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3.



 翌朝、真純は苛々しながら階段を上った。先ほどから何度も呼んでいるのに、シンヤが部屋から出て来ないからだ。
 確かにゆうべは寝たのが、深夜二時になろうとしている時間だった。
 二十歳という年齢のため場数を踏んでいないというのもあるだろうが、シンヤは真純ほど酒に強くないようだ。缶ビール二本目で、ほろ酔い状態になっていた。
 そのせいで眠いのは分からなくもないが、さっさと起きてもらわないと、真純自身の予定にも支障を来す。
 元々コンピュータ業界で働く者は、夜型人間が多い。シンヤもそうかもしれない。
 真純は以前、辺奈商事に内勤で勤めていた。
 当時は情報システム部でデータ入力を行っていたが、九時の始業時間に出社している者は、瑞希以外に夜勤明けの技師やシステムオペレータと協力会社の数名だけだ。
 主任やチームリーダーでさえ、きちんと出社しない事が多い。
 そういう立場の人は、日中、出張や取引先との電話応対などで自分の仕事ができないため、誰にも邪魔されにくい深夜に仕事をする。そのため、翌日出社が遅くなるのだ。
 理屈は分かるが、真純に指示を与える人間までそれをやられると、その人が出社するまで真純はぼんやり待っていなければならない。
 瑞希が前日に指示を与えるように注意したが、それでも急ぎの出張や会議で前日いなかったりして、何度か朝のぼんやりタイムを味わうハメになった。
 リーダーたちがそんな状態なので、部下たちもそれに合わせて遅くやって来たりする。
 いくら前日に残業しても翌日遅く来たのでは、作業の進捗にはプラスにならない。真純と違い、彼らにはスケジュールがある。リーダーがいなくても、できる仕事はあるはずだ。
 瑞希も早めに帰るように言っているらしいが、あまり効果はないという。
 納期に間に合わなければ困るので残業するなとは言えないし、過労で倒れられても困るので朝早く来いと強くも言えないらしい。
 だが端から見ている真純には、大半はただのルーズにしか見えない。
 自分の仕事も滞るし、見ていて苛々するので、指示は瑞希から直接受ける事として、在宅勤務にしてもらった。
 真純も決して朝が得意なわけではない。在宅勤務で時間が自由に使えるとなると、生活リズムが乱れる事は容易に想像がつく。
 なるべく不規則にならないように、決まったタイムスケジュールで生活するように心がけているのだ。
 それを今、シンヤが乱そうとしている。
 二階にあるゲストルームのひとつを、シンヤに使ってもらう事にした。瑞希が住んでいた頃、泊まりがけで遊びに来た時、真純が使っていた部屋だ。
 部屋には元々、シングルベッドと机、クローゼットが備え付けられているので、バストイレのないホテルの部屋のようだった。
 部屋の前で扉をノックしながら名前を呼んだが、やはり返事はない。
 真純は扉を開けて、部屋の中に入った。カーテンの引かれた薄暗い部屋の中、案の定シンヤはベッドの上で眠っている。
 人が入ってきた事にも気付かずに寝ているようでは、この子犬は番犬にはならないと呆れる。
 真純はツカツカとベッドの側まで歩み寄り両ひざを付いて座ると、シンヤの耳元に顔を近付け大声で叫んだ。
「起きろ!」
 さすがにシンヤもビクリと身体を震わせ、一気に目を見開く。しかしすぐに、不愉快そうに顔をしかめながら「うーん」と唸って目を閉じた。
 真純はもう一度わめく。
「寝るな、起きろ!」
 するとシンヤは、長い腕を伸ばして、真純の背中に回し、自分の方に引き寄せた。
「わっ……!」
 バランスを崩した真純は、慌ててベッドに両手をつく。危うくシンヤの上に倒れ込むところだった。
 目の前のシンヤが、目を閉じたまま、不機嫌そうにつぶやく。
「やだ。まだ眠い」
 そしてシンヤは、更に真純を引き寄せようとする。カッとなった真純は、シンヤの額に頭突きを食らわせた。
「ねぼけるな!」
 シンヤは真純から手を離し、額を押さえて反対向きに転がった。
「いってぇ……。懐いていいって言ったくせに……」
 言い草から察すると、ねぼけていたわけではないようだ。
 真純は立ち上がると、シンヤを冷ややかに見下ろす。
「いい子にしてたらって言ったでしょ?」
「僕、何かした?」
「今、私の邪魔してる。さっさと起きて、ごはん食べてくれないと、片付かないから私の予定が狂うの」
「はぁい」
 シンヤは返事をしながら、のろのろと身体を起こして、まだ痛そうに額を撫でた。
 真純はベッドを離れ、窓へ向かいながら、こっそり額を撫でる。自分自身もちょっと痛かった。
 カーテンを全開にして戻ってくると、シンヤはベッドの縁に座ってぼんやりしていた。動こうとしないシンヤに軽く苛ついて、真純は声を荒げる。
「ボーッとしないで、さっさと動く!」
「僕、朝苦手なんだよ。ゆうべ遅かったし」
「私も得意なわけじゃないよ。甘えんな。明日から七時半に起床確認が取れない場合は、朝食抜きだからね」
「七時半?! そんな早朝に起きた事ないし」
 全然、早朝ではない。大げさに驚くシンヤに、どういうただれた生活をしているんだと呆れる。
 今頃になって、ふと気付いたように、シンヤが尋ねた。
「あれ? そういえば朝ご飯があるの?」
「あるよ。だからさっさと食べて。片付かないから」
「真純さんが作ったの?」
「他に誰が作るの」
 途端にシンヤは嬉しそうな笑顔になった。
「僕のため? 感激しちゃうな−」
「別に。おまえの分はついでだから、感激しなくていい。今後も家で食べるなら食費は入れてもらうし」
「食べる食べる。いつも外食かコンビニだから、ちゃんとしたものが食べられるの嬉しい」
 自炊した方が絶対安上がりなのに、ひとり暮らしの男とはそういうものかと納得する。
 十分以内に来なければ片付けると最後通告をして、真純は階下へ引き上げた。
 朝食を終えて片付けを済ませると、真純はシンヤに掃除道具の場所を教え、急いで家を出た。
 家を出た真純は、辺奈商事へ向かう。入力済みの書類と、これから入力する書類を交換するためだ。
 それに、一人で住むのが寂しいなら友達と一緒に住んでも、動物を飼ってもいいと言われていたが、一応大家である瑞希にシンヤとの同居を報告する必要があるだろう。
 辺奈商事本社ビルの二階にあるカフェに入ると、すでに瑞希が待っていた。真純の姿を認めると、軽く手を振る。
 真純はコーヒーを注文し、それを持って瑞希の元へ向かった。
「ごめん。子犬にエサをやってたら遅くなっちゃった」
 真純が言い訳をしながら向かいの椅子に座ると、瑞希が興味深そうに尋ねた。
「あら、犬を飼い始めたの?」
「うん。ゆうべ拾ったの。といっても人間の男なんだけど」
「男?!」
 驚いて大声を上げる瑞希を、真純は慌てて制する。
「声でかいよ」
「だって、あんたと男って結びつかないんだもん」
「だから、そういうんじゃないって」
 真純はシンヤとの経緯を、瑞希に話した。話を聞き終わった瑞希は、眉をひそめて真純に言う。
「大丈夫なの? そんな名前も教えてくれないような奴」
「今のところ問題ないよ。朝、なかなか起きない事以外は。それで今日遅れたの」
 頬を膨らませる真純に、瑞希はクスリと笑う。
「あんた朝寝坊な奴、嫌いだもんね」
「だって、甘えてるだけじゃん。上が百を切ってる低血圧の私が起きられるのに」
「あんたの低血圧が変わってるのよ」
 変わってるわけじゃない。かなり努力して起きているのだ。
「ねぇ、シンヤと同居してもいい?」
「まぁ、あんたがいいなら、かまわないわよ。貴重品と、うちの書類やデータの管理はしっかりしてね」
 ため息と共に承諾した後、瑞希は懐かしそうに目を細めた。
「それにしても、シンヤくんか……。懐かしい名前だわね」
「何? 瑞希の昔の男?」
 真純が尋ねると、瑞希はイタズラっぽく笑った。
「違うわよ。ハルコの初恋の彼」
「はぁ? ハルコってコンピュータの?」
 真純は訝しげに眉を寄せる。瑞希はお構いなしにクスクス笑った。
「本名かどうかは不明なんだけど、三年くらい前だったかな? チャットで知り合ったのよ」
 そして瑞希は、ハルコの初恋について話してくれた。
「あの時高校生だって言ってたから、それが嘘じゃなかったら、あんたのとこの子犬ちゃんと同じくらいに成長してるわね」
「でもシンヤは私がつけた名前だよ?」
「別に同一人物だとは思わないけど、ちょっと思い出したのよ」
 そう言って少し微笑むと、瑞希は席を立った。
「そろそろ仕事に戻らなきゃ。最近ハルコの機嫌が悪いから余計な仕事が増えてるのよ」
 瑞希特有の擬人化表現だろうが、恋をしたり不機嫌になったり、おもしろいコンピュータだ。
 苦笑する真純に手を振って、瑞希はカフェを出て行った。
 瑞希と別れた真純は、書類を持って家に帰る。
 リビングを覗くとシンヤの姿はなかった。掃除道具は片付けられている。声をかけて部屋を覗いたが、そこにもシンヤはいなかった。
 合い鍵は渡してある。鍵がかけられていたという事は、どこかに出かけたのかもしれない。
 さして疑問にも思わず、真純は書類を持って仕事部屋に入った。




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