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神社めぐり 打上神社
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打上神社 所在地:寝屋川市打上元町
最寄駅:JR学研都市線『東寝屋川』下車、JR学研都市線「東寝屋川」下車、駅前のスーパー「イズミヤ」東側の府道を渡り、山本医院の横の道を東に入る。明光寺を更に山手へ約200m
当社は旧打上村の産土神を祀るがその創起などは不詳である。境内には由緒などが書かれた案内板などは見当たらなかった。
 江戸時代までは高良(こうら)神社と呼ばれており、現在の社名「打上神社」になったのは明治初年である。しかし、神社の境内や参道に建てられている物には「高良神社」と刻まれているものが多くあり、地元では「打上神社」より「高良神社」の名の方が親しまれているらしく、当時の社名変更が地元の人たちの意向を無視した、お上主導型の変更であったと思われる。
 また、主祭神の武内宿禰も明治初年の社名変更時の変更と思われ、それ以前は高良大明神と呼ばれていた。
 高良大明神(高良玉垂命)を祀る神社は久留米市の高良大社や八幡市の石清水八幡宮の摂社などをはじめ全国各地に見られるが、高良神は『記紀』などの古典に見えぬ神名であるため、古くより祭神をめぐる論議が絶えず、中世以降は八幡宮第一の伴神と位置付けられたが、これを史上実在の人物の求め、高良大明神と武内宿禰が同一人物であるとする説は古くから根強くあり、この変更もそれに従ったのかもしれない。
旧神社名の高良(こうら)の名のその由来には二つの説があるようだ。
1つは高麗(こうらい)からきているとの説で、この地には渡来人にまつわる話が多くあるとのことで、『河内考古学散歩』(堀田啓二著 学生社)の著者は同書の中で、石の宝殿と打上神社を関連付け「(当地は)渡来人系譜の人々との関係が強く、その被葬者もおのずから、それと密接な関係がある」としている。
もう1つは、川原の地主神を祀る、カワラ神社が起源で、「川原社」が転じて「高良社」となったというもので、八幡市にある石清水八幡宮の摂社「高良神社」はもとは「川原社」と呼ばれていたという。八幡神と武内宿禰の信仰が全国に広まるにつれ、地主の川原神もこれらの神と結びついたというもので、この打上神社も「川原」説もあるようだ。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 
打上神社参道 打上神社への参道。
鳥居の扁額と横の石標には「高良神社」と刻まれている。
鳥居は1722年(享保7年)、石標は1940年(昭和15年)の建立。
境内には皇紀2600年(昭和15年)を記念した石造物が多く見られる。
打上神社正面鳥居より拝殿を望む。
正面の大鳥居の扁額は「高良神社」となっている。
この鳥居の建立年月は刻まれていなかった。
打上神社拝殿前の鳥居
打上神社拝殿 打上神社拝殿。
本殿には主祭神の武内宿禰(高良大明神)が祀られている。
拝殿からは江戸中期の宝暦年間(1751~64年)の棟札が見つかっており、拝殿両脇の灯篭は江戸初期の寛文2年(1662年)、狛犬には江戸後期の文化3年(1806年)の銘がある。
境内末社稲荷社の隣りに建つ灯篭。
1706年(宝永3年)の奉納。
境内の灯篭

打上神社境内末社

役行者堂
境内末社の住吉社(右)と天照大神[左)。
他に稲荷社、護国社がある。
役行者堂。
現在の打上神社と関連は不明だが、神仏習合の名残と思われる。

[2008年4月25日参拝]

神社-110/TTL-641

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