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12.



 シンヤは入口の外へ顔を出して、男を見送りながら呑気につぶやく。
「いいのかな。この部屋、開けっ放しで行ったけど……」
 振り向いて部屋に戻ってきたシンヤは、先ほどまでの裏の顔は微塵も感じさせないほど、いつもと変わりない表情だった。やっぱり二面性のある奴だ。
 シンヤは真純の側まで来ると、少し身を屈めて、心配そうに顔を覗き込む。
「真純さん、大丈夫? ケガとかしてない?」
「大丈夫。縛られてただけだから」
 真純は視線を逸らし、自分の手首を撫でた。その手を取り、シンヤが握った手の親指の腹で、手首に残る跡を撫でる。
「跡がついてる。痛かったでしょ?」
「平気。大したことないから」
 自分の手を奪い返し、真純は俯いた。
 先ほどの男との会話を思い出すと、シンヤはハッカーを止めるつもりがないように思える。
 それほど生き生きとしているように感じた。
 犯罪から足を洗い、ほとぼりが冷めたなら、また会って話をするくらいは、瑞希も許してくれるのではないかと、甘い期待を寄せていた。
 真純は俯いたまま問いかけた。
「またハッキングしたの?」
「してないよ」
 意外な答えに、真純は思わず顔を上げて、シンヤを見つめた。
「だってさっき、私に手出ししたから、ウィルスを起動させたとか言ってなかった?」
「全部ハッタリ。真純さんの写真見たら頭が真っ白になって、気付いたら家を飛び出してた。そんな余裕なかったよ」
 ずいぶん余裕があるように見えたが、演技だったとは思わなかった。
「じゃあ、あのパスワードもデタラメ?」
「あれは本物。ウィルスっていうか、イタズラプログラムを仕込んであるのは本当だから」
「イタズラって……」
「いかにもウィルスに感染しましたって感じのメッセージが、サーバに繋がれた全パソコンに表示されるだけ。起動するのは今日じゃなくて仕込んでから百日後。停止パスワードの受付ウィンドゥは毎日出るけど、五秒間だけだし、サーバのモニタをずっと見てる人なんていないだろうから、気付いてないんじゃないかな」
 それはおそらく、ハルコ経由で侵入した時の”後始末”で置いてきたのだろう。
 どうして危険を冒してまで、そんなイタズラをしたのか、理由が分からない。
 なので訊いてみた。シンヤは気まずそうに頭をかく。
「ハルコにコケにされてムカついたから、仕返ししてやろうと思って。今考えると、大人げなかったよね」
 大人げないと言うより、完全に子供じみている。
 照れくさそうに苦笑するシンヤを見て、真純は大きくため息をつく。
「さっきのおまえ、別人みたいだった。”オレ”とか言ってるし」
「普通、相手によって使い分けるでしょう。女の人はあまりしないかもしれないけど」
「だって、口調まで違ってたし。いつもは猫かぶってたの?」
「猫はかぶってないよ。僕がかぶってたのは犬」
 そう言ってシンヤはクスクス笑った。
 顔を引きつらせる真純の背中を押して、シンヤが促す。
「あいつが戻って来たらヤバイから、そろそろここを出よう」
「そうだね。あいつカッターナイフ持ってたし」
「げっ! そういうの先に言ってよ」
「私も余裕なかったの」
 真純は無意識のうちに、シンヤの腰に腕を回して、横からしがみついた。
「シンヤが来てくれて嬉しかった。ありがとう」
 シンヤは片手で真純の肩を抱き、静かに言う。
「礼なんていいよ。僕のせいだし。怖い思いさせてごめん」
 少ししてシンヤが、クスリと笑った。真純が不思議そうに見上げると、シンヤは笑いながら言う。
「いや、正面じゃなくて横ってのが、真純さんらしいなって」
 途端に自分からしがみついたのが恥ずかしくなり、真純は慌ててシンヤから離れた。
「さっさと帰ろう」
 シンヤの背中を叩いて、そそくさと出口へ向かう。背後でシンヤが笑いながら、からかった。
「真っ赤になってる。かーわいー」
「うるさい! グズグズしてると置いてくよ!」
「はいはい」
 シンヤを置いて先に廊下に出たものの、どっちへ行ったらいいか分からず、結局からかうシンヤに道案内をしてもらいながら家路についた。



 家に帰り着くと、すっかり夜になっていた。あの雑居ビルは真純の家の最寄り駅から、電車で五つも先の町にあったのだ。
 家に帰ったシンヤはすぐに二階に上がり、すでにまとめてあったらしい荷物を持って下りてきた。そのまま真っ直ぐ玄関に向かうシンヤに、真純は黙ってついて行く。
 玄関に下りて靴を履いたシンヤは、振り返り真純に右手を差し出した。真純はその手を握り返す。
 シンヤはいつもの人懐こい笑顔で、口を開いた。
「ちゃんと挨拶できてよかった。あのままじゃ後味悪かったし。短い間だったけど、真純さんに出会えて一緒に過ごせて楽しかった。色々ウソついて迷惑かけちゃったけど、これだけは絶対本当。僕、真純さんが好きだよ。きっと忘れないと思う」
 どこか吹っ切れたようなシンヤの表情に、胸が痛くなる。自分はまだ吹っ切れていない。
 もうすぐ終わりなのだと思うと、想いは益々募る。後悔しないように、ちゃんと伝えなければ。
 真純はシンヤを見上げて微笑んだ。
「私も、おまえを忘れないよ。苛つく事も多かったけど、私もおまえに出会えてよかった。一緒に過ごせて楽しかった。そして、これもおまえと一緒。私もシンヤが好きだよ」
 シンヤから笑顔が消え、真純を見つめる目が、みるみる見開かれる。
「え……マジ?!」
 突然シンヤは身を屈めて、真純を覗き込みながら、目の前で叫んだ。
 あまりの驚きように、真純は少したじろいで顔を退く。
「何? そんなに驚く事? 僕の事好きだよねって決めつけてたじゃん」
「あれは、そう言ったら乗ってくるかと思って……」
 シンヤは身体を起こし、口元を手で覆いながらつぶやいた。
「どうしよう……オレ、すっげー嬉しい……」
 そしてシンヤは再び身を屈めると、目の前でイタズラっぽく笑って尋ねる。
「ね、もう一回キスしていい?」
「う……」
 一瞬ためらった後、真純は小さく頷いた。
「……最後だから……許す」
 途端にシンヤは、大げさにのけぞって言う。
「えぇ? 最後まで許しちゃうの? まいったなぁ。オレ今、持ち合わせがないし……」
 何の持ち合わせかは、あえて追及しない事にする。
「ちょっとコンビニに行って……」
 まだ続けるシンヤにイラッと来て、真純は声を荒げた。
「行かなくていいから! 勝手に都合よく話をねじ曲げないで」
「冗談だってば。そんなに怒るなよ」
 シンヤは笑いながら真純の頬を両手で包み、上から顔を覗き込む。真純は眉を寄せて睨みつけた。
「信じらんない。こんな時に冗談なんて」
「こんな時だからだよ。どうせなら笑って別れたいだろ? でも、オレの事怒ってる方が、真純らしいね」
 呼び捨てにされて、ふと気付いた。シンヤの口調が変わっている。
「おまえ、また別人になってる?」
「うん。ってか、こっちが素。あんまり嬉しくて、かぶってた犬が逃げ出したみたい」
「何それ」
「いいから、黙って目を閉じて」
 囁くようにそう言って、シンヤは顔を近付けてきた。真純は言われた通りに、黙って目を閉じる。そして、唇が重なった。
 最初は優しく静かに。それが次第に激しく情熱的に変わっていく。
 さっきよりも長いキスに、真純の鼓動は早くなり、全身が熱を帯びていった。
 少し息苦しくなってきた時、シンヤが唐突に唇を離した。
「これ以上は、マジヤバイ。冗談で済まなくなりそうだから」
 そしてシンヤは、真純をきつく抱きしめた。
「ホント、真純が大好き。もう絶対忘れられない」
 真純もシンヤの腰に腕を回して、抱きしめ返す。
「うん。私も絶対忘れないよ」
 一際強く抱きしめて、シンヤは真純から身体を離した。
 ポケットからキーホルダーを取り出し、鍵を外して真純に渡す。そして足元の荷物を持って、シンヤは軽く告げた。
「じゃあ、行くから。元気でね」
「うん。シンヤも元気で」
 あまりにもあっさりと、まるでフラリと散歩にでも出かけるような調子で、シンヤは笑いながら軽く手を振って、家を出ていった。
 玄関の扉が閉まりシンヤの気配が消えても、真純はしばらくの間その場に立ち尽くした。
 手の中にある鍵に残る温もりに、シンヤの存在感と喪失感を改めて突きつけられ、真純は力が抜けたように廊下にペタリと座り込んだ。
 (せき)を切ったように、止めどなく涙が溢れてくる。
 後悔しないようにと思っていたのに、どうして引き止めなかったのだろうと、すでに後悔していた。
 瑞希を裏切りたくないから、シンヤと別れた。けれど今後シンヤを思い出すたびに、何も悪くない瑞希を恨んでしまうかもしれない。
 それが元で瑞希とギクシャクしてしまったら、どちらかをはっきりと選ばなかった事で、どちらも失ってしまうのだろう。
 真純は廊下に座り込んだまま、子供のように声を上げて泣き続けた。




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