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神社めぐり
神社めぐり 阿遅速雄神社
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阿遅速雄神社 所在地:大阪市鶴見区放出東5丁目
最寄駅:JR学研都市線「放出」下車、北側の線路沿いを東へ
約300m
当社は「延喜式」神名帳に載る「阿遅速雄神社」に比定される。古くは阿遅經宮(アヂフノミヤ)又は浦明神(ウラミョウジン)と称され、後には八剣大明神と称した。
 その創祀は由緒書きによると「(神代の時代?)阿遅高日子根神(アヂスキタカヒコネカミ)は当地に降臨し、土地を拓き、民に農耕の業を授けたという。 人々はその神徳を忍び、摂津・河内の国造神として、神恩を慕い、この地の守護神として、斎い祀った」とある。
 また、社伝によれば「668年(天智天皇7年)、新羅の僧道行が尾張国熱田神宮に鎮まる神剣天叢雲の剣(草薙の剣)を盗み出し、本国への帰途、難波の津で大嵐に遭い、古代の大和川の川口であった当地まで流され、嵐は更に激しくなり、これは神罰と恐れをなして剣を河中に放り出して逃げ去った」と伝える。
この故事から、当社に草薙剣の分霊である八剣大神を祀り、当地の地名は放出と呼ばれるようになったという。
 草薙剣の盗難事件については『日本書紀』『扶桑略記』『熱田宮旧記』などに散見するが、当社の祭神が出雲系の神であり、現地付近の往古の地勢を勘案すると、その由緒は放出の地名に帰結すると思われる。
 放出の呼び方については、1426年(応永33年)付の『九条家文書』には「はなちて」と見え、近世の地誌などに「はなちで」「はなちでん」「はなって」など記載されており、時を経て現在の「はなてん」に変化したものと思われる。
                                      『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社 より
[参考資料] 『阿遅速雄神社 御由緒』 阿遅速雄神社パンフレット
阿遅速雄神社表門 阿遅速雄神社正面鳥居
阿遅速雄神社表門。 阿遅速雄神社正面鳥居。
阿遅速雄神社拝殿 阿遅速雄社の社号碑石
阿遅速雄神社拝殿。阿遅高日子根神(迦毛大神)と
草薙剣神霊(八剣大神)を祀る。
社殿の前に建つ「阿遅速雄社」の社号碑石。江戸中期の学者並河誠所が、元文年中(1736~41年)に当時既にわからくなっていた式内社の所在地を研究、場所を特定し、石碑を建てた。大阪市内に残る4基の内の1基。
境内末社・楠木稲荷社 境内末社・護国社
境内末社「楠木稲荷社」。倉稲魂尊を祀る。 境内末社「護国社」。
境内末社・相殿社 境内末社・大将軍社
境内末社「相殿社」。春日大神・住吉大神・八幡大神・
金比羅大神を祀る。
境内末社「大将軍社」。
境内末社・道祖神社 天然記念物の楠
境内末社「道祖神社」。菖蒲神池に建つ。
仁徳天皇が病のとき、阿遅高日子根神が夢枕に立ち、「皇居の東方にある神池の菖蒲を祀れば、病は治る」とのお告げがあり、この池の菖蒲を祀った所、忽ち
平癒したと伝わり、節句に菖蒲を祀る風習の発祥の地
である。
境内にそびえる楠(天然記念物)。高さ約16m、幹周約6m、枝張り約30mの大楠。
お陰灯篭 お陰灯篭
お陰灯篭。1868年(慶応4年)の建立。お伊勢さんへのお陰参りといえば、幕末の民衆運動「ええじゃないか」が引き合いに出されるが、お陰参りは江戸時代初期の1650年(慶安3年)から始まり、ほぼ60年周期で沢山の人々が仕事を放り出して、集団で参拝したという。
ご朱印
阿遅速雄神社朱印
[2012年11月10日参拝]

神社-138/TTL-756

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