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所在地:大阪市平野区平野宮町2丁目 杭全神社境内
最寄駅:JR大和路線「平野」下車、線路沿いの道を東へ約400M、
公園とマンションとの間の道を南へ、左手の神社の塀に沿ってしばらく行けば神社しめ柱横に出る。石碑はしめ柱をくぐった所にあり |
平野の囲濠は、いつ頃掘られたものか不明であるが、戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市で、自衛と灌漑・排水用あるいは洪水の調節池として、集落の周りを囲んでいた。
ここ平野は南北朝から戦国時代にかけ摂河泉の中継点に当り、交通の要衝であり、平野周辺を確保しようとする勢力によって、度々戦火に巻き込まれている。そこで、郷民は自らの生命と財産を守る手段として、町の周囲に2重の壕と土居を築き、遠見矢倉を設け外敵の奇襲に備え、各地の街道に通じる、13の出入り口に、総門を構えた強固な防衛施設を持つ自治都市を創り上げた。
また、濠が平野川ともつながっていたので舟運もひらけ、繁栄の基礎ともなり、河骨池口付近(現、平野市町3丁目付近)には船溜りがあり、平野川を上下する柏原船の発着で多いに賑わったといわれる。
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[参考資料] 『平野郷小史』 杭全神社パンフレット |
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杭全神社の境内の一角にある「平野環濠跡」の石碑。
この付近は土が盛り上がっており、土居(堤)の名残りと思われる。 |
石碑の東側、神社と外周の歩道の間に環濠の一部が残っている。訪れたとき(2004年4月13日)は桜の花が満開だった。 |
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平野東2丁目にある13門の1つ樋尻口門跡。樋尻口門は八尾久宝寺への出入口となっていた。
出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当ったとのことであり、明治の初め頃まではその役割を果たしていた。
この「樋尻口門跡」石穂の横には交番があり、現在に至るも同じような役目を果たしている。 |