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[更新記録]
・05/5/1
西方寺の写真を追加
三井高利の墓 所在地:大阪市天王寺区生玉寺町  「西方寺」
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、谷町筋を北へ、
学園坂の次の通り(月江寺の前)を左へ曲がる。突き当りを右に
約150M、左側
大阪市中央区高麗橋にある「大阪三越」は1691年(元禄4年)の開設し、315年の歴史を誇っていたが、この2005年5月5日で閉店するという。
 「大阪三越」の歴史は、1673年(延宝元年)京都室町に、翌年江戸は本町で開かれた「越後屋呉服店」まで遡ることが出来る。
 この越後屋の創業者で、後の三井財閥の始祖である三井高利は1622年(元和8年)伊勢松阪の商人三井高俊の4男として生まれた。1635年(寛永12年)江戸に出て、呉服屋を開いていた長兄の店を手伝い、商いのノウハウを習得した。
  高利は自分の店を持つと、当時として画期的な「現金掛値なし」の取引を始め、店売りを主体とする、顧客にはお茶を出す、雨が降り出すと貸傘を置くなど、現在でも通用する独創的なサービスを次々と打ち出している。
 また、高利は1683年(天和3年)江戸本町の店を駿河町に移し、両替商も始めたが、69歳のとき大坂に進出し、同業者の営業妨害をものともせず、事業を拡大している。
 井原西鶴もその著書『日本永代蔵』で彼の業績を称えている。1694年(元禄7年)73歳で没した。墓は大阪天王寺区の西方寺にある。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
西方寺山門 西方寺本堂
三井一族の墓のある西方寺の山門。
お寺は生玉寺町にあり、付近のお寺にも有名人の墓が数多く見られる。
西方寺本堂。
境内は沢山のお墓で埋め尽くされている。

三井家の墓は寺の境内の一角に、白壁に囲まれて、独立した形であり、その中央に高利の墓がある。
墓は夫婦墓で
『松寿院長誉宗寿居士』(元禄七甲戌年五月六日)、
『栄昌院長空寿讃大姉』(元禄九丙子年十月十三日)と
(没年は側面に)刻まれている。
三井高利の墓(中央)
三井一族の墓 紀 上太郎の墓
白壁の一部は崩れ始めている。
お寺の方の話では、近年は一族の人の墓参りは全く無く、三井グループの管理会社から決められた管理料が振込まれて来るだけという。
三井一族の中にある『紀 上太郎』(きの・じょうたろう)の墓。紀 上太郎は江戸中期の浄瑠璃作者で三井南家(京都)4代目当主。1796年(寛政8年)50歳のとき、三井家内紛の罪で江戸追放となり、晩年は大坂に住んだ。
三越百貨店 閉店セールの垂れ幕が出ている、大阪中央区高麗橋の『大阪三越店』。
セール中の店舗を覘いてみたが、同じく昨年に店じまいをした『松阪屋天満橋店』のそれに比べ客の入りは少なく、「閉店もむべなるかな」の印象を持ったが、この現状を地下の高利はどう思っているのだろうか。

文化人墓-37/TTL-379

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