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1.意地悪なボディガード




 父が連れてきたその男性は、穏やかな笑みを浮かべ恭しく頭を下げた。
「サエキ=ジンと申します。ジンとお呼びください」
 艶やかな黒髪をサラリと揺らして、彼は顔を上げた。理知的な銀縁眼鏡の奥で、琥珀色の瞳がこちらをまっすぐに見つめる。
 ボディガードだと紹介されたが、長身のせいか黒ずくめの服装のせいか、随分華奢に見える。物腰も優雅で、執事や家令の方が適任のように思えた。
 クルミは家の敷地内から出ることを禁じられている。家の中にいて獣に襲われる心配など、まずない。ボディガードといっても形だけのものかもしれないと思った。
 父はジンをクルミに紹介すると、忙しそうに部屋を出て行った。
 最近領内で頻繁に獣の目撃が報告されているらしい。人が襲われたという話は聞かないが、それで父は忙しいのだろう。
 父が治めるこの領地には、隣接して広大な森が広がっている。そこは獣の森と呼ばれ獣の住み処となっていた。人が立ち入ることは禁じられている。獣は人を襲うことがあるからだ。
 人を主食としているわけではなさそうだ。その証拠に獣はめったに人前に姿を現わさない。
 獣はいわゆる動物とは違う。動物より知能が高く、社会性を持ち、特殊能力を備えているらしい。なかには人語を解し、人の姿になれるものもいるという。
 父を見送ったあと、クルミは笑顔でジンに右手を差し出した。
「初めまして。シライシ=クルミと申します。よろしくお願いします」
 するとジンはクルミの手を軽くはたいた。先ほどとは打って変わって冷たい表情を浮かべ、クルミを蔑むように見下ろす。
「オレはあんたのように世間知らずのお嬢様は、見ているだけで虫唾が走る」
「え……」
 何が彼の気に障ったのかわからない。どう反応していいか分からず、クルミは中空に置き去りにされた手をゆっくりと下ろして握りしめた。
 刺すような冷たい瞳を見るのが怖くて項垂れていると、突然手首を掴まれた。
「詳しい話はあんたから聞くように言われている」
 呆気にとられるクルミを引きずるようにして、ジンはテラスに置かれたテーブルに移動した。
 ジンと向かい合わせに座り、クルミは彼を見つめる。ジンは何も言わず、テーブルの上に片手で頬杖をついてクルミを見つめ返している。
 ものすごく居心地の悪い沈黙が続く。
 膝の上に置いた手でスカートをギュッと掴んだ時、ジンがわずかに目を細め、口元に嘲笑を浮かべた。
「茶の一杯も出さないのか? 気が利かないお嬢様だな」
「あっ! ごめんなさい」
 弾かれたように立ち上がったクルミは、部屋の中に戻り壁の呼び鈴を鳴らした。
 やってきた侍女にお茶を頼んでテラスに戻る。少しして侍女がお茶とお菓子を運んできた。
 ジンはカップを手に取り口をつけた。カップを持つ手指は細くしなやかで、その仕草も優雅だ。口を開かなければ、見とれてしまうほど素敵な人だと思う。
 クルミの視線に気付いたのか、ジンがカップを置いてニヤリと笑った。
「オレに見とれてないで話を聞かせてくれ」
 やはり口を開かなければいいのにとつくづく思う。
 少しムッとしながら、クルミは尋ねた。
「何を話せばいいのですか?」
「あんたが見た獣の特徴だ」
 獣を見たのは五年も前だ。あれ以来外に出ていないので、獣どころか他家の人にすら会っていない。
 父はあれ以来、過剰なまでにクルミが外部と接触するのを嫌うようになった。以前は母と共に顔を出していたパーティや社交の場にも出してもらえなくなったのだ。
 五年前の記憶をたどりながら、その後の五年間が空虚なものに思えて心は沈んでくる。
 話しながら自然と俯いていた。
 通学路で会った獣の事はほとんど覚えていない。出会い頭に獣よけの香水を吹きつけて逃げ出したので、姿もろくに見ていない。特徴といわれても、熊に似ていた事くらいしかわからない。
 一方、寝室に入り込んだ獣の事はよく覚えている。真っ黒で大きな猫のようだった。
 口には鋭い牙があって、舌はザラザラしていた。散々舐められたが、イヤな匂いはしなかった。
 そして父にも話してはいないし、ジンに話すつもりもないが、クルミはあの獣にもう一度会いたいと思っていた。
 顔や首筋に触れた獣の毛並みはシルクのようになめらかで、月光を浴びて窓辺に立つ姿は美しいとさえ思えた。
 もう一度あの獣に会ったなら、今度こそは食べられてしまうのかもしれない。けれどこうして家に閉じ込められて、無為に人生を送るよりはマシな気もした。
「そいつらは人の姿になったり、しゃべったりはしなかったのか?」
 ふいにジンの声が聞こえ、クルミはハッとして顔を上げる。黒い獣を思い出してぼんやりしていたらしい。慌てて首を横に振った。
「いいえ」
「そうか。話せば分かる奴じゃなかったわけだ。あんた、運がよかったな」
 口元に浮かんだ薄笑いが、ちっともよかったと思ってないように見える。やはりこの態度はどうかと思い、クルミは意を決してたしなめた。
「あの。私のことが気に入らないのはかまいませんが、言葉遣いとか、もう少しなんとかなりませんか?」
 ジンは益々小馬鹿にしたような笑みを深くした。
「雇われ者のくせに偉そうだと言いたいのか?」
「そうじゃなくて、私はあなたの友達でも部下でもありません。それなりの話し方があるでしょう?」
「勘違いするな。オレを雇っているのはあんたじゃない。オレには使用人部屋ではなく、ちゃんとした客室が与えられている。客人として”それなりの”扱いをしてもらいたいのはこっちの方だ。ま、お嬢様ってのは、どいつも勘違いな奴が多いけどな。高慢ちきで高飛車でない分、あんたはマシな方だが」
 そう言ってジンは鼻で笑った。
 確かにジンを雇っているのは父だ。何も言い返せずクルミは唇をかむ。
「心配するな。仕事はちゃんと全うする」
 そうは言われても、この人とは気が合いそうにない。そんな人に四六時中側にいられては、気が休まらないように思える。
 そんなクルミの胸中をよそに、ジンは恭しくクルミの右手を取った。
「全力でお守りいたします。お嬢様」
 そしてニヤリと笑い、今さらのように指先に口づけた。




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