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所在地:
龍海寺:大阪市北区同心1丁目
寓居址:大阪市西区江戸堀2丁目
報国碑:大阪市中央区法円坂2丁目
大福寺:大阪市天王寺区上本町4丁目
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大村益次郎は幕末の軍政家で、日本の近代的軍制をたてた人である。1824年(文政7年)周防秋穂村(現山口市秋穂町)の医師藤村孝益と、その師村田良安の娘との間に生まれた。母方の村田家を継ぎ、幼名を惣太郎、大坂修業時代は良庵、宇和島藩勤務時代は蔵六と名のり、大村益次郎の姓名は、のち長州藩に呼び戻されたときに改名している。
1846年(弘化3年)23歳のとき、大坂に出て緒方洪庵の適塾に学ぶが、僅か1年で塾長になるほどの傑物であった。
医学・蘭学から兵書砲術まで通じ、1868年(慶応4年)彰義隊が上野に立てこもり、西郷隆盛らが攻めあぐんだ折、益次郎は2千の兵を率いて囲み、たった1日で銃撃戦の末、壊滅させている。
早くから西洋の政治制度に注目し、陸軍はフランスの、海軍はイギリスの制度を大胆に取り入れ、兵制の確立と人材の育成に日本の盛運をかけた。
また、益次郎は軍事上における大阪の重要性に注目し、1869年(明治2年)兵部大輔に任ぜられると、すぐに鎮台建設地・兵学校敷地などを検分して、天保山で海軍根拠地の位置を選定するなどの政策を強力に推進した。1869年(明治2年)9月4日京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ負傷、大阪病院に入院して右脚を切断したが、手術は成功せず、46歳で没した。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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大阪市北区同心町の龍海寺境内の墓地に「大村兵部大輔埋腿骨之地」と彫られた墓石がある。
1869年(明治2年)9月4日京都木屋町三条の宿舎で刺客に襲われ、全身に刀傷を受け、風呂場の湯船に隠れ難を逃れたものの、傷口から菌が入り悪化する。大阪病院に転送し、手術を受けるが、敗血症を併発しており、11月5日に亡くなった。
益次郎の遺言により、切断した片方の足は師の洪庵墓の傍に埋葬された。 |
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大村益次郎寓居跡 |
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大阪市西区江戸堀にある「大村益次郎先生寓地址」の碑。
適塾に居住していた益次郎は緒方洪庵に許され、1849年(嘉永2年)からこの倉敷屋作衛門宅に住み、適塾に通っていた。
この当時は村田良庵と名乗っていた。いかにも医者らしい名前である。
この碑は1943年(昭和18年)大村卿遺徳顕彰会によって建てられたものである。 |
大村益次郎殉難報国碑 |
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大阪市中央区法円坂の国立大阪病院南東角にある「大村益次郎殉難報国碑」。
傷を負った益次郎は京都の長州屋敷に囲われ、治療に専念するが、化膿熱が続き、本人の強い希望で、「大阪病院」に転送され、10月27日にボードウィンと緒方惟準のメスで右大腿部切断の手術が行われた。
この「大阪病院」は上本町4丁目の大福寺の「浪花仮病院」より、移転したばかりであった。
この巨大な石碑は1940年(昭和15年)に建てられている。
子供の頃から見慣れた記念碑である。市電に乗り、馬場町のBK(NHK)を過ぎて、上本町にかかる頃、右側の車窓から大きな石碑が目に飛び込んでくるので、自然と大村益次郎の名前は覚えてしまった。 |
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「大村益次郎殉難報国碑」の周囲にこの碑の建立に際し、協賛した人々の名が刻まれているが、当時の世相が反映していて、興味深いものがある。
左側:黒く汚れている部分は鳥井信次郎(サントリー創業者)、その横は東條英機(陸軍大将・総理大臣)、左端の方に緒方_次郎とあるが、_次郎は緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。
右側:松岡洋右(国際連盟脱退の時の外務大臣)、松下幸之助、鴻池善右衛門、小林一三、江崎利一(グリコの創業者)などの名前が読める。 |
大阪仮病院跡 |
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上町筋に面した大福寺の山 門がある。
このお寺の斜め向かいに井原西鶴の墓がや中井一族の墓がある誓願寺がある。 |
大阪市天王寺区上本町、大福寺の境内にある「大阪の仮病院跡」の碑。
1869年(明治2年)2月、ここ大福寺において、浪華仮病院として開業した。院長は緒方惟準(緒方洪庵の二男)、主席教授はオランダ人ボードウィンが務めた。
その年の秋には鈴木町代官屋敷(現法円坂町)の大阪医学校と病院が出来たので、その役目は終わった |