目次へ 次へ

第二部 それでも、猫が好き!

1.



 きっかけは本当に些細な事だった。
 真純の心があんなにも傷ついていたなど、進弥は全く気付いていなかった。
 なにしろ自分自身は、真純との永遠の別れなど、微塵も考えてはいなかったから――。



 通勤途中にバスの中から眺める、河川敷の桜並木が、ほんの少し色付いてきた。この並木は進弥が一緒に暮らしている、真純の家の近所まで続いている。
 帰りに少し足を伸ばして、もっとよく様子を見てみようと思った。
 進弥が再就職を果たして半年が経過した。
 会社勤めにも仕事にも慣れ、規則正しい生活――早起き――も苦にならなくなってきた。
 真純と暮らし始めても、半年経った事になる。
 想いも伝え合い、恋人同士の甘い同棲生活――のつもりだったが、何かが違う。
 家賃も食費や光熱費も支払っているので、半年前に転がり込んだ時のような居候ではないが、ルームシェアをしているただの同居人という印象は否めない。
 元々真純が住んでいた家のせいか、家内の主導権は真純が握っている。
 ということは、相変わらず、御主人様と飼い犬というところだろうか?
 抱きしめたりキスをしたりは、拒まれなくなった。だが半年経つというのに、一つ屋根の下に二人きりで住んでいるというのに、それ以上は何もないのだ。
 真純は益々ガードが堅くなったような気がする。
 改めて同居を開始した初日、真純は記憶をなくすほど泥酔した。それがよほど恥ずかしかったのか、以来彼女は決して深酒をしない。
 おまけに夜は、ちょっと目を離した隙に自室に引っ込んで、あろう事か施錠してしまうのだ。
 これでは手も足も出ない。
 なぜこんな事になっているかというと、進弥の失敗が原因だった。
 その日、翌日の休日出勤を真純に伝えるのを忘れていて、それを真夜中に思い出した。休日前なので真純も起きているのではないかと思い、部屋の扉をノックした。
 返事はなく、扉を開けると灯りは消えていて、真純はベッドの上に半分身体を起こして、不機嫌そうに睨んでいた。
 用件を伝えると、本当はよからぬ事を企んでいたのではないかと勘繰られた。
 本来の目的はそうではない。しかし全く下心がなかったわけでもない。
 期待に応えようとすると、寝入り端を邪魔された真純は、すこぶるご機嫌斜めで、激しく拒絶された。
 その日以来真純は、寝る前に部屋に鍵をかけるようになった。
 自分で蒔いた種とはいえ、カノジョに警戒されているカレシってどうよ? と思わなくもない。
 理由を尋ねると、寝付きが悪いので睡眠の邪魔をされたたくないからだという。他意はないと。
 時間の管理に厳しい真純の事だから、多分本当なのだろう。
 クールな真純は、自分から甘えてくる事は、まずない。年上である事を主張する真純にとって、年下の進弥に甘える事は恥ずかしいのだろう。
 真純が甘えたのは、後にも先にも泥酔したあの時だけだ。
 あれが真純の本音だと分かった。素直に嬉しかった。
 もう一度真純に甘えて欲しくて、時々酒を勧めてみるが、酒に強い真純は少々の事では酔いもせず、付き合っていると進弥の方が先につぶれてしまうのは明白なので諦めた。
 そういう雰囲気にもならないので、きっかけもつかめないまま、清らかな関係が続いている。
 相変わらず、子供扱いされているような気もする。
 心は捕まえたと思っていた。けれどそう思っているのは自分だけかも知れないと、進弥は時々不安になっていた。



「ンまーっ! あんた、まだフェアリー候補なの? 何やってたのよ、半年も」
 辺奈商事本社ビル二階のカフェで、瑞希が頭の天辺から声を上げた。
 いつものように書類の交換にやってきたところ「シンヤくんとは最近どう?」とニコニコ笑いながら問いかけられた。
 どうもこうも以前と変わりない、と正直に答えた反応がこれだった。
 瑞希はテーブルの上に片手で頬杖をつきながら、呆れたように横目で真純を見つめた。
「あんた、本気でフェアリーを目指してるわけじゃないでしょうね?」
「そんなつもりはないけど、別にシンヤもそんな素振りは見せないし……」
 実は二回ほど危なかった事は黙っておく。
 瑞希は意外そうに目を見開いた。
「あら、シンヤくんって草食なの?」
「……違うと思うけど」
 避妊具持参で来た奴が、草食なわけがない。
 ぼんやり考えていると、突然瑞希がテーブルをピシャリと叩いた。
 ビクリとして飲んでいたコーヒーが気道に入りそうになる。
「だったらシンヤくんがかわいそうでしょ? あんた、お肌だけはきれいなんだから、出し惜しみするんじゃないわよ」
”だけは”って何だ、”だけは”って!
 何気に失礼な瑞希の言葉に、そういえばシンヤが、ほっぺが柔らかくて気持ちいいとか言っていた事を思い出す。
 瑞希は身を乗り出すようにして、興味深そうに問いかけた。
「それらしい素振りは見せないって、シンヤくん本当に何もしないの?」
「抱きついたりはするけど、犬がじゃれついてるみたいなもんだし」
「バカね。そんな時”あんっ”って、ちょっとかわいい声出してみなさいよ。そうすりゃ乗ってくるわよ」
「え……」
 思わず顔が引きつる。絶対、自分のキャラじゃない。かえってシンヤも引きそうな気がする。
「……瑞希はそうやって男を誘うの?」
 途端に瑞希は、不愉快そうに眉をひそめた。
「仕事に忙殺されてて、ここ二、三年、男なんてご無沙汰してるわよ」
 美人で社交的な瑞希は、学生時代からカレシがいなかった事がないので、意外だった。
「社内にいくらでもいるじゃん」
 真純が指摘すると、瑞希は目を伏せて、目の前で手を振った。
「社内の男なんてダメよ。私の後ろしか見てないし。逆玉狙いで妙に媚びた奴か、恐れてビクついてるか、どっちかだもの。金も権力もある才色兼備って損よね」
 そう言って、わざとらしく大きなため息をついた。
 自分で言うか!
 心中でツッコミを入れていると、再び瑞希がテーブルを叩いた。
「とにかく! あんたも呑気に構えて、いつまでももったいぶってると、シンヤくんを横からかっ攫われるわよ」
「誰に?」
 すかさず尋ねる。
 瑞希は意味ありげに、意地悪な笑みを浮かべた。
「彼ね、社内じゃ結構人気あるのよ。バレンタインにも何人かにチョコ貰ってたし。全員年上ってのが笑えるけど」
 シンヤは会社でも犬をかぶっているのだろう。
 穏和で人懐こくて甘え上手な犬かぶりシンヤが、年上受けするのは頷ける。真純も犬かぶりシンヤには、案外ほだされて、うっかり甘やかしてしまうのだ。
 しかし辺奈商事では、数年前から義理チョコは禁止されている。禁止令が発令された時、朝礼で「チョコを渡すからには何をされてもいいという覚悟の上で渡すように」と注意した上司がいて、しばらくの間、全社で話題になった。
 という事は、シンヤは覚悟のチョコを貰った事になる。そんな話は初耳だ。
 真純の動揺を察した瑞希が、ため息と共にクスリと笑った。
「大丈夫よ。シンヤくんも義理が禁止だって事は知ってるから、全部丁重にお断りしてたわよ」
 それでチョコを持って帰ったりはしなかったわけだ。納得してホッと息をつく。
 瑞希は仕事に戻ると言って席を立った。そして冷ややかに真純を見下ろす。
「あんたね、そんな顔するくらいなら、もう少し彼の気持ちも考えてあげなさいよ」
 そう言い残して、瑞希はカフェを出て行った。真純もカフェを出て家路につく。
 瑞希の言葉が頭から離れず、なんだか胸がモヤモヤした。
 別に出し惜しみしているわけでも、もったいぶっているわけでもないが、一線を越える事にこだわる必要もないんじゃないかと思う。
 でも部屋に鍵をかけるのは、やめようかなと思った。シンヤも気にしていた。
 シンヤにも説明した通り、寝付きが悪いので途中で目が覚めたら、もう一度寝入るまでにかなりの時間がかかるのだ。そして翌日に支障が出るのは困る。本当に他意はない。
 シンヤの気持ちを考えてないわけではない。けれどそれを考えるたびに、ちょっと不安になる。
 社内でも人気者のようだが、シンヤなら、もっと若くて素直でかわいい女の子が、周りにいくらでもいるんじゃないだろうか。
 どうして自分なのだろう――と。



 夕方、夕食の支度をしていると、いつもよりハイテンションなシンヤの声が玄関に響いた。
「真純さん、ただいまーっ!」
 その勢いのままシンヤは、廊下をバタバタと走ってくる。大型犬のシンヤは足音もうるさい。
 床が抜ける! と注意するため台所から出てきたところを、いきなり抱きしめられた。
 興奮したように、シンヤが言う。
「桜! 桜咲いてたよ! 週末にお花見に行こうよ」
 嬉しそうな声に、言おうとしていた文句も不機嫌も、一気に吹き飛んだ。
 やっぱりシンヤの笑顔と温もりは、心を落ち着かせる効果がある。自然に頬が緩む。
「うん。行こう」
 真純は答えて、シンヤを抱きしめ返した。




目次へ 次へ


Copyright (c) 2010 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.