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プロローグ




 派手な物音に目を覚ましたクルミは、ベッドの上に身体を起こして物音のした窓を見つめた。
 寝る前に窓は閉じられていた。それが今は開け放たれ、煌々と月の光が室内に降り注いでいる。その窓辺に真っ黒な塊がうずくまっていた。
 クルミに気付いた塊は、ゆっくりと立ち上がった。真っ黒な四つ足の獣。
 小さな頭の上にはとがった大きな耳が、ピクピクと別々に動きながらあたりを警戒している。全身は真っ黒な短い毛に覆われ、月の光に輪郭を青白く浮かび上がらせていた。
 まるで大型の猫のようだ。
 左の後ろ足が少し縮められている。太もものあたりにケガをしているようで、足先から血を滴らせていた。
 クルミが少し動くと、獣は前屈みになり、鼻筋にしわを寄せて口を薄く開き低くうなった。長いしっぽがゆっくりと左右に揺れている。金色に光る目がクルミを見据えた。
 獣は人を襲うことがある。獲物として捕捉されたような気がして全身総毛立つ。
 思わず息を吸い込んだ途端、黒い獣はクルミに飛びかかってきた。
 手負いとは思えないほど俊敏な動きで、クルミの身体を押し倒し太い前足で口をふさいだ。声を出すなと言わんばかりに顔を近づけて、間近で低いうなり声を上げる。
 獣たちはクルミの住む領地に隣接する森を住み処としていた。滅多に姿を見せないが、稀に姿を現した時は女を襲ってその血肉を貪る。
 姿を見ることも稀な獣を、これほど間近で見ることはもっと稀だろう。
 けれどクルミは数日前にも、学校帰りに熊に似た獣に遭遇している。その時は咄嗟に獣よけの香水を鼻先に吹き付けて、運良く逃げることができた。
 今、香水は持っていないし、つけてもいない。広い庭に囲まれ警備員もいる屋敷の中で、獣に襲われるとは誰も思わない。
 たとえ香水を持っていたとしても、少しでも動けば、この敵意を露わにした獣に一瞬のうちに引き裂かれてしまうだろう。
 そう考えて、ふと気付いた。
 動こうが動くまいが、結果は同じだ。自分はもうじきこの真っ黒な獣に身体を引き裂かれ、食べられてしまう。
 恐怖と絶望に身体が震え、知らず知らずに涙があふれた。
 すると目の前の獣がうなるのをやめた。黒光りする鼻をヒクヒクさせながら顔を近づけてくる。
 とうとう食いつかれると思い、クルミはギュッと目を閉じた。品定めするかのようにクスクスと匂いを嗅ぐ音と共に鼻息がかかる。冷たい鼻と口元の短い毛が頬をかすめ、反射的に身を固くした。
 次の瞬間、獣のザラつく舌がクルミの頬をペロリと舐めた。
「ひっ……!」
 思わず漏れた声を慌てて飲み込む。この期に及んで、獣を刺激しないようにとまだ考えているのが滑稽だった。
 獣はクルミの声にも動じることなく、再び頬を舐めた。そして反対側の頬や閉じられたまぶたを何度もペロペロと舐める。
 いつ食いつかれるかと気が気ではないクルミは、声を殺してじっとしているしかなかった。
 だが獣は一向に食いつく気配を見せない。飽きることなくクルミの顔を舐め続ける。
 その内ご機嫌な猫のように、グルグルとのどを鳴らし始めた。口を押さえていた弾力のある肉球は、ようやく丸みを帯びてきたばかりの硬い胸の上に、いつの間にか移動していた。二つの太い前足は、そこで足踏みをするように交互に胸を押さえつける。
 口を開かせようというつもりなのか、獣の舌は唇の隙間もしつこく舐めた。さすがに口の中まで得体の知れない獣に舐められたくはないので、クルミは歯を食いしばり唇を固く閉じた。
 ザラつく舌で何度も舐められ、頬や唇が少しヒリヒリし始めた頃、獣は突然舐めるのをやめた。身体の動きも、のどの音もピタリと止まっている。
 薄く目を開いて見ると、顔を上げ耳を立てて部屋の扉の方を見つめている。とがった耳がピクリと震え、先端のフサ毛が揺れた。
 クルミも聞き耳を立てる。部屋の外に複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。物音を不審に思った誰かが、こちらにやって来るようだ。
 クルミが気付いた時には、獣の方が先に察知していたらしく、四つ足でクルミをまたぐようにして立ち上がっていた。引きずるようにしていた後ろ足も、しっかりと踏ん張っている。驚異の快復力に目を見張る。
 獣はクルミを見下ろして、もう一度顔を近づけた後、ベッドから飛び降り、あっという間に窓から姿を消した。
 程なく、使用人と共にやって来た両親が、部屋の中に入ってきた。窓辺に残る血だまりを見て、母が小さな悲鳴を上げる。ベッドの上にも獣の残した血の足跡がついていた。
 父が血相を変えてベッドに駆け寄る。いつもは沈着冷静な父が、これほど取り乱したのは初めて見た。
「クルミ、何があった? ケガは?」
「黒い獣が窓から入ってきたの。大丈夫。顔を舐められただけだから」
 父は一瞬不安げな表情を見せたが、すぐにクルミをきつく抱きしめた。
「よかった。無事で」
 いつも父は忙しく、滅多に顔を合わせることもないので、親子関係はそっけない。迷惑をかけないいい子でいることがクルミの務めだと思っていた。
 そのせいか余計に父との会話も接触もなかった。父はクルミに関心がないのだろうと諦めていたので、こんな風に心配してもらえるのが意外に思えた。
 同時に今頃になって、助かったのだという実感が湧いてきて涙があふれ、クルミは父にしがみついた。
 翌日からクルミは、家の敷地内から外に出ることを禁じられた。当然ながら学校にも行けない。
 父が家庭教師を雇ったので勉強の方は問題ないが、友人と会えなくなったのは寂しかった。始めの頃は手紙をくれたり遊びに来てくれた友人たちも、日が経つにつれ次第に疎遠になっていった。
 そして五年後、クルミが十八になった年、父がクルミを獣から守るためにボディガードを雇った。




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