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番外編 月下の幻影

1.



 昼食時の城内食堂が今日は奇妙な静けさに包まれていた。いつもなら城内官吏が一斉にやって来るので、かなりざわついているのだ。
 ヒソヒソ声は聞こえるものの、そこにいる人数に対してあり得ない静けさだった。
「ここに来るの久しぶりだけど、今日はやけに静かだな」
 うどんをすすりながら和成(かずなり)は問いかけた。その音が静かな室内に響き渡る。
「よろしいのですか? このような所でお食事などなさって」
 和成の向かいに座った慎平(しんぺい)が、冷めた目で見つめながら問いかけた。和成は思いきり顔をしかめると非難するように慎平を睨んだ。
「”なさって”とか言うなよ」
「塔矢(とうや)殿でさえ敬語なのに、私がくだけるわけにはまいりません」
「塔矢殿だって俺と二人きりの時は今まで通りなんだよ。今は休憩時間だし、おまえも今まで通りでいいんだよ」
 笑う和成を見つめて慎平は軽くため息をついた。
「無理ですよ。これだけ注目されてたら」
 慎平に言われて、和成は初めて周りの様子を見回した。和成と慎平の座る机を遠巻きにして、食堂に集うものたちが和成に注目している。食堂の静けさの原因はこれだったのだ。
 和成は箸を置くと思わず笑顔を引きつらせた。
「なんで? そんな珍しいものでも見るみたいに……」
 慎平が呆れたように大きくため息をつく。
「君主がこのような所で下々の者にまざって、うどんなんか召し上がっていれば充分に珍しいです。ご自身のお立場をご自覚下さい」
 和成は片手で頬杖をつくと目を細くして慎平を見つめた。
「それ、俺が毎日紗也様に言ってた言葉だ」
 慎平は少し目を見開いた。
「紗也様……」
 そして、懐かしそうに遠い目をして微笑んだ。
「懐かしい名前ですね」
 和成は少し不思議そうな表情を浮かべた後、すぐに納得して小刻みに頷いた。
「あ、そうか。もう十二年経つんだったな。俺は毎日考えてるからそんなに経ってるとは気付かなかった。確かに懐かしいかもな」
「毎日ですか?」
 当然のようにサラリと言う和成に慎平は驚いて問い返した。
「悪いかよ」
 ふてくされたようにそっぽを向く和成を見て慎平はクスリと笑う。
「いえ。以前、佐矢子殿が言ってたじゃないですか。和成様は機械でできた人形のようだと。あの頃は私も和成様は他人に対して淡泊な方だと思っていましたから、こんなにも深くひとりの人を愛する方だとは存じませんでした」
 和成は少し照れくさそうに慎平を見つめて問いかけた。
「いつから気付いてた? 俺が紗也様を想っている事」
 慎平は少しためらうように答えた。
「……あの時まで、気付きませんでした。だから、あの後和成様の落胆ぶりを見て、私の身勝手でお引き止めしてしまった事を少し後悔しました」
「俺も謹慎中はずっと後悔してたよ」
 和成は紗也を見送った後、あらゆる事を繰り返し悔やんでいた。
 どうして紗也から目を離したのか。どうして自分の身の安全にもっと気を配っていなかったのか。どうして紗也の出陣をもっと強く反対しなかったのか。敵の動きがおかしい事に気がついていたのに、どうして刺客の存在に気付かなかったのか。どうして自分はまだ生き恥をさらしているのか。
 だが、いくら悔やんだところで時間も紗也も戻っては来ない。
 紗也から国の未来を託されていた事を塔矢に告げられ、やっと前向きになれた。
 本当はあの時、慎平が止めなければ戦も国も全て放り出して紗也の元へ行きたかった。そうなっていれば、圧倒的な戦力差で、あの戦には負けていたかもしれない。
 そして、紗也の願う平和は訪れることなく、君主不在の杉森国は衰退し消滅していただろう。
「今の俺の命は、紗也様の夢見た未来を築くためにある。ちゃんと礼を言ってなかったな。あの時、引き止めてくれた事、感謝してる」
「そう言っていただけて、私も肩の荷が下りました」
 静かに微笑む慎平を見た後、和成が再びうどんをすすり始めた時、静かな食堂に塔矢が怒鳴り込んできた。
「殿――っ!」
 塔矢の怒鳴り声で、和成を遠巻きにしていた人垣が真ん中から左右に分かれる。器と箸を持ったまま顔を上げた和成を目がけて塔矢が大股で歩み寄って来た。
 塔矢は笑顔で和成を見下ろすと静かに言う。しかし、目は笑っていない。
「食事もなさらず、どこをほっつき歩いているのかと思えば、このようなところで何をなさっておいでですか? 侍従長が捜しておりましたぞ」
 和成は苦笑を湛えて、上目遣いに塔矢を見上げた。
「久しぶりに食堂のうどんが食べたくなったので、私の食事はみんなで食べてくれるように書き置きは残してきたんですけど……」
「書き置きは拝見いたしました。ですが、突然おっしゃられても皆も困るんです。それに食堂にいらっしゃるとは一言も書いてありませんでした。今後は事前にお申し付け下さい。お部屋にご用意いたしますので」
「わかりました」
 和成が項垂れると、塔矢はさらに言葉を続けた。
「それから、お引き合わせしたい者がおりますので、至急執務室へお戻り下さい」
「うどんを食べ終わってからでいいですか?」
 和成が箸を持ち上げて笑顔で尋ねると、塔矢は身を屈め和成を覗き込むようにしながら静かに問いかけた。
「”至急”の意味をご存じありませんか? 殿」
 塔矢に敬語で静かにすごまれると、普通に怒鳴られるよりも怖い。
 和成は観念すると、箸を置いて立ち上がった。
「……すぐ戻ります」
 食べかけのうどんを慎平にまかせて、和成は塔矢の後について食堂を出た。和成が食堂を立ち去ると、静まりかえっていた食堂は、普段の三倍の賑やかさを取り戻した。



 君主執務室へと続く廊下を歩きながら、和成は塔矢に問いかけた。
「私に会わせたい人って誰ですか?」
「おまえの護衛だ」
 周りに他の人が誰もいなくなると、塔矢の言葉から敬語が抜ける。和成が頼んでそうしてもらっているのだ。今は君主補佐官として和成の側に仕えているが、塔矢は元々、和成の上官だった。
 塔矢の言葉に和成は眉を寄せると抗議した。
「護衛はいらないって何度も言ってるじゃないですか。私は元護衛官ですよ。自分の身は自分で守ります」
「おまえがひとりで城下をうろついたりするから、せめて護衛を付けてくれと侍従長に泣き付かれたんだ」
 うんざりした表情の塔矢を横目に、和成はガックリと肩を落とす。
「ひとりで城下をうろついたのは十年前に一度だけです。私もあの時泣き付かれたので、以来ひとりで城外に出た事はありません」
「そんな事はわかっている。だが、今のようにおまえの所在がわからなくなるたびに、繰り言を聞かされるのはいい加減うんざりなんだ。観念しろ。君主様はどうも庶民癖が抜けなくて困ると嘆いてたぞ」
 塔矢がからかうような笑顔を向けると、和成は不愉快そうに顔を背けた。
「しょうがないじゃないですか。庶民歴の方が長いんですから」
 塔矢はその様子をおもしろそうに笑う。
「人選は一任されたから、俺の部隊からおもしろい奴を選んでおいた。おまえの気に入りそうな名前だぞ」
 和成はさほど関心もない様子で、軽くため息をついた。
「別に飲み友達じゃないんですから、おもしろくなくても、気に入らない名前でもかまいませんよ」
「執務室に待たせてある」
 塔矢は意味ありげな笑みを浮かべて和成を見ると、軽く背中を叩いて執務室へ促した。



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