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4.



 夕方になっても、夜になってもシンヤは帰ってこなかった。荷物は部屋に置いたままだ。出て行ったわけではないらしい。
 真純は苛々しながら、何度もリビング前のテラスに出ては、タバコを吸いながら外を窺った。
 とうとう真夜中になったが、それでもシンヤは帰らない。
 家で食事を摂ると言ったシンヤのために、用意した夕食はすっかり冷め切ってしまった。
 それも苛々の原因だが、携帯電話の番号もメールアドレスも教えてあるのに、連絡のひとつも寄越さない、いい加減さに苛ついた。
 だが時間が経つにつれて、心配にもなってきた。もしかして連絡のできない状態にあるのではないだろうか。事故に遭って、病院に担ぎ込まれているとか。
 苛立ちと心配を抱えたまま、真純はリビングのソファに寝転んで、見るともなしに深夜番組のチャンネルをパラパラ替えたり、本をパラパラめくったりした。
 しばらくそうしていると、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。こんな真夜中に来客などあろうはずがない。
 真純は足音も荒く玄関へ向かう。一応、覗き穴から外を確認すると、はたしてそこにはシンヤの姿があった。
 扉を開けると上機嫌のシンヤが、全く悪びれた様子もなく、笑顔で軽く手を挙げる。
「ただいま」
 どうやら、かなり酔っているらしい。その様子に、少しでも心配したのがバカバカしく思えて、真純は怒鳴りつけた。
「鍵、渡してあるでしょ?! 自分で開けたら? まさか無くしたんじゃないよね?!」
「んー。そうだったね。あるよ。ほら」
 シンヤはポケットからキーホルダーを引っ張り出して、顔の横でチャラチャラ振って見せた。
「でも、真夜中にそんな大声出したら、近所迷惑だよ」
 連絡も寄越さず深夜に帰宅するという、同居の礼儀を欠いた事をしておきながら、モラルをとやかく言うシンヤに益々ムカついて、真純は更に声を荒げた。
「だったら、そんなとこに突っ立っていないで、さっさと入って扉を閉めて!」
「はいはーい」
 小馬鹿にしたような返事にカチンと来たが、とりあえず家に入る。
 廊下の途中で振り返り、腰に手を当てて睨み上げると、後ろからついてきていたシンヤが、不思議そうな表情を浮かべてその場に立ち止まった。
「こんな時間まで何してたの?」
 努めて静かに問い質す。シンヤは少し気まずそうに答えた。
「……クライアントに呼び出されて打ち合わせ。それが長引いちゃって、その後飲みに行ってた。交渉は決裂したけど」
 決裂? 契約単価で折り合いが付かなかったとか? 決裂したのに一緒に飲みに行ったの? 今回はダメだったけど、また次の機会にはよろしくって事だろうか。
 なんとなく腑に落ちないが、そんな事は真純にとって、どうでもよかった。
「連絡くらいできるでしょ?」
「ごめんね。うっかりしてた」
(うっかりかよ……)
 半日、人の心を乱しておいて、その原因が「うっかり」とは――。
 言いたくはないが、近頃の若いもんは、と言いたくなる。
 真純は大きくため息をついて俯く。ついつい恨み言が口をついて出た。
「バカみたい。心配して損した」
 するとシンヤは嬉しそうな声を上げて、真純に縋り付いてきた。
「心配かけてごめんね。でも超嬉しい」
「懐くな! おまえ酒臭いし」
 抵抗して引き剥がそうとしても、長い腕がしっかりと絡みついていてビクともしない。
「真純さんはタバコ臭いよ」
「イヤなら離れたら?」
 自分で引き剥がせないので、シンヤの方から離れてもらおうと、冷ややかに言い放つ。けれどシンヤは、離れるどころか益々きつく抱きしめ、頬をすり寄せてきた。
「やだ。タバコ臭いのはイヤだけど、真純さん抱き心地いいんだもん。ほっぺも柔らかくて気持ちい−」
「だから、懐くな!」
 シンヤの過剰なスキンシップに、次第に鼓動が早くなる。そんな真純の胸中をよそに、シンヤは耳元で囁くように言った。
「僕、絶対に真純さんを裏切らないから。だからペットじゃなくて番犬になるよ」
「人が来ても気付かずに寝てるような奴に、番犬が務まるか」
 真純が吐き捨てるように言うと、シンヤは肩を揺らしてクスクス笑った。
「違うよ。僕が守るのは家じゃなくて真純さんだよ」
 シンヤはようやく身体を離し、少し身を屈めて首を傾げながら、真純を正面から見つめた。
「ねぇ、キスしていい?」
「へ?」
 突然の番犬志願から、なぜいきなりキス? 酔っぱらいの戯言(たわごと)にしても、あまりに脈絡がなさ過ぎる。
 酔っぱらいの戯言だと分かっていても、気が動転して思考が真っ白になり言葉が出て来ない。
「あ……その……それは……」
 真純は反射的に一歩下がり、近付くシンヤを制するために片手を伸ばした。その手首を掴まれ、逃げるに逃げられなくなる。
 シンヤはもう片方の手も捕まえて、身を退こうとする真純をその場に繋ぎ止めた。そしてゆっくり身体を倒す。
 近付いて来るシンヤの顔に、真純の鼓動がピークに達した時、シンヤの頭は目の前を素通りし、捕まえた手の甲に口づけを落とした。
 肩すかしを食らったようで真純が呆気にとられていると、シンヤは顔を上げ目の前で微笑んだ。
「御主人様に忠誠の証」
 言葉を失う真純を見つめて、シンヤは意地悪な笑みを浮かべる。
「もしかして、唇だと思ってた?」
 真純はハッとして、思い切り首をブンブンと横に振った。
「思ってない思ってない!」
 本当は思っていた。そもそもキスと言われれば、そう思うのが普通だろう。
 シンヤは手首を掴んだまま、もう片方の手を離し、その手を真純の頬に添えた。まじまじと顔を覗き込んで、からかうように言う。
「顔、赤いよ。照れてる? 僕が犬なら、真純さんは猫だよね。本当は優しいのに、気まぐれで素っ気なくて、素直じゃないっていうか」
「うるさい!」
 真純の罵声を無視して、シンヤは顔を上向かせると、グッと顔を近付けてきた。
「じゃあ、御主人様のご要望にお応えして――」
「要望なんてしてないし!」
 焦って突き放そうとするが、酔っぱらいのくせにビクともしない。わめく真純の唇に、シンヤは頬に添えた手の親指を当てて、言葉を制した。
「黙って」
 目の前で囁かれ、唇に息がかかる。無意識に身体がピクリと震え、急激に鼓動は早くなる。
 とても正視に耐えられず、真純はギュッと目を閉じた。
 その直後、唇を何かがかすめ、シンヤの頭が肩の上に乗った。その重さに驚いて、真純は咄嗟に目を開く。
 頬に添えられた手が、だらりと垂れ下がった。それと同時にシンヤの全体重が、真純の上にのしかかる。完全に身体中の力が抜けている。
「うわっ……! 重っ……」
 とてもシンヤの体重を支えられるわけもなく、真純は崩れるようにシンヤの下敷きになって廊下に倒れた。
「信じらんない! この酔っぱらい!」
 苦労してシンヤの下から這い出した真純は、頭の上から思い切り怒鳴る。
 それが全く聞こえていない様子で、シンヤは目を閉じたまま微動だにしない。
 目を閉じた途端、睡魔に襲われたのだろうか。それにしても、こんなに突然、電池が切れたように眠ってしまうとは、想像もしなかった。
 おまけに全身の力が抜けているくせに、どういうわけか手首を掴んだ手だけは緩めない。そのせいで身体の下から抜け出すのに苦労したのだ。
 手首を掴んだ手をほどこうとして、ふとシンヤの寝顔が目に入る。真純は手首をそのままに、空いた手で何気なくシンヤの頭を撫でた。
 このまま元いた場所に捨てに行こうか、とすら思う。けれど自分ひとりでは、この大きな子犬を運べないので、仕方なく断念したのだ。
 年齢のギャップか、性格の不一致か、苛立つ事が多いのに、なぜか憎めない。見放してしまえない。
「こんなとこで寝たら、身体中痛くなるよ」
 身体を揺すってみたが、電池切れのシンヤは動かない。
 無理矢理たたき起こすしかないかと考えながら、シンヤの寝顔を見つめる。唇に目が止まりドキリとした。先ほどの事が思い出されて、顔が熱くなる。
 さっき唇をかすめたのは、シンヤの唇だったのだろうか。
 ただ、かすめただけなのに、唇かどうかも分からないのに、胸の鼓動が収まらない。
 やはり苛つく奴だ。こんなに人の心を乱しておいて、自分だけ幸せそうに眠ってしまうなんて。
 真純はシンヤを見下ろして、その頭をコツンと小突いた。




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