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所在地:大阪市淀川区加島4丁目 「香具波志神社」墓地
最寄駅:市営バス「加島」下車北へ、バス停横の信号を渡り
北へ、突き当たり手前右側 |
上田秋成は1734年(享保19年)大坂・曽根崎で私生児として生まれる。俗称、東作、後に余斎。号は、無腸公子、鶉居等。4歳の頃、紙商・上田茂助の養子となる。5歳の時に痘瘡に罹り、加島稲荷の加護で危うく一命を取り留めた。
長じて、賀茂真淵の門人・加藤宇万伎に師事し、国文学を学ぶ。万葉集・音韻学にも通じ、本居信長と論争は有名である。
生来偏屈で、成長つれて勝手無頼、放蕩三昧と荒れ、奇人、変人の癖は終生ついて回り、国学者としても業績をあげながら、貧乏のどんぞこで、1809年(文化6年)没。享年76歳。
代表作に、読本『雨月物語』、『春雨物語』、『胆大小心録』、『癇癖談(くせものがたり)』、『藤簍冊子(つづらふみ』等。号の無腸公子は蟹の異称で、「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと、蟹の如し」として、称したという。
墓は香具波志神社の北側、道を隔て日本化学の塀に沿って入った所にあり、香具波志神社の宮司藤一族の墓地の片隅に建てられている。
なお、上田秋成の墓といえば、京都の西福寺の墓が全国的に知られているが、これは1821年(文政4年)の秋成13回忌に、友人の森川竹窓らが建てたもので、香具波志神社にある墓は、それより古く、1811年(文化8年)に建立されたものである。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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香具波志神社境内に建っている「上田秋成寓居、加島鋳銭所跡」の碑。上田秋成は1773年(安永2年)から足掛け3年、境内の一隅に居住している。
「加島鋳銭所」は1738年(天文2年)計台地付近に設置され良質の寛永通宝が鋳造され、「酒は灘、銭は加島」と云われていたという
上田秋成の寓居は神社境内
の西南付近であったことだが
、その場所と思われるところに
は、建物はなく、現在は空き地
になっている。 |
上田秋成の墓は大きさ約60cmほどの自然石で作られており、「上田秋成先生墓文化八年三月」と彫られている。
秋成没後2年、生前親交のあった香具波志神社宮司の藤家孝が建てた。
訪問した当日は社務所も閉まり、墓地の所在がわからなく、探しあぐねていたが、近くの人がご親切にも宮司さんの親族の方の家まで案内して頂き、墓の所在地を聞くことが出来た。 |
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