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所在地:和泉市松尾寺町
最寄駅:泉北高速鉄道「和泉中央」下車、南海バス「松尾寺」行、
終点より徒歩約5分 |
当山の開基は672年(天武元年)役行者が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を刻んで安置したと伝わる。その後、越前の泰澄大師(たいちょうだいし)が入山され中興した。
奈良・平安時代には『日本往生極楽記』や『今昔物語』などには当寺にまつわる奇瑞が伝えられており、既に人々に広く知られた寺であったと思われる。
また、鎌倉時代以降の歴史については、当寺に伝わる多くの古文書(内72通は大阪府文化財指定)により、かなり明らかである。
南北朝から室町時代にかけ最も栄え、口伝では寺領7000石、寺坊308、僧兵は数千人を数えたと伝わるが、これを裏付ける文書は残っておらず、寺領田畑の明細は判らない。
南朝との関係が深く、1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられている。南北朝合一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行っている。
下って、織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して当寺の保護を約束したが、1581年(天正9年)紀州高野山攻めの際し当寺も攻撃し、全山諸堂を焼き払ってしまった。
その後、豊臣秀頼の寄進などにより再興が進められたが、寺勢は次第に衰え衰退を余儀なくされた。 |
泰澄大師:683年(天武12年)現在の福井市三十八社町に生まれ、717年(養老元年)35歳の時に、白山を開山した後、越前・加賀に50余の寺を創建したと伝わる。(誕生地跡に泰澄寺がある)
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[参考資料] 『泉州 阿弥陀山 松尾寺』 松尾寺パンフレット
『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社 |
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本堂に至る階段(左の写真)と、山門(右の写真)。山門は1705年(宝永2年)の建立で、釘は1本も使われていない総楠造り。左右に持国天、増長天、楼上に文殊菩薩を安置する。 |
| 松尾寺本堂。
本堂は1602年(慶長7年)豊臣秀頼の寄進により、大坂四天王寺の阿弥陀堂を移築した。
パッと見は、柱などは新しい感じがするが、これは朱塗りの色がはげて、新材のような色になっているため。
本尊の如意輪観音のほか、阿弥陀如来、聖徳太子、役行者、伝教大師、泰澄大師が安置されている。
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首堂(奥の小堂)。
源義経が一の谷合戦の戦死者の首を当寺に送り、この地に葬り亡魂の菩提を弔ったと伝わる。 |
本堂の前にある三天堂。
大日如来、阿弥陀如来、松尾明神、穀聚三天尊、三所権現などを祀る。 |
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寿老人堂。南海電車の沿線にある寺社で構成されている七福神めぐりの1つ。 |
長諭(ちょうゆ)和尚顕彰碑。天正9年、織田信長が、全山を焼き討ちにした折、81歳の長諭和尚が本尊のほか百数十点の寺宝を持って、堺の念仏寺へ難を逃れたという。長諭は「松尾寺破滅記」を記している。 |
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和泉三十三ヶ所観音霊場 |
役行者霊蹟札所 |
南海沿線七福神札所 |
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[2006年10月13日参拝] |
[2006年10月13日参拝] |
[2006年10月13日参拝] |
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