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序章 Setup




 胃袋と脳を刺激する甘い香りに誘われて、ロイドは毎朝目を覚ます。ユイの作るお菓子の香りだ。
 彼女は毎朝暗いうちに起きて、店に並べるお菓子を作る。ロイドが仕事で出かけている間、暇をもてあますので、玄関ホールを改装して半年前からお菓子を売る店を始めたのだ。
 午前十一時に開店して、午後の四時には閉店する。一人で作っているので、そんなに数は多くないが、毎日きれいに完売しているようだ。
 店を始める前に、売れ残ったら全部食べていいと言われていたのに、甘いもの好きのロイドとしては完全に当てが外れた。
 以前は独り占めしていたユイのお菓子が、今では口に出来る機会が格段に減っている。それが結婚して唯一不満に思う事だった。
 ロイドとユイが結婚して一年が過ぎた。出会ってからだと二年になる。
 長い黒髪と黒い瞳のユイは、ニッポンという異世界からやって来た。
 二年前、行方不明になった王子殿下を探すため、ロイドは国王陛下の勅命により、捜索責任者となっていた。
 王宮内の研究室で臨床試験中だった自作マシン、広域人物捜索装置を使用した時、マシンの中に現れたのが、殿下にそっくりな容姿をしたユイだった。
 広域人物捜索装置は入力した検索条件に基づき、人物に限定して検索結果を返すマシンだ。オプション機能として、限定されたターゲットを装置の中に転送することも出来る。
 名前が長すぎると言って、ユイはこの装置のことを人捜しマシンと呼んだ。
 当時は原因不明の誤動作によって、ユイが転送されたと思っていた。
 殿下の行方は分からないまま、誤動作の原因を探っていくうちに、ユイはロイドにとってかけがえのない存在となっていた。
 結局ユイが転送されたのは、マシンの誤動作が原因ではないことが判明し、殿下も無事に発見された。
 ユイがニッポンと行き来するためにマシンは改造され、今では座標さえ分かれば異世界からの転送も、逆に送り出すことも出来るようになっている。
 いつでも会うことが可能になったユイとロイドは順調に愛を育み、一年ほど前に結婚して、今はクランベール王国の首都ラフルールにあるロイドの家で一緒に暮らしている。
 毎朝、甘い香りに包まれてゴロゴロしていると、階下からユイが朝食が出来た事を知らせてくる。その声を合図に、ロイドはベッドから這い出して階下へ向かう。
 食事は基本的にユイが作る。最初の頃は手つきがおぼつかない上に、手際が悪いので、通常の三倍は時間がかかっていた。見かねて手伝おうとすると、頑固なユイは自分でやると言って聞かない。
 ニッポンから大量に持ち込んだ本を見ながら作っているせいか、味が酷いものを作った事はないが、毎日夕食にありつけるのは、九時や十時を回っていた。
 さすがに一年経つと手慣れてきて、余裕も出てきたせいか、時々ロイドが作ると喜ぶようになった。
 ユイの作る朝食はいつもワショク(和食)だ。ニッポン独自の食材で作られたミソシル(味噌汁)と深めの器に入ったライスがおもしろい。小さな四角いフライパンを使って、クルクル巻いて作る甘い卵焼きもロイドは気に入っていた。
 クランベールにはないニッポン独自の食材は、ユイが実家から送ってもらう。
 最初はユイが直接取りに行っていたが、広域人物捜索装置が科学技術局内に移されてからは、一般人のユイは頻繁に出入りが出来ない。
 科学技術局はクランベール王国の国家機関だ。国の最先端科学を駆使して行われる研究開発は、当然ながら国家機密も多く含まれる。
 部外者の立ち入りやマシンの使用には、面倒な手続きが必要なのだ。そのためロイドが物品専用の小さな時空移動装置を自宅用に作った。
 朝食を終えて身支度を調えると、ロイドは玄関へ向かう。以前の玄関は店になってしまったので、今はリビング横に新たな玄関が作られている。
 今日は副局長が休みなので、よほどの大事件でもない限り確実に定時で帰れる。
「今日は早く帰るから、オレが夕食を作ろう。魚と肉とどっちがいい?」
 尋ねるとユイは嬉しそうに笑った。
「お魚。あなたの料理久しぶりだから楽しみ。じゃあ、私はデザートを用意して待ってるね」
「あぁ。行ってくる」
 挨拶のキスをして、ロイドは家を出ると、科学技術局へ向かった。



 夕方、予定通り定時に職場を出たロイドは、買い物をして真っ直ぐ家に帰る。玄関を入ると、甘い香りと共にユイが出迎えた。
「おかえり」
「ただいま」
 結婚して、一番幸せを感じるのはこの瞬間だ。
 孤児のロイドは子供の頃から、家に帰って「ただいま」を言った事が数えるほどしかない。学校に通う頃から、育ての親である考古学者のブラーヌはクランベールに点在する遺跡を点々としていて、ほとんど家にいなかったからだ。
 家に帰った時、必ず出迎えてくれる人がいるというのは、とても幸せな事だと初めて知った。
「今出来たとこなの。あなたが好きなクレームブリュレよ」
 笑顔のユイが指し示すテーブルの上には、白くて丸い容器がズラリと並んでいた。表面のサクサクして焦げた砂糖の部分が、ロイドのお気に入りだ。
 以前大きな器で作ってもらったら、表面だけ先に食べてしまって後が寂しくなったので、それ以来、あえて小さな器でたくさん作ってもらう事にしている。
 すぐにでも食べてみたかったが、食後の楽しみに取っておこう。
 ロイドは買ってきた食材をキッチンに運び、猫の額ほどの小さな庭に出た。植えた覚えもないが、以前から生えていたハーブの芽を少し摘んでくる。
 以前は伸び放題の雑草に覆われて、見分けが付かなくなっていたが、ユイが手入れをして、少しは庭らしくなっている。今はお菓子に使うミントや木イチゴ類が、新たに植えられていた。
 キッチンに戻ったロイドは、ユイのリクエストに応えて、買ってきた魚を調理する。
 しばらくしてロイドの作った夕食が食卓に並び、二人で食事を始めた。
 お互いの一日の出来事を話しながら、楽しそうに食事をしていたユイが、ふと浮かない表情を見せた。
「どうした? 口に合わなかったか?」
 ロイドが問いかけると、ユイは慌てて笑顔を作る。
「ううん。ごはんはすごくおいしい。ただ、ちょっと気になる事があって、それを思い出したの」
「なんだ?」
 ユイが言うには、ここ十日ばかり、毎日お菓子を買いに来ていた少年が、昨日から来なくなったらしい。病気で寝ている彼の祖母が、ユイのお菓子を気に入っていたので、元気づけるために買いに来ていたという。
 病人にユイのお菓子は向かないんじゃないかと言うと、食べられなくても、見て、食べられるようになろうと思ってもらえればいいと笑っていたらしい。
「それにね。おばあちゃんが食べなくても、自分が食べるから無駄にはしないよって気を遣ってくれたの。いい子でしょ?」
「あぁ。でも、来なくなったって事は、ばあさんが元気になったんじゃないのか?」
 ロイドの問いかけに、ユイは再び表情を曇らせる。
「うん……。そうかもしれないけど、なんか急にパタッと来なくなったゃったから、気になって……」
 ロイドはテーブルの上にひじをついて身を乗り出すと、ユイの顔を覗き込んだ。
「おまえ、その子を見て子供が欲しくなったのか?」
「え?」
 ユイは一瞬目をしばたたいた後、クスクス笑い始めた。
「あぁ。確かに、できたら子供は欲しいけど、その子そんなに小さい子じゃないわよ。王子様と同じくらいじゃないかな」
「じゃあ、充分大人じゃないか」
「そうね。でも笑った顔があどけなくって、かわいいの。きれいなプラチナブロンドにブルーグレイの瞳でね。色白ですごく華奢だから、最初女の子かと思っちゃった。背は私と同じくらいなんだけど」
 ユイの告げた容姿に酷似した人物をロイドは知っている。
「そいつの名前は?」
「ベルよ。ベル=グラーヴ。カードの名前はそうだったわ」
 クランベール国民の証、識別カードは店で買い物をする時、認証装置にかざして決済を行う。同時にカードの持ち主が手の平をかざす事で、カードに記録された生体情報と照合を行うので、他人のカードは使えないのだ。
 偽造が困難な上に、本人にしか使えないカードで、認証エラーが出なかったという事は、ユイの店に来ていた少年は、ベル=グラーヴという人物なのだろう。ロイドの知っている人物ではない。
「知ってる人?」
 ユイが不思議そうに首を傾げた。
「いや、知っている奴に、見てくれが似ていただけだ」
 二年前からいつも心に引っかかっていた人物、ランシュ=バージュは元気だった頃、その少年によく似ていた。
 二年前、遺伝子の宿命によって命の終焉を迎えていた彼は、見る影もなく老化して別人のように変わり果てていた。
 病床の彼は、ロイドを睨んで宣告した。

――オレの大切なものを奪ったあなたに、復讐してやる――

 ランシュが元気になって戻ってくるなら、復讐でも何でも受けてやるとロイドは答えた。
 ユイの話を聞いて、本当に元気になって戻って来たのかと思ったが、どうやら人違いのようだ。
 遺伝子に刻まれた宿命から、逃れようはない。元々ランシュが元気になる見込みは、限りなくゼロに近かった。
 ロイドが彼に会ったのは、それが最後だ。その一ヶ月後に、ランシュは入院中の病院から失踪した。一度、科学技術局に姿を現した事は分かっているが、その後の消息は分からない。
 動く事もままならない状態だったランシュが、今も生きている可能性は低いが、遺体が見つかったという話も聞いていない。消息が分からないので、ずっと心に引っかかっていたのだ。
 食事と片付けを終え、風呂から上がると、ユイが明日の仕込みをちょうど終えたところだった。
 ユイが風呂に入っている間、リビングのソファに腰掛けて、ロイドは再びランシュの事を考えた。
 もしも今も生きているなら、ランシュは今年二十歳になる。元気になったとしても少しは大人びているだろう。ユイの店に来ていた少年がランシュだとしたら、どうやって生き延びる事が出来たのかも気になる。
 明日、識別カードの持ち主、ベル=グラーヴについて、調べてみる事にしよう。
 そんな事を考えていると、ユイが風呂から上がってきた。
 ロイドは立ち上がり、一階の灯りを消すと、ユイを引っ張って二階へ向かう。
「今日はさっさと寝るぞ」
「え? まだ九時だけど、明日早いの?」
 相変わらずとぼけた事を訊くユイの額を叩く。
「毎朝早いのはおまえの方だろう。この半年、オレがどれだけ我慢してると思ってるんだ。早く帰った時ぐらい、わがまま言わせろ」
「いいけど。せっかく早く帰ったのに、さっさと寝ちゃうの?」
 キョトンと首を傾げるユイに、思わず全身の力が抜ける。この鈍さは何年経っても変わらない。
 気を取り直して、ロイドはユイを抱き上げた。呆気にとられたように見つめるユイに、顔を近付けてニヤリと笑う。
「ただ寝るだけなわけないだろう。おまえ、子供が欲しいんだろう?」
「……え……」
 ようやく理解したユイを抱えて、ロイドは笑いながら寝室に入った。



 翌日ロイドは科学技術局で、仕事の合間にベル=グラーヴなる人物について調べてみた。ラフルールの住民管理課にいる知人に問い合わせたところ、すぐに正体は分かった。
 ベル=グラーヴ 九十二歳 女。ラフルールでひとり暮らし。おまけに三日前に死亡している。
 ユイの店に通っていた少年は、他人のカードを使用していたのだ。彼の言っていた祖母が、ベル=グラーヴだったのだろう。
 だが、認証装置がエラーを起こしていない。
 どうやって他人のカードを使う事が出来たのかを考えると、少年はもしかしたら本当に、元気になったランシュかもしれないと思えた。
 機械工学の天才児とまで言われたランシュなら、カードに何らかの細工を施す事くらい出来そうな気がする。
 途端に胸騒ぎがして、ロイドは席を立った。
 白衣を脱いで部屋を出ようとした時、やってきた副局長とぶつかりそうになった。
 驚いて見上げる副局長に、ロイドは短く告げる。
「家に忘れ物をした。ちょっと帰ってくる」
 そして早足で、科学技術局を後にした。



 家にたどり着いたロイドは、真っ直ぐユイの店に向かう。
 半分開け放たれた扉の奥に、ショーケースの向こうで笑っているユイの顔が見えた。閉じられた方の扉の影にいる客と話しているようだ。
 ロイドの姿に気付いたユイは、驚いたようにこちらを向いた。
「ロイド。どうしたの?」
 ロイドは閉じられた方の扉に手をかけ、中を覗いて愕然とする。扉の影にプラチナブロンドの人影を目にした途端、まるで時の流れが遅くなったような錯覚に陥った。
 ユイの声とロイドの気配に、ゆっくりとこちらを向いたそいつは、紛れもなく二年前に失踪した、ランシュ=バージュ本人だった。




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