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2. 路上に放置された荷物の側で、真純(ますみ)は青年の帰りを待った。 大きめのショルダーバッグと、パソコンが入っているらしいブリーフケース。荷物は出張中のビジネスマンのようだ。しかし彼の服装は、そうは見えない。 ジーンズにスニーカー、Tシャツの上に半袖シャツを羽織っている。ビジネスマンだとすると、休日出勤中といったところだろうか。だが、今日は休日ではない。 見た目は二十代前半。しかし学生には見えない。 今夜寝るところがない、というのも気になる。でも犯罪者のような危険な香りもしない。 彼がどういう奴なのか興味が湧いて、家に泊める事を了承してしまった。 彼は焦っていたが、お世辞にも女らしいとは思えない自分が相手では、そういう危険も皆無と言っていいだろうと、真純は確信していた。 少しして彼がコンビニから帰ってきた。 釣り銭とレジ袋を渡され、真純は早速袋の中を覗く。中に入っていたビールを見て、思わず声が弾んだ。 「あ、私の好きな銘柄、よくわかったね」 「え? 自分で指定したじゃん」 「違うよ。ビールの方」 「あぁ。それ、僕も好きだから」 「ふーん。おまえとは気が合いそうだね。帰ったら一緒に飲もうよ」 「うん。ありがとう」 彼は戸惑うような表情で、少しだけ笑って見せた。 「じゃ、行こうか」 声をかけて促すと、彼は荷物を持って、半歩後ろからついてくる。 少し探りを入れてみる事にした。 「おまえ、ホームレス?」 「いや、違うけど」 「だよね。あの人たち特有の無気力感とか気怠さとかないし。どっちかっていうと、置き去りにされて途方に暮れてる子犬って感じ?」 振り返って見つめると、彼は苦笑しながら曖昧に答える。 「まぁ、そんなとこかな。といっても捨てられたわけじゃないけど」 年を訊いたら二十歳だという。自分よりもかなり年下だとは思っていたが、八つも下だった。学生ではないらしい。フリーのプログラマだと言うが、詳しくは語らない。 真純は在宅で、辺奈商事のデータ入力を行っている。 真純もそうだが、コンピュータシステムに関わる仕事をしていると、その企業の内部情報や顧客の個人情報を目にする事が多い。 そのため仕事上知り得た情報を外部に漏らさないように、守秘義務が課せられるのだ。彼が多くを語らないのはそのためだろう。 だが、なぜ今夜寝るところがないのかは、依然として謎のままだ。 しばらく話しながら歩いていると、彼がためらいがちに声をかけてきた。 「ねぇ。マスミさん」 「何?」 「あの……いくら年上とはいえ、女の子におまえ呼ばわりされるのは、ちょっと抵抗あるんだけど」 「あぁ、そっか。名前聞いてなかった。なんて呼べばいいの? 私は 彼は少し逡巡した後、ニッコリ笑って答えた。 「好きな名前で呼んでいいよ」 「はぁ?」 面食らって立ち止まった真純に、彼は尚も言う。 「拾った子犬に名前をつけてよ」 名乗れない理由でもあるのだろうか。頭の中で指名手配になっていそうな事件を思い浮かべてみるが、彼と一致しそうなものを思い付かない。 分からないので訊いてみる。 「なんで名乗らないの?」 「自分の名前、あまり好きじゃないんだ。だからつけて」 今ひとつ納得しないが、真純は渋々引き下がる。 「何でもいいの?」 「ポチとかマイケルとかは勘弁。日本人男子っぽいのにしてね」 拾った子犬だからポチにしてやろうと思ったのに、見透かされてしまったようだ。 イケメン俳優の名前にして、いちいちフルネームで呼んでやろうかとも思ったが、それは自分自身も気恥ずかしいので、適当につけてやる事にした。 「じゃあ、シンヤ」 「え?」 彼は一瞬目を見開いた。驚いたような困ったような複雑な表情で、真純に尋ねる。 「なんでシンヤ? 真純さんの元カレの名前とか?」 「そっちこそ、なんで元カレ限定?」 「だって、今カレがいたら、僕を泊めるわけないでしょ」 「元カレでも今カレでもないよ。真夜中に拾ったからシンヤ(深夜)」 真純の説明を聞いて、彼は安心したように声を上げて笑った。 「あぁ、そういう事。いいね、それ。シンヤでいいよ」 「元カレでなければいいの?」 「うん。僕、真純さんが気に入っちゃったから、元カレの名前で呼ばれるとしたら、ちょっと複雑だし」 思いも寄らないシンヤの言葉に、真純は思いきり動揺する。 「はぁ? 私の何が気に入ったの?」 シンヤはとびきりの笑顔でキッパリ答えた。 「僕を拾ってくれた、いい人だから」 単純なんだか謎めいているんだか、よく分からない奴だ。真純はあからさまに大きなため息をつく。 「ホント、捨てられた子犬みたいだね。拾った人に懐くなんて」 「懐いてもいいの?」 シンヤは嬉しそうに笑いながら、身を屈めて真純の顔を覗き込む。間近に迫った笑顔に、ちょっとドキリとして真純はクルリと背を向けた。 背の低い真純は、人の顔が至近距離にある事など、滅多にないのだ。それで少し驚いた。 「いい子にしてるならね」 そう言って真純は再び歩き始めた。後に続きながらシンヤは楽しそうに言う。 「吠えないし、咬まないし、御主人様には絶対服従。躾の行き届いたいい子だよ」 「本当に絶対服従?」 からかうような調子で言いながら、真純は振り返る。目が合うとシンヤは視線を外して、目を泳がせた。 「えーと、大筋では」 困惑したように言い淀む様がおかしくて、真純はクスクス笑った。 「心配しなくても無茶な命令はしないよ。私は”いい人”なんだし」 「そうだね」 シンヤは苦笑を返した。 家にたどり着くと、庭付き一戸建ての大きな二階屋を見上げて、シンヤは呆然とつぶやいた。 「ここに一人で住んでるの? 真純さんって社長令嬢かなんか?」 「それは私の友達。ここはその子の家なの」 真純の友人、辺奈瑞希は、辺奈商事の会長の娘だ。元々この家に住んでいたが、仕事が忙しくなり、会社からは少し距離のあるこの家に帰るのが億劫になったらしい。 そして、ついには会社の近くにマンションを買って、住むようになったのだ。人が住まないと家が傷むからという理由で、真純が管理がてら格安で住まわせてもらっている。 門を開け玄関を入ると、シンヤを中に促す。靴を脱いで廊下を抜け、リビングにやってきたシンヤは、部屋を眺めながら改めて感嘆の声を漏らした。 「広っ……」 「まぁ、一人で住むには無駄に広いから、掃除が大変なんだけどね」 いっそ何もない方が掃除は楽なのだろうが、家具類は元々瑞希が使っていたものが、そのまま置いてある。 リビングにも立派なソファの四点セットが置かれていたり、壁には何十型なんだか真純には判別できない、巨大な液晶テレビが埋め込まれたりしていた。 真純はレジ袋をローテーブルに置いてソファに腰を下ろし、入口で立ち尽くしているシンヤを手招いた。 「こっち来て座れば? 一緒に飲もうよ」 「あ、うん」 シンヤは入口の壁際に荷物を置いてやって来ると、隣に座った。 真純の渡した缶ビールを受け取りながら、シンヤがおずおずと提案する。 「僕、掃除係になろうか?」 缶を開けようとした手を止めて、真純はシンヤを真っ直ぐ見つめた。 「それって、今夜一晩じゃなくて、もうしばらくここにいるって事?」 「うん。そうさせてくれると、ありがたいんだけど」 シンヤは頭をかきながら、遠慮がちに笑う。真純も笑顔を返す。 「いいよ。掃除してもらうと私も助かるし」 「本当? ありがとう」 シンヤは満面の笑顔を見せた。 なぜ承諾したのが、自分でも分からない。名前も教えてくれない、本人曰く、素性も分からない男なのに。 もう少しだけ、この謎めいた子犬がどういう奴なのか、知りたいという好奇心なのかもしれない。 何より、この子犬の笑顔には、抗いがたい魔力があった。 「じゃ、同居を祝して乾杯!」 真純は笑顔で、シンヤと缶ビールの縁を合わせた。 |
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