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9.



 気が重い。どうやって切り出そう。辺奈商事を出て家路を辿りながら、真純は何度もため息をついた。
 辺奈商事の応接室で、涙が止まらなくなった真純を、瑞希は落ち着くまで黙って待ってくれた。やがて真純が落ち着きを取り戻すと、真純が言いにくいなら自分がついて行って、代わりにシンヤに話そうかと申し出てくれた。
 しかし面識のない瑞希が突然やって来て、ハッカー呼ばわりしたら、シンヤが動揺して逃げ出してしまうかも知れない。
 そうなったら真純としては困るのだ。シンヤには色々と、問い質したい事がある。
 瑞希の申し出を断って、自分で話すと言ったものの、やはり気が重い。
 おそらく瑞希の言った通り、シンヤはハッカーなのだろう。本人が否認しても、出て行ってもらうように瑞希には言われている。
 シンヤが出て行ったら、もう二度と会えない。会ってはいけない。
 たとえ辺奈商事の情報を漏らしたりしなくても、ハッカーと接触している者に、会社は仕事を任せたりしないだろう。最悪、真純はクビになるかもしれない。
 シンヤと一緒にいられるのは、あとほんの少しだけ。
 自分が会社を辞めればシンヤとは別れなくてもいいのかもしれないが、それは心配してくれた瑞希を裏切る行為だ。
 学生時代からの親友を裏切って、男に走るほどの情熱は真純にはなかった。こんなところは、つくづく自分は冷めた大人なんだな、と思う。
 シンヤと同年代の若さがあれば、勢いに任せてシンヤを選んだかもしれないのに。
 けれどシンヤに騙されていたと分かった今でも、彼を憎みきれずにいる。
 あの子犬のように人懐こい笑顔も、隙あらばまとわりついてくる温かい腕も、もうすぐ失われてしまう。それを思うと、胸が痛んだ。
 できるだけゆっくり歩いたつもりなのに、気が付けば家にたどり着いていた。
 ゆっくりと玄関の扉を開ける。すると、昨日と同じように、シンヤが笑顔で駆け寄ってきた。
「真純さん、おかえりーっ!」
「待て!」
「え?」
 真純が険しい表情で命令すると、シンヤは不思議そうな顔をしながら、廊下の途中で立ち止まった。
 今抱きしめられたら、決意が揺らいでしまいそうな気がする。
 真純はシンヤを見据えたまま、廊下の奥を指差した。
「リビングに戻って」
「うん……」
 シンヤは戸惑いがちに返事をして、廊下を引き返した。
 リビングに入ると、シンヤはソファの側に立ったまま、真純を待っていた。真純はソファへと促す。
「座って」
 黙って腰を下ろすシンヤを見ながら、真純も斜め前の席についた。
 何から話そう。また、はぐらかされたり騙されたりしないように、上手く話さなければ。
 そんな事を考えながら黙って俯いていると、シンヤの方が口を開いた。
「どうしたの? 怖い顔して。会社で何かあったの?」
 真純は顔を上げて、シンヤを見つめる。
 シンヤは何も感付いていないのだろうか。真純が辺奈商事から帰って、シンヤに何を話そうとしているのか。それとも心配するフリをして、探りを入れている?
 勘繰っていても仕方ない。元々、小細工や駆け引きは苦手だ。
 真純は意を決して、正面からぶつかる事にした。
「訊きたい事があるの。ごまかしたり、はぐらかしたりしないで、正直に答えて」
「うん……」
 シンヤはまだ何の事か分からないと言った表情で、不安げに見つめている。
 真純は単刀直入に尋ねた。
「シンヤって、ハッカーなの?」
「え?」
 さすがにシンヤの顔が強ばった。これだけでは、またはぐらかされるような気がする。真純はシンヤの返事を待たず、話を続けた。
「三日前とその翌日、辺奈商事のコンピュータ、ハルコが不正アクセスをキャッチしてる。三日前はともかく、その翌日のは、ここにある私のパソコンから、私の留守中にアクセスがあったらしい。それって、シンヤだよね?」
「バレちゃったんだね……」
 シンヤは目を伏せて、無表情のままつぶやいた。
 否定しない。やっぱり瑞希の言った通りだったようだ。
「ここからアクセスしたのは、私に罪を着せるため?」
「違うよ!」
 シンヤは弾かれたように顔を上げて、即座に否定する。
 訊きたい事は他にもある。真純は感情を押し殺して、努めて冷静に問いかけた。
「じゃあ、どうして?」
「……目的のサーバは前の日に侵入した事が知られてる。だから外部からの侵入は警戒してるはずだ。でもハルコが合法的に介入してきたって事は、ハルコ経由なら警戒されないと思って……。真純さんのIDのアクセス権限を書き換えて、後で戻しておけば、ハルコ自身にも、しばらくは感付かれないし」
「何のために同じサーバに、また侵入したの?」
「後始末。前の日に途中で追い出されたから」
 通常、侵入がばれた後に、後始末なんてするものなのだろうか、と怪訝に思う。
 けれどそれより、もっと不可解な行動をシンヤは取っている。
「私が辺奈商事の在宅社員だって、最初から知ってたの?」
「ううん。それは偶然。ラッキーって思ったけど」
 これは本音だろう。
「じゃあ、用が済んだら出て行けばよかったんじゃないの? そうすれば、こんな風に問い詰められる事もなかったのに」
 シンヤは再び視線を落として項垂れた。
「それは……真純さんが心配だったから……」
 まただ。
「何が心配なの? 今度はちゃんと話して」
 シンヤは項垂れたまま黙り込む。そして観念したように、か細い声で答えた。
「僕がここにいる事を、侵入したサーバの会社に知られたんだ。正確には、そこの社員で僕の裏稼業を知ってる奴」
 たまたまシンヤと同じビジネスホテルにいたそいつは、突然会社との通信が途絶え、会社に問い合わせたところ、同じホテルに”シンヤ”がいる事を知ったらしい。
 折しも慌ただしくホテルを飛び出すシンヤを見かけ、怪しいと踏んで後をつけたのだ。そいつは真純をシンヤの恋人だと勘違いしたようだ。
 翌日、商談のため訪れた辺奈商事で、瑞希と話している真純を見たそいつは、野心にとらわれたらしい。
 シンヤが”シンヤ”であるという確たる証拠はない。会社に知らせたとして、自分にも会社にも、何のメリットもない。もしもシンヤが逮捕されたとしても、せいぜい警察からの感謝状止まりだ。それより弱みを握っているシンヤを利用しようと考えた。
 そいつの会社は辺奈商事の取引先で協力会社であると同時に、同業種ではライバル会社でもある。
 辺奈商事の経営に関する情報が手に入れば、会社は優位に立てる。その情報を自分が提供できたら、出世や昇給が見込めると考えたのだろう。
 そいつは、つい最近シンヤのネット販売を利用した事があった。ダメ元で、その時知ったアドレスに、メールを送ってきたらしい。
 破棄しようと思っていたアドレスに、突然やって来たメールにシンヤは驚いた。そこにはシンヤの居場所である真純の住所や、真純の勤務先、瑞希と知り合いである事などが書かれている。
 ただのハッタリではない事が分かり、シンヤは呼び出しに応じた。
 要求は辺奈商事の情報。
 本当はハルコ経由でハッキングを完了した後だったが、昨日の今日でハルコには侵入が難しいと断った。するとそいつは、真純を利用すれば可能ではないかと提案した。
「でも、イヤだったんだ。僕なんかを信用して拾ってくれた真純さんを利用するのは。それで交渉は決裂。そしたらあいつ笑いながら言うんだ。真純さんに直接交渉するって。多少は強引な手を使うかもって」
 シンヤは頭を抱えて、更に項垂れた。
 今のところ何の被害もないが、そいつの言う事が、ただの脅しかどうかは分からない。
 シンヤが何を心配しているのかは分かった。どうして出て行かないのかも。
 けれど、ただ拾ってもらったという恩で、そこまで義理立てする理由が分からない。
「侵入の後始末が済んだんだから、私がどうなろうと放っといて逃げればいいじゃん」
「できないよ、そんな事!」
「なんで? たとえそいつが強引な直接交渉に来たって、私には辺奈商事の極秘データにアクセスできる権限はないし、おまえのように権限無視して引っ張り出す事も出来ないんだし。おまえに連絡のつけようがなければ、私には人質の価値もないでしょ?」
 シンヤは真顔で、真っ直ぐに真純を見つめた。そして声のトーンを少し低くして問いかける。
「本気でそんな風に思ってる?」
 あまりに真剣な眼差しにドキリとして、真純は少したじろいだ。
「どういう意味?」
 真純の言葉に、シンヤは眉をひそめて、苛々したように言う。
「本当に分かってないの? あいつにさえ、あっさり見破られたのに。それとも、はぐらかしてる? 僕、何度も言ったよね。真純さんが好きなんだよ」
「……信用できない」
 真純は目を逸らして俯いた。
 確かに何度か、好きだと言われた。今聞いた話も辻褄は合っている。けれどシンヤのやってきた事は犯罪だ。
 冷蔵庫を開けるのは断るくせに、パソコンは黙って犯罪に利用する。何が本当で何がウソなのか判別できない。
 本当は嬉しいはずの真面目な告白を、真純は素直に喜べないでいた。
 考え込んでいると、目の前で声がした。
「信用しなくていいよ。分かってくれるだけで」
 顔を上げると、目の前の床にひざ立ちで、シンヤが微笑みながら見つめていた。
 立っていると遙か上に見上げるシンヤの顔が、今は目の前にある。この人懐こい笑顔に騙されたのだ。けれど、この笑顔が好きだった。
 多分もう見納めだから、しっかり見ておこう。
 真純はシンヤをじっと見つめ返す。見つめるシンヤの顔が、次第に近付いて来た。
 身体を倒し、真純が座るソファの背もたれに両手をつく。真純はその両腕の間に閉じ込められた。
 息がかかるほどの距離に、迫ったシンヤが囁く。
「分かってくれるまで、何度でも言う。好きだよ、真純さん」
 シンヤは更に、距離を詰めてくる。
 顔をしっかり見ておきたいのに、あまりに近すぎて焦点が合わず、真純は目を閉じた。
 シンヤの唇が、真純の唇に重なる。
 こうなる事は分かっていて、目を閉じた。拒む気もなかった。
 シンヤに触れるのはこれが最後だから、忘れられない思い出が欲しかった。
 シンヤの優しく慈しむようなキスに、涙が溢れそうになる。
 少しして、シンヤの唇が離れた。
 真純は目を開き、けれど目を合わせないように俯いて、シンヤを両手で突き放した。
「出て行って」




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