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11.



 どうしてこんな事になっているんだろう。
 真純は自分の置かれている状況が、今ひとつ飲み込めずにいた。
 ここは雑居ビルの一室で、どこかの会社が倉庫代わりに使っているようだ。
 元々は会議室だったのかもしれない。壁際にはホワイトボードがあり、その前には丸い会議机が置かれている。
 だが部屋の中は雑然としていて、折りたたみ式の長机やスチール製の棚の上には、段ボール箱が無造作に積み上げられ、床には綿埃の塊が、あちこちに転がっていた。
 真純は薄暗い部屋のほぼ中央で、パイプ椅子に座らされていた。口はガムテープで塞がれ、両手は椅子を抱えるように後ろ手で縛られている。足も縛られているので、逃げ出す事も思うように声を発する事も出来なかった。
 目隠しをされて車で連れてこられたので、ここがどこだか分からない。
 あまり安心できる状況ではなさそうだが、とりあえず今すぐ命の危険があるわけでもなさそうだ。
 シンヤに出て行くように言い渡して家を出た後、行く当てもなく近所を歩いていると、後ろからやって来た車が、目の前の路肩に止まった。
 そして、中から下りてきた男が、真純に声をかけた。
 スーツにネクタイのどこにでもいる会社員風の男は、シンヤより大分背が低く細身で、とがった鼻と狡猾そうな細い目が、爬虫類を思わせる。
 男は真純に、一緒に住んでいるのは”シンヤ”だろうと問いかけた。最初は辺奈商事の社員かと思った。だが、すぐに違うと分かった。
 男はいきなり真純の腕を掴み、刃の出たカッターナイフを突きつけてきたからだ。
 今思えば、サバイバルナイフとかではなく、カッターナイフというところが、いかにも会社員っぽい。
 この男はおそらく、シンヤが言っていた辺奈商事のライバル会社の社員だろう。
 真純に強引な直接交渉をするという話だったが、端から交渉する意思はないように思われる。
 真純はカッターナイフの刃を見つめて息を飲んだ。ヘタに切れ味を知っているので、リアルな痛みの記憶が、身をすくませる。言いなりになるしかなかった。
 言われるままに助手席に乗り込みシートベルトを締めると、男は真純にアイマスクをつけ、帽子を目深にかぶらせた。
 視界が奪われ、相手が何をしているのか分からなくなる。うかつな行動も取れず、真純は何も出来ないまま車で連れ去られた。
 しばらく車で走った後、目隠しをしたまま手を引かれて、わけのわからないうちに、今のような状態にされてしまった。
 男は真純を縛り上げた後、ポケットから携帯電話を取り上げた。そして帽子とアイマスクを外す。眩しくて目を閉じたところを、いきなり写真に撮られた。
「お、いいね。この表情」
 撮った写真を見て、男が楽しそうに言う。絶対に、いい表情なわけがない。
 男は少しの間、真純の携帯電話を操作して、机の上に置いた。
 真純の電話には、シンヤの番号とメールアドレスが登録してある。おそらくシンヤに、メールで写真を送ったのだろう。
「今呼んだから、カレシが来るまで、もうしばらく我慢してね」
 口調は柔らかいが、目は笑っていない。しばらくとは、どれくらいなんだろう。
 背の低い真純は、椅子に深く腰掛けると、床に足が届かない。座っていても結構辛いのだ。
 そんな事より、シンヤが来るかどうか分からない事の方が問題だ。
 出て行ってくれと、冷たく突き放したのだ。怒って出て行ったなら、真純からのメールなど、無視されるかもしれない。
 シンヤが来なかったら、自分はいったい、どうなってしまうのだろう。それを考えると、背筋が寒くなった。
 真純の心中をよそに、男はすっかりリラックスした様子で、会議机に浅く腰掛けて、自分の携帯電話をいじったり、時々窓辺に寄って外を眺めたりした。
 突然男の携帯電話が鳴った。
 もしかして、シンヤ? そう思って男を見つめる。だが、どうやら違ったらしい。
 男は愛想のいい声で、応対に出た。相手は会社の取引先のようだ。
 この男は営業マンなのだろう。営業マンなら、平日の昼間に長い間出歩いても、会社から不審に思われる事はない。
 営業電話を切った後、男は再びヒマそうに、携帯電話をいじり始めた。
 どれだけ時間が経ったのだろう。外は日が傾き始め、部屋の中は益々薄暗くなって来た。
 固いパイプ椅子に座ったままで、身体中あちこち痛くもなってきた。
 呑気そうにしていた男も次第に苛々した様子で、窓の外を眺める頻度も増してきた。
 窓の外を眺めていた男が舌打ちをして、吐き捨てるように言う。
「おっせーな」
 そして真純の方に近付いて来た。目の前に立った男は、真純を見下ろしながら嘲笑う。
「あんた、見捨てられたのかもな。あいつ、元々犯罪者だし」
 こんな事をしているおまえも、充分犯罪者だ、と口が塞がれていなければ言ってやりたいところだ。
「もっと過激な写真を送ってやればよかったかな」
 そう言って男は、真純に手を伸ばしてきた。
「うーっ!」とうなって、真純は咄嗟に足を振り上げた。その反動で、椅子が後ろに傾く。
「あ、バカッ……!」
 男が捕まえようとした時にはすでに遅く、真純は椅子ごと後ろに倒れ、思い切り後頭部を床にぶつけた。椅子と床に挟まれて、腕も痛い。
「あーあ」
 呆れたような声を発して男がしゃがみ込み、椅子を引き起こそうとした。ちょうどその時、入口の扉が、派手な音を立てて開いた。
 男と同時にそちらへ視線を向けると、入口に息を切らしたシンヤが立っていた。
 男は椅子から手を離し、立ち上がる。そこへシンヤが、いきなり男に掴みかかって、真純から引き離した。
 どうせなら椅子を起こしてから、立ち上がって欲しかったと思いつつ、真純は椅子ごと横に転がる。視線の先でシンヤが、男のスーツの襟を両手で掴んで怒鳴った。
「彼女に何をした?!」
 これほど激昂したシンヤは初めて見た。男の方もその迫力に気圧されて、オタオタと言い訳をする。
「落ち付けって、まだ何もしてねーよ」
”まだ”って、何かするつもりだったのだろうか。
 シンヤは男を睨みつけた後、突き飛ばすようにして手を離した。そして男を目で牽制しつつ、真純の元にやってくる。
 側まで来たシンヤは、真純の背後に回って、腕を縛った縄をほどき始めた。男は先ほどのシンヤの剣幕に恐れをなしたのか、少し離れた場所から様子を見ながら声をかけてきた。
「辺奈商事の情報は持ってきたのか?」
 シンヤは手を止めることなく、苛々したように言う。
「それは断っただろう。何度も言わせんな」
 腕の縄がほどけて、真純は身体を起こし、口に貼られたガムテープをはがしにかかった。シンヤは続いて、足の縄をほどき始める。
 完全に蚊帳の外に置かれた男は、声を荒げた。
「おい! その女がどうなってもいいのか?!」
 足の縄をほどき終わったシンヤは、立ち上がった。真純も立ち上がると、シンヤは片手で真純を自分の後ろへ下がらせた。
 そして、呆れたように嘆息して言う。
「あんた、バカだろう。人質ってのは自分の手元にあってこそ意味があるんじゃねーの? そんな離れたとこにいて何言ってんだよ。まぁ、元々頭悪い奴だとは思ってたけど」
「何?!」
 シンヤの言葉に、男は頬を紅潮させる。
 ハラハラしながら見守っていると、シンヤは落ち着いた様子で言葉を続けた。
「この間のメール、会社のアドレスで送ってきただろ」
 確かにあまり賢いとは言えない。
 容易に変更できない会社のメールアドレスを、誰だか分からない相手に明かすなど、コンピュータに詳しくない真純でも絶対にしない。
 おまけに相手は、ハッカーだと分かっているのに。
 男は多少うろたえながらも言い返した。
「それがどうした。オレの会社はメールの内容から誰にでも分かる事だ」
 シンヤの声が少し低くなる。
「あんた、オレをナメてないか? それだけ分かってりゃ充分なんだよ。あんたの事、丸裸にして世界中にバラまいてやってもいいんだぜ」
 男が息を飲んで絶句した。
 これがシンヤの裏の顔だ。いつもの人懐こい子犬の表情からは想像も出来ず、真純も少し息を飲む。
 シンヤはおもしろそうに笑いながら言う。
「まぁ、あんたの個人情報なんて、全世界の大多数の人には、どうだっていい情報だろうけど。代わりにあんたの会社のサーバに仕込んだウィルス、起こしといたから。あんたが彼女に手出ししなけりゃ、ずっと眠らせとくつもりだったんだけどね。ついでにウィルスが起動したら、感染元はあんただっていうメールが社長に届くようにしておいたよ」
「なんだって?!」
 男は頭を抱えて、おもしろいほどにうろたえた。
 シンヤはポケットから小さな紙切れを取り出し、指に挟んで男に見せつける。
「チャンスをやるよ。サーバの内蔵タイマが今日の十八時になった時、ウィルスは起動する。十七時三十分に五秒間だけ、停止パスワードを受け付けるウィンドゥが表示されるんだ。今後オレたちに手出ししないって誓うなら、パスワードあげるけど?」
 男は歯噛みしながら、ヒラヒラと挑発的に振られる、シンヤの指先を見つめる。
「急いだ方がいいんじゃない? もう十七時過ぎてると思うけどな」
 その言葉に弾かれたように、男はツカツカとシンヤに歩み寄り、素早く紙切れを奪い取った。
「よこせ! 誰がおまえなんかに二度と関わるもんか!」
 捨て台詞を残して、男はバタバタと部屋を飛び出して行った。




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