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史 跡
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高津宮址(たかゆのみやあと) 所在地:
高津高校:大阪市天王寺区東高津町
旧坐摩神社:大阪市中央区石町2丁目
旧八連隊跡:大阪市中央区法円坂1丁目
難波宮跡:大阪市中央区法円坂1丁目
 仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」はどこに置かれたかは江戸時代より諸説があり、明治に入ってからも、盛んに論争されているが、主なものを挙げてみると
@「延喜式」神名帳の「宮中神62座」に見える神社で、現在の「坐摩神社」生国魂神社」が、元は高津宮内に祀られていたのを拠り所とし、これらの神社の旧地の位置から高津宮を「現大阪城の地」に比定する説。
A「日本書紀」仁徳天皇14年の条に『大道を宮中に作る。南門より直ちに指して丹比邑に至る』とあるところから、南門大道の位置比定より法円坂1丁目にあった「旧陸軍第8連隊兵営内の平坦地」に比定する説。
B「日本書紀」仁徳天皇12年の条にある『高津宮の北に掘られた堀江』を今の大川に当たるとして、「大阪城外濠南方の高台」に比定する説。
C「日本書紀」仁徳天皇38年の条では『仁徳天皇と皇后の八田皇女が高殿に登って暑さを避けた時、「菟餓野」から鹿の鳴き声が聞こえた』とあり、この「菟餓野」が現在の大阪市北区兎我野町付近の野だったとして、「上町台地の北端」を比定する説。
D近年上町台地の法円坂一帯で7世紀の難波宮が発掘されており、高津の宮も法円坂周辺にあったと見る説などがあり、現在ではDが最も有力な説とみなされている。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
高津宮址の碑 大阪府立高津高校の校庭にある「高津宮址」の碑。
この碑は1899年(明治33年)「仁徳天皇1500年祭」を記念し、高津宮所在地の諸説を按配して、当時の東区東高津餌差町に建てたが、その後、道路拡張工事のため、現在地に移されている。
大阪市中央区石町「旧坐摩神社の所在地」と伝わる辺り、現在は同社の行宮がある。
この辺りは、かっては「渡辺津」と呼ばれ、淀川の交通の要所であった。
写真中央の通りの左手に見える緑の所に「坐摩神社行宮」がある。

坐摩神社お旅所-1 坐摩神社行宮は「豊磐間戸・
 奇磐間戸神社」が祀られており
 「神功皇后の鎮座石」が格子で
 保護されているが、いたずらに
 よるものか、無残にも砕かれて
 いたのは残念なことである。
坐摩神社お旅所-2
旧陸軍第8連隊跡 大阪市中央区法円坂1丁目「難波の宮」の西端にある「歩兵第8連隊跡」の碑。
子供の頃は、スポーツの試合などで負けが続くと『又も負けたか8連隊』との言葉をよく交わされたものだが、今では死語となった感がある。
「難波宮」の大極殿跡から大阪城を望む。
せせこましい大阪の中にあって、空間が確保された、数少ない場所の1つである。
「難波宮」は孝徳天皇の前期難波宮(難波長柄豊碕宮)と聖武天皇の後期難波宮が確認されている。
このように古い都を壊し、そこに新しい都を作った事実から見ても、時代を更にさかのぼり、この地に「高津宮」が在った説もうなずける

前期難波宮:650年(白雉元年)頃造営開始〜686年
  (朱雀元年)失火により宮殿全焼。藤原京へ遷都。
後期難波宮:728年(神亀3年)造営開始〜793年
  (延暦12年)頃、難波宮廃止。
難波宮跡

史跡-032/TTL-198

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