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第2話 執事のいる暮らし




 柔らかな朝日の差し込む部屋に、豆から挽いたコーヒーの芳しい香りが漂う。
 美形執事が静かな声で、私を眠りの淵より引き上げる。
「頼子、朝ですよ。お目覚めください」
「うーん」
 一声うなって、私はコロンと横に転がった。転がった拍子に、手が何かに当たって私は目を開く。
 目の前で紅い瞳の目が、嬉しそうに細められた。
「朝食の準備が整っております」
 あまりの至近距離に驚いて、私の頭は一気に覚醒する。飛び起きようとして、体の自由がきかず布団の中でもがいた。
 ザクロの両腕が私の身体を抱きしめていたからだ。
 いつの間に潜り込んだのか、全く気づかなかった。朝食の準備が整っているという事は、その後だろう。 おまけにスーツを着たままなのが、どうでもいいけど、ものすごく気になる。しわになるじゃないの。
 いやいや、そんな事よりこの状況の方が問題だ。
 私は両手を突っ張りながら怒鳴った。
「なにやってんの!」
「執事の仕事ですが」
 真顔で言い返すザクロに、私の方が面食らってしまう。いったいどこでそんな情報仕入れてきたの。
「どこの執事がこんな事してるのよ!」
「頼子の持っている書物に書かれていました」
「書物って……」
 江戸時代から二百年以上眠っていたザクロは、時々言い回しが古くさい。
 初対面で英語を口走ったのは、私の願望が反映されていたからで、本人はあまり意味を理解していなかったらしい。
 言葉もさることながら、現代の道具も家電もさっぱり使えないので、一から教え込んだのだ。その結果、一応家政夫くらいには使えるようになった。
 もっとも、ここにはお屋敷のように事務や家事を専門に行う使用人もいないので、それを取り仕切る立場である執事の存在価値もないのだが。
 そして文字も文章も昔とは微妙に違うので、家にある本を読んで勉強するように言っておいた。
 どうやら手当たり次第に読んだらしい。私の乾いた心を癒してくれる大人乙女向け恋愛小説を読んだのだろう。美形執事とお嬢様の禁断の愛を描いた胸キュン小説だ。
 私はすっかり毒気を抜かれて、ため息と共にザクロの腕をほどく。
「あれは本当の執事とは違うの。乙女の妄想願望を満たしてくれる作り話よ」
「架空の物語ですか」
「そうよ。昔にもあったでしょ?」
「そうですね」
「納得したならベッドから降りて」
 ザクロがベッドから降りて、私も続いて布団から抜け出す。
 ザクロが繭から出てきて一月が過ぎていた。色々とズレたところはあるが、妖怪執事のいる生活も悪くない。
 部屋の隅にあるテーブルの上には、すでに朝食が準備されていた。
 湯気の立つコーヒーとバタートースト。プレーンオムレツと茹でたウインナーの横には、レタスとミニトマトのサラダも添えられていた。
 和風妖怪のザクロは和食料理の方が得意だが、時々洋食も作ってくれる。
 一人暮らしをするとき意気込んで買い漁ったもののほとんど開くことのなかった料理本が、フル活用されているらしい。
 手を洗ってテーブルのそばまで行くと、ザクロが当たり前のようにイスを退いて座らせてくれる。
 高級レストランのような扱いも、私にとってはすでに日常の一部となってしまった。
「いただきまーす」
 両手をあわせた後、トーストにかぶりつく。ザクロはそばに控えたまま、私が食事をしている姿をニコニコしながら黙って見つめていた。
 ザクロは基本的に食事をとらない。頼めばつき合いで食べたり飲んだりしてくれるけれど、生命を維持するための食事ではない。私の生気が食事のようなものなのだという。
 そして生気の量は私の精神や肉体の健康状態に大きく左右されるらしい。
 私が病気になったり気持ちがふさいでいたりすると、彼がお腹を空かせてしまうのだ。
 だからザクロは私が病気にならないように、原因は見つけ次第密かに排除しているらしい。妖怪には見えるのだという。
 初めて妖怪らしい能力を知ったが、私には見えないので、今ひとつピンと来ない。
「ごちそうさま。オムレツおいしかった。上手になったね」
「ありがとうございます」
 今日のオムレツはとろふわでとてもおいしかった。狭いキッチンで本当によくやっていると思う。
 実は今まで何度も失敗している。本を見ながらやっているので分量を間違えたことはないが、プレーンオムレツは火加減が難しいのだ。
 私も何度となく挑戦したが、まともにできた試しがない。
 自分ができないのに他人の作ったものをとやかく言ったりはしないが、生気の状態で私が満足していないことはザクロに筒抜けらしい。
 私が朝食に満足したことを悟って、ザクロは嬉しそうに微笑んだ。
 ザクロが後片付けをするために、キッチンへ姿を消すのを見計らって、私は着替えを済ませ会社に行く支度を整える。
 いくら妖怪とはいえ、一応人間の男性の姿をしている者に、着替えや化粧をしているところを見られるのは落ち着かない。
 それを知ってか知らずか、ザクロはキッチンから戻ってくるとき必ず声をかける。
「頼子、支度はお済みですか?」
「うん」
 私は返事をしながらキッチンへ続く扉を開けた。横によけたザクロの前を通り抜け、玄関へ向かう。キッチンのすぐ先が玄関なのだ。
 私はパンプスに足をつっこんで振り返る。
「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃいませ」
 恭しく頭を下げるザクロに、軽く手を振って私は家を出た。
 鍵をかけて歩き始めると、ザクロはいつの間にか後ろにいる。そしてそのまま互いに話すこともなく黙々と歩く。
 周りの人にはザクロの姿が見えていないので、話していると私が変な人になってしまうからだ。
 私が会社にたどり着くと、ザクロは家に戻る。そのくらいの距離なら離れていても大丈夫らしい。
 そして仕事が終わって会社を出ると、ザクロが待っているのだ。残業で遅くなっても、必ず待っている。
 定時からずっと待っているのかと思ったら、私の様子がザクロにはわかっているらしく、帰り支度を始めたら迎えにくるらしい。
 命が糸のようなもので繋がっているので、それをたぐりよせて短時間で移動できるという。
 ザクロは私の命と心身の健康を保つことに熱心で、家事全般を請け負ってくれるのも、私が憧れていた架空執事を演じているというより、雑務で私にストレスを与えないためということのようだ。
 ただ、ひとつだけ手出ししないことを約束してもらっている。
 会社では仕事の上でストレスが少なからずある。ザクロにはそれもすべて見えている。
 けれど、会社内の事には一切手出しして欲しくない。
 たとえば、私が上司に叱られて落ち込んでいたからといって、上司を排除されてはたまらない。
 そんなことをされては、私が益々落ち込むなんて彼は思わないのだ。
 死なない妖怪のザクロは、命に対する価値観がやはり人とはズレている。
 とはいえ、そう思っているのは私だけではなかったようで、以前の宿主にも「人殺しだけはするな」と何人かに言われたらしい。
 家に帰り着くと、鍵を開けている間にザクロはいつの間にか消えている。
 そして扉を開けるとそこにいて、恭しく頭を下げるのだ。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
 これはたぶん、執事を演じているのだろう。
 玄関にはデミグラスのおいしそうな匂いが立ちこめていた。思わず頬が緩むのと同時にお腹がなった。
「わぁ、ビーフシチュー作ったの?」
「はい。頼子がお好きなようですし」
「へ? なんで知ってるの?」
「料理の指南書に印がついていました」
「指南書……」
 そういえば、はるか昔に作りたいと思って、好きなものに片っ端から印を付けたような気がする。
 結局作ったかどうかすら覚えていないが。
「夕方に作ったので冷めてしまいました。温めなおします」
「うん。ありがとう」
 私はその隙に着替えて化粧を落とす。ホッと一息ついた時、キッチンの扉が開いて、食事の載ったトレーを持ったザクロが現れた。
「お待たせしました」
 テーブルの上に置かれた食事を見て、私は目を細める。湯気の立つビーフシチューの他に、小さなロールパンがひとつと、エビとキノコとキャベツのマリネが少し添えられていた。
 残業で遅くなったときには、食事の量を少な目に調整してくれるのだ。
 おいしい夕食に幸せをかみしめながら、ふと何も関係ないことが気になった。
 ザクロは繭を触った人の望む姿に変化すると言っていた。触ったのが男だったらどうなるんだろう。
「ねぇ。ザクロって女の人にも変化できるの?」
「見た目だけなら可能ですよ。一度しか変化したことはありませんが」
「え? 一度だけなの? 触ったのが男の人だったら理想の女性とかを望むんじゃないの?」
「男に触られたことはありません。私の繭は女性にしか見えませんので」
 てことは、ザクロは女性を好んで宿主に選んでいるということになる。
 性別はないのかと思っていたが、もしかして――。
 私の疑惑を察したのか、ザクロはにっこり微笑んだ。
「私は男性体です」
 見た目だけじゃなく、本当に男だったようだ。
「お望みでしたら、夜のお相手もつとめさせていただきますよ」
「いや、お望みじゃないから」
 そんなニコニコしながらサラリと事務的に言われても、ぜんぜんそんな気になれない。
 だいたい私はもう男なんていらないんだから。あんな面倒くさい生き物。
 うっかり去年のことを思い出して、イラッとする。
 食事を終えてもイライラを引きずっていたら、目の前にハーブティが差し出された。
 鼻孔をくすぐるカモミールの甘い香りに、少し気持ちが和らぐ。
 見上げるとザクロが穏やかに微笑んだ。
「どうぞ。心が落ち着きますよ」
 私が苛ついている理由なんて、ザクロにはわからない。けれど、苛ついていることはちゃんとわかっていて、いたわってくれる。
 うん。なかなか理想の執事になってきたじゃないの。時々とんちんかんだけど。
「ありがとう」
 私はすっかり機嫌を直して、ハーブティのカップに口を付けた。




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