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所在地:大阪市福島区玉川2丁目
最寄駅:JR環状線「野田」OR地下鉄千日前線「玉川」下車、東南へ、新なにわ筋(阪神高速道)東側、野田南公園から東へ入る。
春日神社境内。 |
大阪市福島区野田および玉川辺りはその昔は「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と並び称された藤の名所だったといわれるが、現在のこの地のたたずまいからは往時の華やかな状況は想像も出来ない。
大坂の名所を紹介する『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』など名所図会の類には多く登場するが、現在では当時を偲ばせるものは残っていない。
1364年(貞治3年)2代将軍足利義詮が住吉詣での帰途に来遊し、「いにしへの ゆかりを今も紫の ふじなみかかる野田の玉川*」と詠み、1570年(文禄3年)豊臣秀吉も曽呂利新左衛門らを伴い訪れたと伝わる。
江戸時代には野田村の「藤之宮」と呼ばれた現在の春日神社のある玉川2丁目周辺は、日本独自の藤の原種とされる「ノダフジ」の発祥の地とされ、その名の由来は、明治時代植物学者牧野富太郎博士により「ノダフジ」と命名されたことによる。一般のヤマフジは「つる」が左巻きなのに対し「ノダフジ」は右巻きなのが特徴である。
戦国時代、1533年(天文2年)本願寺10世証如が野田で佐々木(六角)定頼の兵に襲われたとき、ノダフジは焼かれてしまったが、焼け跡からよみがえり、江戸時代は名所として大いに賑わった。明治以降は土地の開発の波にのまれて、かっての賑わいは昔語りとなり、わずかに残された藤棚も先の第2次世界大戦の空襲で殆んど焼失し、1950年(昭和25年)のジェーン台風が大阪を直撃した際に消滅したとされる。
近年は藤家の当主や地域の人たちのノダフジ復活への努力が実を結び、福島区内各所でノダフジの藤棚が見られるようになって来たのは心強い限りである。 |
*(注)義詮の紀行という『住吉詣』には「野田の玉河と云所あり、このほとりに藤の花咲き乱れたり」と記し「紫の雲とやいはむ藤の花 野にも山にもはいそかゝれる」とある。
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[参考資料] 『現地説明板』
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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住宅地の一角に春日神社という小さなお宮さんが鎮座しており、ここが「ノダフジ」の発祥の地であるとのことだが、現在では境内に小さな藤棚があるのみで、残念ながらかっての面影を伝えるものは無い。
この地の藤家が春日神社とノダフジを代々受け継ぎ、守っておられるが、当主が神社に隣接して建つマンションの1階に「野田フジ資料室」が開設されており、野田藤に関する色々な資料が展示されているとのことであったが、訪問した当日はあいにくと不在のため、展示物を拝見することが出来なかった。 |
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春日神社境内に建つ「野田の藤跡」の碑と、春日神社本殿。 |
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豊臣秀吉が花見に当地を訪れた際、藤家の邸宅「藤庵」で茶会を催したとのことであり、近くに下福島公園の一角にその庭園が復元されている。 |
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福島区の区の花には「ノダフジ」が選ばれており、下福島公園には多くの藤棚が作られている。花の時期には多くの人で賑わうとのことであり、福島区の名所となっているとのことだが、この公園は野球場が1番大きな面積を占めており(同時に2試合できる)、公園ということを考えれば、この面積を半分にしてでももっと藤棚を増やし、「ノダフジ」が大阪を代表する名所として復活して欲しいものである。 |
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「野田の藤」の見事さは現在の大阪ではなかなか想像出来ないが、参考となる写真が下の写真である。
栃木県在住の友人があしかがフラワーパークの藤棚を撮影し、送ってくれたものであるが、見事な花を咲かしているのは、俗に「迫間の藤」と呼ばれ、世界一美しい藤とも言われている、樹齢約140年、幹周り3.6メートルもの大藤である。足利市の天然記念物に指定されている。(迫間はフラワーパークのある場所)
傍らの説明板をアップしてみると「野田の長藤」とあり、野田藤の子孫が形を変え、遠く足利の地で、先祖の名を違えることなく、美しい姿を今に伝えている。 |
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