  |
所在地:枚方市中宮東之町
最寄駅:京阪本線「枚方市」駅下車、京阪バス「長尾方面」行で「関西外大」下車、「セブンイレブン」の横の道を南へ、すぐ |
当山の開基などの年代は詳らかでないが、古くより存在し、元は観音堂の聖観音により、遠近の人々に知られていたという。
1620年(元和6年)から1624年(寛永元年)に至る5年間は融通念仏宗の高僧で宗門の興隆に力を尽くした円悦上人が住職であった。
『中宮村明細帳』(書かれた年代は不詳)には、西方寺の境内に観音堂、八幡宮社、春日明神社の存在が載せられているが、八幡宮社、春日明神社は1872年(明治5年)、百済王神社に合祀された。
「大正デモクラシー」という言葉は今では歴史の教科書でしかお目にかかれなくなったが、その発端となった小作争議などは枚方の農民が全国の農民運動の中心となっている。1922年(大正11年)後の枚方市長で枚方市の名誉市民となった寺島宗一郎らの小作争議に日本農民組合の創設者である賀川豊彦らが応援に駆けつけ、西方寺の本堂を借りて農民学校が開かれ、その後の農民運動に大きな影響を与えた。
1939年(昭和14年)3月1日に突然起きた禁野火薬庫の大爆発で本堂などの堂宇が焼失、現在の堂宇は戦後の再建である。
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[参考資料] 『枚方市史(昭和26年版)』 |
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西方寺の山門。 |
本堂は1962年(昭和37年)の再建。
元の本堂は1750年(寛延3年)に落成した7間4面の壮麗な堂宇であったという。 |
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境内にある観音堂と安置されている観音像。 |
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境内に建つ13重石塔。
中心の宝珠塔が新しいものに取り替えられているのは、禁野火薬庫の爆発で破損したためか。 |
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河内三十三所観音霊場 |
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[2008年8月6日参拝] |
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