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霊場参拝
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清涼山 長泉寺 所在地:枚方市甲斐田町
最寄駅:京阪本線「枚方市」駅下車、京阪バス「小倉町」方面行きで「甲斐田」下車、西へ約150m
当山は1323年(元亨3年)僧清涼により創建された融通念仏宗の寺院である。
 長泉寺のある甲斐田地区には甲斐田長者の話が伝わるが、 長泉寺にはその甲斐田長者が信仰したという小阿弥陀仏座像(鎌倉時代の作と推定)が本堂の脇壇に安置されている。
 『大阪全志』には、「この甲斐田仏はもとは村人が、甲斐田長者が住んでいたという村の竹藪の中に小堂を建て、これを安置し村の氏神として崇敬されていた」としているが、『枚方市史』では「事実は氏神(八幡神社:現甲鉾神社)の一小堂に安置されていたのが、明治初年の神仏分離で、長泉寺移されてきた」
あり、「長泉寺に移される際、八幡神社の宮座より祭祀料として、毎年米2斗宛を納付したため、これが氏神のご神霊であったかのように誤解された」としている。
甲斐田長者の物語:
 『枚方市史』によれば、『昔、摂津国垂水郷の石氏という村長が、長柄に橋を構築するとき、多言のため人柱となった。その後、石氏の娘が甲斐田長者方へ嫁ぐとき、母は「そなたの父は多言のために失敗したから、口を守ること瓶のごとくせよ」と戒めた。
嫁して後、数か月を経るも何事も語らないので、口がきけない嫁だと思われ、遂に実家に送り返されることになった。
夫とともに垂水に帰る途中、たまたま雉子が鳴いたので、夫が持ち合わせの矢でこれを射止めた。嫁は微吟して「もの言わじ 父は長柄の人柱 雉子も鳴かずば射られまじもの」と詠んだので、直ちに連れ帰られ、偕老の契りを全うした』という。
 この話は大阪市淀川区の大願寺に伝わる「長柄の人柱」の物語と対をなす話である。大願寺に伝わる話ではその時代を推古天皇の御代としているが、甲斐田長者の方は時代がはっきりしない。長泉寺に安置されている甲斐田仏が、伝説通り甲斐田長者の持仏(鎌倉時代の作と推定)だとすれば、鎌倉時代以降の話となるが、これでは時代が合わない。
 また、『枚方市史』には、同様の話が枚方市禁野や豊能郡豊津村字雉縄手(現吹田市垂水)にも伝わっているとのことで、「長柄の人柱」の説話が、時代とともに各地に広がり、その土地の説話と結びついていったものと思われる。

[参考資料] 『枚方市史(昭和26年版)』
長泉寺山門 長泉寺寺山門。
長泉寺本堂。
この本堂は甲斐田村の武兵衛という人が元禄年間(1688〜1704年)に建てたと伝わる。
本尊は阿弥陀仏で鎌倉時代の作と伝わる。
長泉寺本堂
長泉寺観音堂 長泉寺の観音堂。
堂内には聖観音立像と地蔵菩薩象が安置されている。
長泉寺鐘楼 役行者石像
鐘楼には梵鐘がない。
梵鐘は先の大戦で供出したが、その後再建されていない。
鐘楼の観音堂の間に小さな役行者の石像があった。
ご朱印
河内三十三所観音霊場
長泉寺朱印
[2008年8月20日参拝]

寺院-245/TTL-657

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