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所在地:大阪市福島区玉川4丁目
最寄駅:JR環状線「野田」OR地下鉄千日前線「玉川」下車、 |
当社の創建時期は古い記録が残っていないため不明とのことであるが、当社に保存されている御影石の建石には「ゑみすのみや 永久三乙未年三月(1115年)」とあり、この石は後世に作られたものであり、永久3年が当社にとって何を意味するものかは不明とのことだが、少なくとも平安時代末期には神社が存在していたことを表す手がかりの1つになると思われる。
当時の大阪湾は現在よりも奥深く入り込んでおり、この野田の地にはまずは漁業を主たる職業とする人々が住み着いたと思われ、漁民たちの間で漁業の神であるエビス信仰が成立したものと思われる。
時代が下って戦国時代、四国の豪族三好一党が織田信長の畿内での勢力伸長に対抗し、その勢力回復を図るため、拠点の1つとして1570年(元亀元年)それまで砦であった野田城を補強増築した。当社は野田城内に取り込まれ、守護神として武士たちの信仰の対象となった。
江戸時代、大坂は商業の町として栄えたが、町の中心部から離れている当社のエビス様も商売の神様として信仰を集めるようになり、江戸時代初期に始まったといわれる「十日えびす」も時代が下がるごとに盛んになり、今日に至っている。
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[参考資料] 『恵美須神社略記』 恵美須神社パンフレット |
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恵美須神社正面大鳥居。 |
恵美須神社本殿。
祭神は事代主大神、天照皇大神、八幡大神を祀る。
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境内末社の稲荷神社(左側)と金刀比羅神社(右側)。 |
東に面した入口に奉納されている狛犬の台座には、「安永8年(1779年)かち網中」と刻まれ、左右合わせて36名の名前が列記されている。現地説明板によると、当時の野田村は全人口の約1/3が漁業に関わる人であった。 |
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本堂の横にはだんじりの格納庫が並んでいる。
大阪市内の神社でこれほど多くのダンジリが残されて
いるとは驚きである。 |
境内の一角に建つ「日露戦争戦捷記念碑」。1908年(明治41年)の建立。裏面に戦死者14名の名を刻む。
この碑に使われている石は大坂城の残石といわれ、安治川下流に埋没していた。瀬戸内海から運ばれて来た石を陸揚げのとき、落としてしまったものか。 |
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[200712月8日参拝] |
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