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4.



 執務室に戻った和成に、塔矢は席に付くことを許さなかった。
「今日中に部屋を明け渡して正規の居室に移っておけよ」
「えぇ? 他に部屋はないんですか?」
 悪あがきをする和成を塔矢は一蹴する。
「ない。おまえこそ、ちゃんとした部屋があるのに他の部屋を使うな」
 和成はガックリ肩を落とした。
「私にあの部屋は広すぎるんですよ」
 和成は君主になってからも、それまで使っていた部屋を使い続けていた。警備の都合上問題があるので、侍従長と塔矢から再三に渡って正規の居室に移るように言われていたが、頑なに拒否し続けていた。
 この度、護衛官を任命するに当たって、その点も合わせて塔矢は侍従長から頼まれていたのだ。
 和成は大きくため息をつくと、諦めて君主の居室へと向かった。
 現在の部屋の向こうにある渡り廊下を越えると、君主の居室がある。紗也がいなくなってから和成は、その広い居室のうち謁見室と食堂と浴室とお手洗い以外使ったことがない。
 紗也と共に最後の幸せな時を過ごした寝室の場所は覚えているが、それ以外は侍従と女官の控え室を除くと、どこに何があるのかさっぱりわからないのだ。まずは居室内の探検から始めなければならなかった。
 紗也には親族がいない。配偶者である和成が何の命令も下さないので、部屋の掃除はされているものの、紗也の私物は十二年前のまま手付かずで放置されているらしい。
 中でも、和成が知っている紗也の寝室は、部屋に風を通して床を掃き清める以外、何も手を触れていないという。生前、紗也が寝台には一切手を触れないように命じたためである。
 和成にはその理由がわかっていた。
 そこには、紗也が大切にしていた、紗也だけが知っている和成の秘密の一つが隠されていたからだ。
 和成はそれを確かめるために、真っ先に寝室へ向かった。
 部屋の戸を開けると、十二年前と変わらず、広い部屋の真ん中に大きな寝台があった。和成は寝台に歩み寄ると、布団をめくり思わず声を上げて笑った。
「やっぱり、まだあった」
 そこには、紗也が抱き枕にしていた和成の上着が、十二年前と同じ状態で横たわっていた。
 和成は上着を引っ張り出して小脇に抱え、布団を元に戻すと寝室を出た。
 次に覗いた部屋は書斎だった。入口を入った左手に大きめの机が一つ置かれ、あとは図書館のように本棚が並んでいた。
 本を読むのが好きな和成は、目を輝かせて本棚を眺め部屋の中をゆっくりと歩いた。
「ここは、もっと早く来てみればよかったな」
 ふと、本棚の真ん中辺りに背表紙の少し飛び出した本が目に止まった。
 手に取ってみると、少し難しい経済学の本のようだ。冒頭から五分の一くらいのところに、押し花の付いた栞が挟んであるのを見て、和成は目を細めた。
「へぇ、少しは勉強してたんだ」
 和成は栞をはずし、本を元に戻すと書斎を出た。
 さらに二、三の部屋を覗いた後、たどり着いた部屋はこれまで見た部屋とは明らかに違っていた。そこには女の子の生活の匂いが漂っている。紗也の私室に違いない。
 部屋のあちこちに人形や造花が飾られ、鏡台の鏡の前には色とりどりの瓶が並んでいる。
 よく見ると、調度品や雑貨、小物入れ、人形の着物に、窓にかけられた日よけの布まで、花柄のものが多い。
 和成は書斎から持ってきた栞の押し花をチラリと見て呟いた。
「花が好きだったのかな」
 そういえば、浜崎の国境で椿の花を持って帰ろうとしていた。
 考えてみれば、紗也の個人的なことはほとんど知らない。
 祝宴などに同席したことがあるので、食べ物の好き嫌いは多少知っているが、何が好きで何に興味を持っていたのか全く知らない。
 話をしても基本的に和成は聞き役で、何かを訊きたくても家臣の身では立ち入ったことを訊くわけにもいかなかった。
 紗也の好きなことや喜ぶことを何ひとつ知らなかったから、誰にも知られてはならない想いだったから、紗也に何も贈り物をしたことがない。想いを伝える言葉さえも。
 和成は何の気なしに、鏡台の一番上の引き出しを引いた。引き出しの中は髪飾りがたくさん入っていた。髪飾りも花をかたどったものが多い。
 引き出しの隅に一つだけ、透明な箱に入った青い花の髪飾りがあった。明らかに別格なその髪飾りを持ち上げて和成は見つめた。
「これ……」
 そして、すっかり忘れ去っていた記憶が蘇った。
 紗也が十五才の時、お気に入りの青い花の髪飾りがなくなったと言って、朝からずっと不機嫌だったことがある。
 その日和成は、塔矢の手伝いで朝から執務室にいた。よほどその髪飾りが気に入っていたのか、作業する和成の横で半日グズグズ言われうんざりしたので、昼休みに城下に出て青い花の髪飾りを買ってきたのだ。
 紗也のなくした物がどんな物か知らないので、同じ物ではなかったはずだか、紗也は大層喜び、午後からの作業は滞りなく円滑に行われ、和成はホッとした。
 和成にとっては、紗也の邪魔をうまくあしらった日常の些細な出来事のひとつで、すぐに忘れてしまっていた。
 だが、思い返しても紗也がこの髪飾りを付けていたのを見た覚えがない。
 和成は思わずクスリと笑った。
「これも、俺の秘密だったのかな」
 見覚えのない青い花の髪飾りを付けて、女官たちに指摘され、和成からもらったと教えたくなかったのだろう。
 和成は髪飾りを懐にしまうと、引き出しを戻し、部屋を出た。
 残り三つの部屋は、皆同じような部屋だった。今の和成の部屋より一回り広く、寝台と小さな洗面台と流しが備えられている。来客用の客室のようだ。
 和成はその内の一つを私室にしようと決めて、荷物を運び込んだ。
 あの広い寝室の布団は干してもらうことにして、紗也の私室は引き続きそのままにした。
 いずれ自分が退位する時にでも、片付けてもらおう。




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