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5.



 翌日、長い間和成の使っていた部屋に月海が引っ越してきた。
 荷物の整理が終わり、月海は自室前の中庭へと降りる石段に座ると、真新しい認証札を眺めた。
 これまで入ることのできなかった城内のほとんどの場所に入ることのできる認証札だ。
 どこか探検に行ってみようかと考えていると、後ろから声がした。
「もう片付いた?」
 振り返ると和成が立っていた。月海は慌てて立ち上がると頭を下げた。
「つい先ほど片付きました。あまり荷物もありませんし」
「そうなんだ。大変そうだったら手伝おうかと思ったんだけど」
 軽く言う和成に恐縮して、月海は激しく手を振りながら一歩退いた。
「君主様にお手伝いいただくなど、とんでもないことでございます!」
 あまりに恐縮した様子に、和成は思わず苦笑する。
「頼むから、その”君主様”ってのやめてくれないかな」
「え? では何とお呼びすれば……」
「名前でいいよ」
「和成様……ですか?」
 月海が恐る恐る名前を呼ぶと、和成はにっこり微笑んだ。
「うん。その方がいい。どうも”君主様”とか”殿”とか呼ばれるの、未だに慣れなくて」
 照れくさそうに頭をかく和成の笑顔に、月海の目は釘付けになる。
「部屋の中はきれいだった?」
 ぼんやり見とれていると、不意に和成がこちらを向いた。視線がぶつかり、ドキリとして思わずうろたえる。
「あ、はい。大丈夫です」
「そう、よかった。昨日慌てて片付けたからさ。一応、布団を変えて掃除はしてもらったんだけど、おやじ臭かったらごめん」
 片手で拝むような格好をする和成を見て、月海は不思議そうに首を傾げた。
「どなたか、この部屋をお使いだったんですか?」
「昨日まで私がいたんだよ」
「え?! だって、見たことはありませんけど、この向こうに広くて立派なお部屋があるとお伺いしておりますが……!」
 そう言いながら月海は渡り廊下の向こうを指差した。和成は気まずそうに笑う。
「うん。確かにそうなんだけど、広くて立派すぎて、どうも落ち着かなくてね……。私は侍従長から庶民癖の抜けない困った君主だと言われてるんだよ」
「はぁ……」
 月海はどう反応していいかわからず笑顔を引きつらせる。
「あ、でも、おやじ臭くはないですよ。和成様お若いですし……」
 月海が慌てて取り繕うと、和成は意外そうに目を見開いた。
「もしかして……私の年、聞いてない?」
「はい?」
 月海はキョトンと首を傾げる。
 和成は軽く嘆息すると、少年のような顔に苦笑を湛えて、月海にはにわかに信じ難いことを告げた。
「こう見えても私は三十九才なんだ。今年で四十になる立派なおやじだよ」
 月海は思い切り目を見開いて絶句すると、しばらくの間和成の顔を凝視した後、大声を上げた。
「えぇ?! 本当ですか?! 私より十七才も年上?! 全然見えません!」
「私もそう思うよ」
 そう言って少し天井を見上げた和成を見つめて、月海はやはり信じられずにいた。
 和成の見た目はどう見ても十七、八の少年にしか見えない。けれど塔矢隊の先輩たちの様子から見て、年上だろうとは思っていたが、三十には届いていないと踏んでいた。
 どこかに年齢を感じさせるところはないかと観察してみるが、肌も髪もうらやましいくらいに色艶がよく若々しい。それに昨日の太刀さばきも身のこなしも、実戦から遠ざかって久しいとは思えないほど見事だった。
 あまりに不躾にじろじろと見ていたらしく、和成が照れくさそうに顔を背けた。
「若い女の子に、そんなに見つめられたら照れるね」
 月海はハッとして視線を外すと頭を下げた。
「し、失礼いたしました」
「おいで、月海。侍従たちに紹介しよう」
 顔を上げると、渡り廊下の手前で和成が笑いながら手招いていた。
 初めて和成に名前を呼ばれ、心が弾んだ。
「はい!」
 月海はうきうきした気分のまま元気に返事をすると、和成に駆け寄った。



 その夜月海は、布団の中でゴロゴロといつまでも眠れずにいた。枕が変わったこともあるが、今自分のいる部屋に昨日まで和成がいたかと思うと、なんだかドキドキして目が冴えてしまったのだ。
 和成が自分よりも自分の親に年齢が近いのにも驚いた。
 頭の中で自分の父親と和成を並べて比べてみる。そして、クスリと笑った。
「全然お父さんには見えない。だって、和成様は頭がよくて、強くて、男前で、お父さんより断然かっこいいもの」
 気がつけば和成のことばかり考えていた。
 自分の名を呼ぶ和成の声を思い浮かべる。和成に呼ばれると自分の名前が甘い響きを奏でるような気がした。
 頭の中で和成の声を繰り返し再生するたびに、心が弾み自然に顔がにやけてきた。
 頭の中で響く声に応えるようにその名を呼ぶ。
『月海』
「和成様……へへっ」
 益々顔がにやける。
『月海』
「うふふ……和成様」
 名前を呼ぶたび、気持ちが舞い上がりそうになる。
『月海』
「か・ず・な・り・さ・ま……きゃああ」
 照れくさいのか、嬉しいのか、楽しいのか、よくわからない。それらがごちゃ混ぜになった不思議な感情が極限に達して、月海はじっとしていられなくなり、布団を抱きしめて寝台の上を転げ回った。
 しばし後、布団をはねのけて勢いよく身体を起こすと、冷めた自分がポツリと呟いた。
「……私、バカ?」
 月海はため息と共に寝台を下りると、上着を羽織って廊下へ出た。少し頭を冷やそうと、中庭へと降りる石段に腰を下ろす。
 真夜中の静寂の中、中庭の木々は月光に青白く照らされていた。桜はチラホラと花を咲かせ始めている。自室にいながらにして花見ができるとは、なんて贅沢なんだろうと月海は思った。
 見上げると、雲ひとつない夜空に、ほとんど満月に近い明るい月が出ていた。
 ふと、視界の隅に人影が見えた。月海は立ち上がり、そちらへ視線を向ける。
 もっと近くで見ようと、渡り廊下の手前まで静かに廊下を移動した。近付くと人影の正体は和成であることが判明した。
 和成は君主居室を取り囲む生け垣の前で立ち止まり、中庭側を向いて月を見上げた。しばらくそのまま、じっと月を見上げている。
 真夜中に何をやっているのか気になって、月海は目を逸らせずにいた。
 すると和成は月に向かって何かを語りかけた後、そのまま目を閉じ幸せそうに微笑んだ。少しして和成はその場を離れると庭の奥に姿を消した。
 まるで月が見せた幻のようだ。
 幸せそうに微笑む和成の笑顔と、不思議な光景が目に焼き付いて離れない。和成が何を言っていたのかも気になった。
 月海はしばらくの間廊下の柱に縋り、その場を動けなかった。




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