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2.



「真純さんって会社で恐れられてるの?」
 夕食後一緒にテレビを見ながら、シンヤが問いかけた。
 なぜ唐突にそんな事を聞くのか不思議に思い、真純は問い返した。
「さぁ……。なんで?」
「高木リーダーが、怖くないのかって聞いてたから」
「あぁ、高木くんには恐れられてるかもね」
 高木は真純よりも二つ年下で、プロジェクトのチームリーダーを任せられる立場にありながら、遅刻の常習者だ。真純が知る限り、午前十時より前に来た事がない。
 高木チームのデータ入力を担当した時、彼の遅刻のせいで何度となくぼんやりさせられたので、その度にうるさく説教したのだ。
 瑞希にも注意は受けていたはずだが、それでも改善される事はなかった。ある意味強者だ。
 ただ瑞希が言うには、研修や取引先との打ち合わせなどには、遅刻した事がないらしい。ちゃっかりしている。
 そしてその事実が、真純にとっては我慢ならなかった。
 会社や自分にとってダメージになる事にはきちんと対応するが、真純が相手だとずぼらになる。
 確かに毎回同じ説教を食らうだけで、高木の腹は痛まない。自分の仕事が軽く見られている事に腹が立って、在宅勤務に移行したのだ。
 真純の他にも在宅でデータ入力のアルバイトをしている者がいるので、特に問題はなかった。
 もっともアルバイトと正社員の真純とでは、入力しているデータの機密性は雲泥の差があるのだが。
 そんな経緯があるので、高木と真純は犬猿の仲だった。最初は冷静に注意していたが、繰り返される度に声を荒げ、終いには怒鳴りつけていたので、恐れられているのも頷ける。
 だが、どうして今頃、シンヤとそんな話をしたのか気になった。
 尋ねるとシンヤは、全く悪びれた様子もなく、とんでもない事をサラリと口にした。
「僕の彼女が真純さんだって言ったら、聞かれたんだよ」
 目の前が真っ暗になったような気がした。益々会社――というか、情報システム部が遠退いたような気がする。
 呆然とする真純に、シンヤはそんな事になった経緯を説明した。
 シンヤの歓迎会に来た者は、シンヤに彼女がいる事を知っていた。ところが高木は、その時たまたま出張中で、参加していなかったらしい。
 事情を知らない高木が、シンヤに合コンを持ちかけてきた。シンヤが事情を話して断ると、高木の興味はシンヤの彼女に向けられた。
 どんな子なんだとしつこく聞かれ、答えたという。
 よりにもよって高木に、暴露する事はないではないか。
「なんでそんな事話すの?」
「なんでって……。別にうちの会社、社内恋愛禁止じゃないよね?」
 確かに社内恋愛も結婚も禁止されてはいない。だが発覚すれば、どちらか一方が他部署に異動となる。
 公然とイチャイチャされては、周囲の者の仕事に支障を来すからだ。だから皆、結婚は隠しようがないが、付き合っている事は隠したがる。
 もっとも本人たちは隠しているつもりでも、桃色のラブラブオーラは案外だだ漏れなもので、大概周囲に感付かれている。上司も目に余るほどイチャイチャしていない限り、黙認しているのが現状だ。公私混同するなという、牽制を込めた規則なのだろう。
 真純とシンヤは同じ部署に所属しているが、元々就業場所は別々なので、この規則に関しては、何の障害にもならない。しかし――。
「課のみんなに知れ渡ったら恥ずかしいじゃない」
 真純が吐き捨てるように言うと、シンヤが途端に真顔になり、黙って真純を見つめた。
 突然、テレビのバラエティ番組から笑い声が響いた。シンヤは眉をひそめ、素早くリモコンを取り、苛々したようにテレビを切る。
 そして静かに問いかけた。
「真純はオレと付き合ってる事が恥ずかしいの?」
 感情を押し殺した冷たい目と低い声に、若干畏縮しながら真純は答える。
「恥ずかしいよ」
 ヒステリーババァが八歳も年下の男と付き合っている。高木が笑いながら噂しているのを想像すると、いたたまれない。
 シンヤは少し目を細め、自嘲気味に笑った。
「ふーん。やっぱりオレの勘違いだったんだね。わかったよ」
「何の事?」
 意味が分からずに尋ねると、シンヤは目を逸らした。
「好きだって言われたから、オレと同じだと思ってたのに、真純は違うんだ」
 相変わらず意味が分からない。シンヤが何を憤っているのか。
 憤っているのは、むしろこちらの方だ。確かに会社で余計な事を言うなとは言ってなかったが、からかわれる事は目に見えているのに、何も考えなかったのだろうか。
 すねた子供のように、シンヤは更に言い募る。
「オレは真純にとって、今も拾った子犬なんだね。だから部屋に鍵をかけるんだろ?」
「それは前にも話したじゃない」
「飼い犬に咬まれたくないからだろ?」
「なんでそれにこだわるの?」
 真純は怒鳴ってシンヤを睨んだ。話があさっての方に飛躍し始めている。
 少しの間黙って睨み合った後、シンヤが再び口を開いた。
「飼い犬じゃなくて恋人なら、なんで嫌がるんだよ」
 ちゃんと説明して、納得してもらったと思っていた。ウソなどついていない。なのにシンヤは、施錠を拒絶だと受け取っていたのだ。
 嫌がってなどいない。いつかは受け入れるつもりでいた。ただきっかけがないまま、半年過ぎていただけだ。
 鍵をかけるのを止めようとしていた矢先に、そこを突かれて無性に苛つく。
 その気持ちのままに、思ってもいない言葉が口をついて出た。
「そういう事がしたいんなら、そういう女のところに行けば?」
 一瞬目を見開いて、シンヤは顔を歪めると、勢いよく席を立った。
「もういい!」
 そう言い捨てて、足音も荒く二階に消えて行った。
 大きくため息をついて、真純もゆっくりと立ち上がる。リビングの灯りを消して二階へ上がろうとした時、階段でシンヤと鉢合わせをした。
 見ると上着を羽織って、出かけようとしているようだ。
「どこ行くの?」
 真純の問いかけに、シンヤは憮然として答えた。
「そういう女のとこ」
「は?」
 呆気にとられる真純の横をすり抜けて、シンヤはそのまま外に出ていった。




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