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序章 月下の庵




 中天にかかる満月が森の中に佇む小さな庵を、明るく照らしていた。庵の前に拓けたほんの少しの平地には、月の光が降り注ぎ、木々の影をくっきりと浮かび上がらせている。窓から漏れる柔らかな明かりが、この庵が無人ではない事を物語っていた。
 人里離れた森の中の庵を、訪なう者は今や誰もいない。
 庵の主は二十年ほど前から、世捨て人のようにここで暮らしていた。
 大海に浮かぶ小さな島国、秋津国。その中心に位置する杉森領に、この庵はある。今は平和なこの国も、かつては国土を五つに分かち、長きに渡って絶えず戦を繰り返していた。
 分かたれた国土をわずか十五年で統一し、戦を集結に導いた、偉大なる初代秋津国国王がこの庵の主だ。
 偉業を成し遂げた後、国家が安定してくると、彼の政治への興味は薄らいでいった。二十七歳の時から時が止まったかのように、全く年を取らない容姿も人々の語り草となり、世間から身を隠すように森の中に移り住んだのだ。
 年を取らないのは、あの時に心がとらわれているからだと、彼は思っていた。そして同時に、果たしきれなかった誓約に対する、罰のような気もしていた。
 大きく背伸びをして、彼は読んでいた本をパタリと閉じた。肩にかかる銀糸のごとき長い白髪を、うるさそうに片手で背中に払う。
 突然強烈な眠気に襲われて、立ち上がるのも億劫だった。
 彼は小さくあくびをして、そのまま本を枕に、机の上に突っ伏した。
 目を閉じて、あの日以来夢の中でしか遭う事の出来ない少女の姿を思い浮かべる。
 かつて愛し、今も愛して止まない少女の姿が、ありありと彼の脳裏に蘇った。それと同時に、今は病床にあるかつての上官の事も思い出した。
(明日、塔矢殿の見舞いに行こう)
 久々に人里に降りる事を決意し、彼は安心して睡魔に身を委ねる。
 今宵はいつにも増して、過去の情景が色鮮やかに思い出されるようだ。
 抗いがたい微睡みの淵をたゆたう彼の意識は、少女のいたあの頃へと飛翔していった。




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