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所在地:大阪市北区同心1丁目 「龍海寺」
最寄駅:地下鉄「南森町」下車、堺筋を北へ、寺町通り『南森町イシカワビル』を東へ入る約500M、左側にあり |
緒方洪庵は、幕末における日本の蘭医学者の第一人者として仰がれ、教育者としても、優秀な門下生を輩出した。
洪庵は、1810年(文化7年)備中足守藩士佐伯惟因(これより)の三男として誕生している。
1826年(文政9年)17歳で大坂へ出、中天游の「思々斎塾」に入門し、西洋医学の基礎を学んだ。その後、天游の勧めで江戸の坪井信道に蘭学を学び、さらに宇田川玄真に薬学を学んでいる。
また、1836年(天保7年)に蘭学を学ぶため、中耕介(天游の子)と長崎へ2年間遊学している。帰阪後、医薬業億川百記の娘八重と結婚、瓦町で医業を開業し、同時に、「適々斎塾(適塾)」という蘭学塾を開いた。医者としての名声も高く、入門者も多くなり、手狭となったため、7年後の1845年(弘化2年)には過書町(現在の北浜3丁目)に町家を購入して移転した。(過書町の適塾については別ページに記載した)
洪庵は、いち早くジェンナーの種痘法を取り入れ、1849年(嘉永2年)に古手町に除痘館を建て、大阪で初めて予防接種を試み、全国的に蔓延する天然痘を防いでいる。また、1858年(安政5年)コレラが大流行し、多くの人の人命が失われていたが、洪庵は『虎狼痢(ころり)治準』を著し、多くの医者に無料に配布し、光明を与えているなど、多大の業績を残した。
1862年(文久2年)8月幕府の強い要望で幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に召し出されたが、わずか10ヵ月後の1863年(文久3年)6月江戸の頭取屋敷で死去した。享年54歳であった。
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[参考資料] 『史跡・重要文化財 適塾』 適塾パンフレット
『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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本堂には「逢來山」の大きな扁額が掛かっていた。 |
龍海寺は逢來山と号し、曹洞宗のお寺である。
緒方一族の墓のほか、緒方洪庵の師である「中 天游の墓」や、門下生の「大村益次郎の足塚」がある。 |
龍海寺の境内墓地の一段と高いところにある緒方洪庵夫妻の墓。
江戸で亡くなった洪庵の墓は東京駒込の高林寺にあるが、当寺の墓は遺髪が納められている。 |
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中央の墓は洪庵の義弟、緒方郁蔵の墓と同婦人の墓(向かって左側)。
緒方郁蔵は本姓木戸氏、洪庵と同郷の備中で1816年(文化13年)生まれ。字は子文、号は研堂。
江戸に出て、坪井信道に蘭学を学ぶが、洪庵が1838年(天保9年)瓦町に適塾を開いた折、助教授として参加。洪庵の業績をで支え、黒幕に徹したが、洪庵は郁蔵の人物や業績を高く評価し、義兄弟の盟を結び、緒方姓を名乗らせた。
1860年(万延元年)洪庵の勧めで独立、久太郎町に「独笑軒塾」を開いた。1871年(明治4年)55歳で没。
戦中・戦後の政治家で副総理を務め、自由党総裁だった緒方竹虎は郁蔵の孫にあたる。 |