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所在地:大阪市浪速区日本橋3丁目
最寄駅:「日本橋」下車堺筋を南へ約400M、高島屋別館向かい側の通りを西へ入る |
当山は元は四天王寺の東北方、牛崎と云う所に在った寶満寺37坊の1つであった。織田信長の石山本願寺攻めの合戦[1570〜80年(元亀元年〜天正8年)]に巻き込まれ、再三にわたる兵火の難を逃れるため、当時の住職の秀言律師は本尊の毘沙門天の仏頭を奉じ、ここ難波村(現在の日本橋筋)に草庵を起こし、大乗坊を再興したとのことである。
江戸・宝暦年間(1751〜64年)6世住職宝及律師の時代には、備前池田候の帰依を始め、船場島ノ内商店主や堂島米問屋の帰依寄進により興隆し、寺勢も大いにあがった。明治に年号が変わるまで、境内千坪、寺領域外周1里を有していた。
当寺も明治以後、境内はかなり縮小されたが、それでも戦前までは、人々は日本橋筋からこの寺の境内を通り抜け、「五階」などに向かったそうである。現在の寺の規模から、想像すら出来ない。
1945年(昭和20年)の空襲で堂宇は全焼したが、本尊(国の重要文化財)は宝物庫に入れ、アスベストで覆い密閉していたため、難を逃れた。戦前は秘仏として60年に1度の開帳であったが、本堂再建後は毎年春秋の2回開帳されている。
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日本橋は、明治の中頃には5階建ての「眺望閣」などがあり大いに賑わった。この「眺望閣」が取り壊された後も「五階」の名前は残り、戦前までは、古着、古道具、古本屋などが軒を並べていたそうである。
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[参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
『崑崙山 大乗坊由来』 大乗坊パンフレット |
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堺筋の電気街の一角を曲がるとお寺はあった。
もう何十年と日本橋の電気街には通ったが、今までお寺の存在には全く気がついていなかった。 |
この角度からちょっと見れば、お寺には見えないこじんまりとした建物である。
お寺の方の話では、戦時中疎開をしている間に、寺は空襲で全焼し、戦後戻って来て見ると既に他人が家を建て住んでおり(不法占拠?)、現在の大きさでの再建を余儀なくされてしまったとのことである。 |
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境内にある灯篭などの建立物は、戦災で残ったものを集め、建て直したとのことである。 |
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摂津八十八ヶ所霊場 |
大阪七福神めぐり |
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[2003年11月11日参拝] |
[2004年1月10日参拝] |
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