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所在地:大阪市北区太融寺町 太融寺内
最寄駅:梅田阪急百貨店前交差点より東へ約600M |
豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である淀君の経歴についてはここで改めて記す必要もないが、秀吉の死後、1599年(慶長4年)秀頼と共に大坂城西の丸に入り豊臣の再興を画すが、1615年(元和元年)5月8日、大阪夏の陣で大坂城落城により秀頼とともに自刃した。
何故淀君の墓が太融寺にあるのか、太融寺の資料によると『1615年(元和元年)5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、淀君の崇敬が殊のほか篤かった大坂城外鴫野弁天島(現在の大阪ビジネスパークの辺り)の「弁天社」の隣に一祠を作って埋められた。これが「淀姫神社」である。
1877年(明治10年)11月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り、この「淀姫神社」が生国魂神社に移祀されることとなり、豊臣家に縁の深い当寺に埋め「九輪の塔(戦災により損傷し六輪となる)」を建て境内西北隅に祀った。』とのことである。
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[参考資料] 『淀の方墓』 太融寺ホームページ
『生国魂神社略誌』 生国魂神社パンフレット |
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奥にある六輪塔?が淀君の墓。手前に藤見東洋という人の漢文で書かれた「弔碑」が建てられている。 |
淀君の墓と向き合って建っている「淀君の経歴」を記した石碑。これによると淀君の法名は『大虞院英岩』という。
この碑は1988年(昭和63年)5月の建立。 |
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梅田方面から東へ7〜8分ほど歩いてくると、太融寺に行き当たるが、「淀君の墓」は丁度この塀の後ろ側辺りにある。 |