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所在地:大阪市中央区久太郎町4丁目
最寄駅:地下鉄中央線「本町」下車、中央大通りを西へ、大阪センタービル西側を南へ入るすぐ |
当社は「摂津国一の宮」として、生井神(いくいのかみ)・福井神(さくいのかみ)・綱長井神(つながいのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)の五柱を祭神として祀る。この五柱を総称して、坐摩神(いかすりのかみ)というとのことであるが、通称は『ざまさん』で通っている。
当社は神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島の渡辺の地(現在当社の行宮がある中央区石町付近:天満橋の西方)に奉祀されたのを始まりとする。
1582年(天正10年)豊臣秀吉の大坂城築城に当り、替地を命ぜられ、寛永年間(1624年~44年)に現在地に移転している。現在の坐摩神社の旧地名を渡辺町というのも元の地名も併せて移したものであり、全国の渡辺・渡部姓の発祥の地とされている。(現在は久太郎町4丁目・渡辺3号という形で渡辺の地名はかろうじて残されている)
平安時代の「延喜式」には、摂津国西成郡(今の大阪城より西方一帯)の唯一の大社と記され、産土神として現在に至っている。
「坐摩(いかすり)」の語源として諸説あるらしいが、神社のパンフレットによれば、土地または居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じたとの説を採っている。
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[参考資料] 『坐摩(いかすり)神社御由緒略記』 坐摩神社パンフレット |
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御堂筋の方から入ってくれば、丁度「南御堂」と「伊藤忠」の裏側に面したところに、大小3つの鳥居が横に合わせた「三門形式」の鳥居がある。
右側の写真は閉門間際に参拝したので、夕陽が西に沈むタイミングとなった。 |
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1936年(昭和11年)官幣中社に列せられた際に造営された社殿は、先の大戦の空襲で焼失。現在の社殿は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート作りで、戦前の姿のまま再建された。 |
境内の東側には、境内末社(相殿神社、天満宮、大國主神社、繊維神社、大江神社)が並んで祭られている。 |
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境内の西側(裏門から入ったところ)にある境内末社の「稲荷神社」。左側の建物は陶器神社(下の写真)。 |
境内末社「火防陶器神社」。
この神社は戦前は北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側に二百数十店もの陶器店が軒を並べ、戦後は西横堀川に再建された陶器問屋の守護神といわれ、当初は西区靱南通一丁目にあったが、1907年(明治40年)市電敷設の道路拡張のため、現在の地に移転された。
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本殿両脇の灯篭は清水焼(右)で、その左側に見える灯篭は信楽焼が奉納されている。 |
1993年(平成5年)皇太子ご成婚記念に奉納された信楽焼の灯篭。 |
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[2004年3月13日参拝] |
[2010年5月16日参拝] |
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