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有名人・文化人墓所
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入江昌喜の墓 所在地:大阪市天王寺区城南寺町 梅松院
最寄駅:近鉄 「上本町」下車、上町筋を北へ約500M、東に入る
入江昌喜は大坂を代表する町人学者の1人で、天明・寛政頃(1781〜1800年)加藤景範江田世恭と共に大坂国学者の三羽烏と称された。
 1722年(享保7年)大坂石灰町(現中央区島之内)両替商榎並屋の家に生まれた。通称は榎並屋半次郎、字は長輔。号は長翁、獅子童、幽遠窟、浪速蘆父、白沢老人などを称した。
 入江昌喜は幼い頃から学問の道を志したが、身内の不幸が相次ぎ、学問のみに専念することが出来ず、その生涯は学問と家業を切り替えながら、乗り切っている。
 3歳の時、父道喜と死別、母の薫陶で国学を学んだ。特定の師はなく、契沖に私淑した。1745年(延享年)24歳の時、兄節休の死により家業を継ぎ、以後20余年は家業に専念。その間に、 妻、長男、長女に先立たれている。
 47歳頃、兄の遺児昌久に家業を譲り、学業に復帰し高津に隠棲、亭号を幽遠窟と名乗った。
63歳の時、昌久の急死により、家業をたて直すために再び榎並屋に復帰し、73歳まで家業に専念している。後世に残っている入江昌喜の著作の多くは、この70歳を過ぎてからの仕事であることは驚嘆させられる。1800年(寛政12年)8月、79歳で没した。その墓は天王寺区城南寺町の梅松院にある。
主な著書は「万葉類葉抄補闕」、「竹取物語抄」、「季寄悉註和田津海」、「春雨茗談」 (未刊) など。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
梅松院門前の碑 梅松院門前に建つ「入江昌喜、片山北海墓所」の碑。
入江昌喜(左側)とその子(養子)石亭の墓「右側)が並んで建てられている。 入江昌喜、石亭の墓
入江昌喜の墓 入江昌喜の墓と横に建つ顕彰碑。
碑文は親交のあった頼春水頼山陽の父)撰、篠崎三島の書になる。
入江石亭の墓。
碑文は親交の深かった篠崎小竹篠崎三島の養子)の撰及び書になる。
石亭は1766年(明和3年)北久宝寺町で薬種業を営んでいた小山信房の3男に生まれる。名は寿喜、字は季鶴、石亭は号。幼い頃に親戚筋の入江昌喜の養子となり、入江家を継ぐ。
古書画を愛好し、珍奇なものがあれば価格の高下を問わず購入した。そのため鑑定に精通し、特に室町時代以降の公家、武士、儒者、僧侶など諸名家の筆跡は、石亭の鑑定があってその価値が定まったといわれる。
1839年(天保10年)12月、74歳で没す。
入江石亭の墓

文化人墓-041/TTL-390

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