、志村さんは落語がお好きとか」
お姉さま、実家の檀家である落語家の話をはじめる。どうやら甲之進さんも聞き覚えがある名前だったようで、二人で盛り上がる話を、横から時折口を挟みつつ聞いていた。
この空気のせいだ。
ウェイトレスに「アールグレイ」と頼んだ顔はきっと、苦虫を噛み潰したようなものだっただろう。案外表情には出てないという話だけれど。
あの二人の話を盗み聞きなんてしなければ良かった。後悔して、乃梨子はカップに口を付ける。砂糖なしのアールグレイは、随分と苦い。
そして、その当の二人はどうしているかというと。
真美はため息をつき、メガネを外した。
張り込んでいるのが乃梨子ちゃんにバレているともなると、さすがに今までの様に露骨には観察しづらい。蔦子さんもその様で、ずっとレンズに添えていた左手をおろし、すっかりカメラをテーブルに置いてしまった。
「レンズを向けられてることを意識しちゃうと、やっぱりよそ行き用の写真になっちゃうからね」
苦笑混じりに三人を眺めながら「そういえばさ」と彼女は続けた。
「真美さんは『姉妹にして下さい!』って頼まれたことある? あ、一応確認だけど、おたくはまだ未婚よね?」
この「そういえば」は、なにに気付いての「そういえば」なんだろう。いろいろ邪推してみて、反問した。
「藪から棒に、変なこと訊くのね。ということは、蔦子さんはあるんだ」
「あるよ、写真部の後輩に」
「そして、断った」
「うん、そう」
罪作りだねえ、なんて笑いながら、蔦子さんは泡の抜けきったコーラを啜る。
なぜか、とても寂しそうだった。
「私も、新聞部の後輩に」
「あるんだ」
頷いて、すっかり冷めてしまったブレンドを舐める。蔦子さんはまた、罪作りだねえ、と笑った。「つぼみ二人はどうするんだろうね」なんて言いながら。
姉妹制度ってなんなんだろう。リリアン女学園の根幹を為す、上級生が下級生を監督する制度。表向きはそうだ。そして、ほとんどとは言わないまでも、かなりの数の生徒が誰かの姉であり、妹となっている現状を見るに、きっとそれは上手く、正しいやり方なのだろう。
例えば、視線の先のカップルの様に。と考えて、少し首をひねった。
「私はね、姉は居ないとはいえ写真部に属してるし、育てて貰った自覚もある。だから、何か恩返しをしたい気持ちはあるんだ。でも、それは責任も伴うんだよね。たかが二年生が指導役、っていう」
「写真部のエースが後継者を育てないのは、リリアンにとって大きな損失よ」
「あら、そんなこと仰る真美さんもでしょ」
ニヤリ、と眼鏡の奥で柔和に微笑む蔦子さん。
「そんなふうに損得で決められたら楽なんだろうけどね。あそこの甲之進さんも然り、相思相愛じゃないと、なかなか難しい。その上、姉妹っていうのは対等じゃない」
対等じゃない。
私が惚れるとしたら、自分よりも凄い写真を撮る人が現れたらだよ、なんて、蔦子さんはそんな無茶な夢を語った。エースに勝つのはジョーカーしか居ない。
「祐巳さんや由乃さんや、今の志摩子さん乃梨子ちゃんを見てると、何かわかりかけてる気はする。そんなに難しく考えることではないんだって」
でもね、と蔦子さんは優しい笑みで続けた。それを見て、ふと気付く。優しいっていうのはきっと、寂しさの裏返しなんだな、と。
「やっぱり私は部外者なんだよ。外から幸せを眺めているのが好きなんだ」
それはわかる気がする。私たちは、観察者であり、あくまで対象に触れてはいけない。触れることで何かが変わってしまうのが、きっと怖いんだ。
「触れまくってるけどね」
蔦子さんの突っこみに、苦笑いを返す。
「それは、とても大切なものだから、でしょ」
頷いた蔦子さんが、席を立ち、カメラを肩に掛けた。
「ということで、行きますか」
顔を上げれば、観察対象の三人が席を立つところだった。
「やっぱりちゃんとご挨拶してこないと、このままだと居心地が悪いわ」
同感だ。
月曜日の薔薇の館は、乃梨子ちゃんの一言で不穏な空気に包まれることになった。環境整備委員会で遅れてやってきた志摩子さんに、ちょうど到着を見計らうかの様に紅茶を準備していた乃梨子ちゃん。その仲の良さに微笑ましくなったのも束の間
「志摩子さん、お茶、入りました」
うっかり聞き逃すところだった。「え?」って声が漏れて。
乃梨子ちゃん、今なんとおっしゃいました?
「ええ、ありがとう」
なんて、志摩子さんは平然としてるし。
「祐巳、なんて顔をしてるの」
小声で窘められて横を見れば、同じように呆気にとられているお姉さまがいる。
「お、お姉さまこそ」
「嘘おっしゃい。私のどこが驚いている様に見えるの」
「――やっぱり驚いてるんじゃないですか」
揚げ足をとられて、今にもハンカチを噛みそうなお姉さまは放っておいて、二人の様子を探る。
「あら、美味しいかも。葉っぱを変えたのかしら」
いいえ、とおかっぱを振って、乃梨子ちゃんが口を開く。
「菫子さんがシナモンスティックを大量に持たせてくれたんです。紅茶に合うかどうか少し気になったんですけど、志摩子さんには好評で良かった」
「ありがたいわ。お礼を伝えておいてね」
「わかりました」
そんな微笑ましい会話なのに。
やっぱりまた『志摩子さん』だ。
「お姉さま、あの二人、何かあったんでしょうか」
再びひそひそ声。もう気になって、目の前の書類仕事に手が付かない。
「他人事の詮索は感心しないわ」
ぴしゃりと遮られる。正論で、確かにその通りなのだけど。でも、お姉さまだって気になっているはずなのだ。
「確かにそうです――けど」
「祐巳は優しいのね」
驚くほど優しい顔で、お姉さまは言ってくれた。思わず手にしていた書類を散乱させて、あたふたしてしまうほどに。
ああ。なんだか二人だけの空間になってしまったような――しかし。
ぶんぶんと頭を振って、祐巳は話を戻す。
「お、お姉さまだって以前は、乃梨子ちゃんを焚きつけたり、志摩子さんにプレッシャーを掛けたり」
「それはあなたも同罪よ」
「わ、ずる……」
くすっと笑って、お姉さまは続けた。
「昔のことよ。一度姉妹になってしまったら、その絆は人がとやかく言うことではないわ」
私たちの間だって、余所さまにとやかく言われたらどう思う? とお姉さまは訊ねる。それは、確かに、面白くないように祐巳には思えるから。
「そうですね」
だから、今日は黙っていることにした。
「ときにお姉さま」
おずおずと提案。
「もう一度、『祐巳って優しいのね』って言って下さいませんか?」
「仕事なさい」
ボールペンの背で軽く頭を叩かれて「ふぁい……」とへしゃげた返事。でも、こういうスキンシップですら、嬉しいものなのだ。
そんな会話が交わされているとはつゆ知らず。というよりも、いつものじゃれ合いに見えて微笑ましく、また少し切なくなって、志摩子は窓の外を眺めた。
秋の夕暮れは早い。
「今日は、黄薔薇さまたちはいらっしゃらないのかしら」
「部活が長引いていらっしゃるのかもしれませんね」
「由乃さんはともかく、令さまは三年生だというのに、大変なこと」
「志摩子さんだって、山百合会のお仕事以外に委員会に出てるじゃないですか」
あ、まただ。
これで六回目、と。密かに数えている志摩子。
「それは好きでやってることだから」
「それなら、令さまたちも同じです」
「ふふ、そう言われるとそうね」
アンケートをまとめ終わり、とんとんと机で端を揃え、ファイルする。今年の学園祭の割り振りも、なかなかに大変そうだ。
「志摩子さーん、そろそろお開きにしない?」
タイミング良く祐巳さんから声が掛かり、乃梨子を見る。目で頷いてくれたから、乃梨子は椅子を引いて立ち上がった。
すっかり陰ってしまった部屋の鍵を下ろし、ぎしぎし鳴る階段を下りていく。祐巳さんと祥子さまは、図書館に用事があるとのことで、先に帰ってしまった。黄薔薇姉妹は結局来なかった。
薔薇の館を出ると、焼け付く様な夕暮れ。
「綺麗」
隣の乃梨子が、感慨深そうに呟く。
「ねえ、乃梨子」
横顔に訊ねた。
「桜を、観ていかない?」
もちろん、それは花をつけていない。どっしりとそびえた一本のソメイヨシノが真っ赤に染まり、空へ手を伸ばしている。まだ落葉には早い。風に揺れて枝が、葉がざわめいていた。
『桜の花は、実は白いの』なんて会話を交わしたのは、もう半年も前になる。そう指摘すると、乃梨子は目を細めて、手のひらの花びらを眺めて、はじめて感心したような声を出したはずだ。それを空に透かし「――本当だ」と、どうにも無感動に見えるリアクションを返して。
花びらを裏返し、そしてまた手のひらに載せて、そっと空へと放つ乃梨子を、ただ眺めていた。
赤い横顔に、ふとそのイメージが重なる。
「んーと」と、唇が動いた。「ごめん」
「ん、どうして?」
風だけは、春の日のように優しくて、少し乱れた髪を押さえながら首を傾げる。
「私、嫉妬してる」
春の風は優しく、白い花びらは空へ駆け上がる。
「だから、志摩子さんへの八つ当たりなんだ、今日は」
七回目。
秋の風は、少し、新鮮だった。
片手は外と繋がるために空けておこうって、そんな話を祐巳さんから聞いた。
『受け売りなんだけどね』
頭を掻いて笑う祐巳さんが眩しく思えて。
隣を歩く、涼やかな顔を見る。
乃梨子はそのあたり、上手くやりそうだ――と思ってたのだけど。
知らず知らず頬が緩んでいたのだろうか。「なんですか?」と訊かれた。
「乃梨子、怒ってる?」
市松人形はまた前を向いて、歩き出す。その隣について、校門までの道のりを進む。
「あの後ね」
くすっと笑って、一人ごと。乃梨子は構わず歩いているけど、でも、聞き耳を立てているのはわかっている。
「昨日、蔦子さんと真美さんに怒られちゃった。妹の前で、男相手にいちゃいちゃしちゃいけないんだぞう――だって」
思い出して、くすくす笑った。だって、二人とも忠告してくれた割に「いつも通りでいい」って言うのだから。
「あのね、志摩子さん」
「なに?」
「私たちって、どんな関係がベストなのかなって、ふと思うんだ」
小さな間。以前はその空気を暖かくさえ思ったものなのに、今日はどうしてだか居心地が悪い。乃梨子の変わらない表情は、こうして考えると残酷だと思う。
鏡なんだ。ふと、そんなことを思った。
自分の心の内を映し出す鏡。
「今の関係ではだめ、ということかしら?」
よく考えて、一番ありきたりな解釈。
「そうじゃなくて、その。うーん、よくわからないけど、例えば絶対に志摩子さんは私を怒らない」
「それは、乃梨子がしっかりしてるからでしょう」
「私、今は理不尽に八つ当たりしてるよ?」
「そうね、みんなが不快になるようなら、怒らないとだめでしょうね」
微笑むと、「んもー、わかってないな」と乃梨子が首を振った。勘に障ったのを察知して、志摩子は慌てて謝った。
「ねえ、乃梨子」
市松人形みたいな、整った顔が振り返る。
「やっぱり怒ってる?」
「何をですか?」
「そう、それならいいの」
揺れる左手と右手。触れるか触れないかくらいの距離感。祐巳さんや由乃さんの様に、しっかりと手を繋ぐのが恥ずかしくて、怖くて。でも離れては居たくない。
心は不安定すぎる。心の内で苦笑する。
マリア像に手を合わせた。乃梨子も形ばかりに付き合って、そして、隣で待ってくれる。
「ねえ、乃梨子。少しだけ、祈らせて」
頷き、気を利かせて、乃梨子は隣を離れてくれる。
志摩子は目を閉じた。
神の母聖マリア、罪深き私たちのために
――罪深き私たちです。でも、願わくは――
「志摩子さーん、バス! バス出ちゃいますよ!」
振り返る。
両手をメガホンにして、乃梨子が10メートル先で叫んでいる。周りの生徒達も少し驚いた様子。
罰は続いている。
お祈りしていた手を解いて、頷いて、志摩子は走り出した。スカートのプリーツの乱れも気にせず、右手の通学鞄をがちゃがちゃ言わせて。
乃梨子と並ぶ。
その横顔を見た。綺麗に切りそろえられた髪が規則正しく揺れて、その下の頬が夕暮れに染まっている。相変わらずにこりともせず、ようやく追いついた志摩子に合わせてスピードを上げ、彼女は走り出す。
私たちは、疾走する。